Ⅲ
全身を覆う紺色のローブ。それに付いたフードを深く被り、顔立ちは影がかかりよく見えない。暗い色調かつ地味な風貌の男。それがアルバートの第一印象だった。
ただそんな出で立ちの中で、右目に付けられた金縁のモノクルだけは目立っていた。
「クローさん。やっとお出ましですか」
「何をしているのか訊いている」
男はレンズ越しに見えるヴァイオレットの目をメノウに向けて言った。扉から反対側の壁にある窓、そこから射し込む日光が、モノクルのレンズと金縁を光らせる。
「また探偵ゴッコか。くだらん」
クローと呼ばれた男はテーブルに置かれた新聞を一瞥すると、吐き捨てるように言った。
次いで彼は横目でアルバートを見詰める。その猛禽類に似た鋭い目に、アルバートは思わず肩を震わした。
「貴様も運がないな。こんな木偶に目を付けられるとは。こいつはただネタを集めたいだけだ。貴様は所詮、その為の道具として利用されてるに過ぎない」
「そんな事はないですよぅ。ぼかぁ魔法を解いて、事の顛末を見届けたいと思ってるだけですから」
「魔法絡みならば尚更くだらん。事件ですらない。ただの勘違いだ。放って置いても直に解ける」
モノクルの金縁が、また光る。
「解けん魔法はない」
そう言って、クローは部屋の中へ荒い足取りで進み、メノウが座るアームチェアの横へ向かう。
そして「立て」と短く一言発した後、間を置かずにアームチェアを蹴った。メノウは不服そうに口を尖らせるが、素直に立ち席を譲る。クローは乱暴に腰を下ろした。
この人は何者なのだろうか。色々と言いたい事があったが、クローは全てを押し退ける威圧を放っていて、アルバートは閉口するしかなかった。この男、もしや場数を踏んだマフィアか殺し屋ではないだろうか。
「アルバートさん、この人はクローディオ・クォーツっていうこの時計塔の主です。ぼかぁクローさんって呼んでますけど」
アルバートが何も言えないのを察してか、メノウが軽くクローディオ・クォーツことクローの紹介をする。それが癪に触ったのか、クローの威圧感が増した。
しかし肝が座っているのか何も感じていないのか、メノウはクローに臆せず、むしろ先ほどよりも明るい声で話し始める。アルバートはあまりに対照的な二人を前に困惑した。
「そしてこの方こそ! 噂にもなっている、数々の怪事件を解決した張本人……」
「その噂を流した張本人は貴様だろうが。法螺を吹くな」
得意気に説明するメノウの台詞を遮り、クローは鬱陶しそうな視線を彼に向けた。
「法螺じゃあありません真実です!」
ビシッと爪をマゼンタに塗った指先をクローに突き立て、メノウは胸を張る。
クローは露骨に嫌そうな表情を浮かべた。
「この木偶が……。要らん事をしようとしてるわ、勝手に珍客を入れてるわ、俺の椅子で寛いでいるわ、留守番もまともに出来ないのか」
「木偶って呼ばないでくださいよぅ、ちょっと新聞買いに行ってただけですって。それにアルバートさんは一ヶ月も魔法に悩まされているんですよ? 解いてあげましょうよ」
話が見えない。クローがこの時計塔の住人、主ならば、メノウとは? 留守番をしていたという事は同居人だろうか。それと噂を吹聴した張本人がメノウ、というクローの指摘も気になる。
もしや、メノウの職こそ記者で【楽園】を吹聴し、時計塔の噂を流し関係者を釣り、聞いた話を飯の種にする為にここへ招いたのだろうか。純粋な親切のみで協力して欲しい、など図々しい事は願わないが、世間体に響く事をされるのは困る。
「だから魔法なぞ、……。おい貴様」
「は、はい」
クローに低い声で呼び掛けられ、ビクリと肩を震わせるアルバート。
「先に言っておく。こいつは法螺吹きだ。魔法など夢物語を真顔で語るから騙されるかもしれないが、全部作り話だ」
「はい?! ちょっとクローさんっ」
メノウは裏返った声を上げた。
「狂言に惑わされるな。大体、魔法なぞ存在する筈がないだろう。しかも科学が進んだ現代であると言い張るとは愚の骨頂。尤も科学が進んではいるが、世の中にはまだまだ不可思議な事がある。全てを解明した気になるのは早い。しかし例え人間から見て不可思議な現象が起きても、それは必ず摂理に従っている。つまり魔法に思えるのは単なる錯覚だ。それか故意的なマジックだ。どっちにせよ勘違いだ。信じるのは勝手だが貴様らの妄想に俺を巻き込むな」
「さっき『解けない魔法はない』って堂々と言ったじゃないですか! つまり魔法の存在を認めたのに、何故今になって否定するんですか!」
「黙れ木偶。魔法は人の誤認だ。ゴーストや超能力よりも遥かに真偽が怪しいオカルトだ。貴様も頭が弱いか、ピュアと書いて阿呆と読むガキと思われたくなければ、魔法なぞ存在しないと装っておけ」
「あ、分かりました。『常識に訴えて魔法は存在しない事にする作戦』ですね?! それで無力を装って無関係を決め込む気ですね! そうはいきませんよ!」
長い作戦名だな、とアルバートは半ば現実逃避する様にどうでも良い事を考えていると、
不意に、
頭が
動かなくなった。
考えようとして、何かを思い浮かべる前にかき消される。まるで宙に浮いているかの様に何も出来ない。その場から動く事さえ出来ない。
ただ目の前にある物を見るしか出来ない。
羽もないのに空を泳ぐイルカ。
青々とした草原を優雅に歩く像、麒麟、犬、兎、鳥、狐、猫、獅子……。
どの動物も細部まで表現されず、デフォルメされている。
画用紙にクレヨンで描かれた様な、太陽が見当たらない薄暗い空と薄暗い草原。
中央には、赤と青のストライプの、サーカスを彷彿とさせる三角形のテント。
開いたテントの隙間からは、深淵が覗いている。
深淵がこちらを覗いている。
足元に散らばる布。生地。糸くず。
デフォルメされた動物たち。
縫い目がある。
深淵が見ている。
見られている。
背後から手が現れる。
自分の体を掴んでしまう程の大きな手。
掴んで、持ち上げられて、足がもげて地面に落ちた。
もげた所から綿が零れ落ちる。
……カチ、……コ、チ、
手を上げる。指を見る。
手の甲と平の境目に縫い目がある。
針が視界に入る。
糸が通された鋭利な針が。
針の先が足が取れた箇所に向けられる。
カ。チ、コチ、カ。チ、コチ、カチ。
カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、
時計の音が耳から離れない。五月蝿い。
今は何時だ。朝なのか。朝なら起きなければ。
起きなければーー
はっと、意識が覚醒する。足から綿は飛び出ていない。まして取れてもいない。
何だ夢かと、アルバートはぼんやりと考える。そして段々とクリアになっていく視界に、クローとメノウの姿が映り、ここが何処か、自分は何をする為にここに居るのかを思い出した。
「え、あ、私寝てました!? すいません人の家で……!」
「いえ寝てません」
メノウは至って真面目な表情をして言った。そんな彼の耳は、青筋を浮かべ腕を目一杯伸ばしたクローに力一杯引っ張られている。
「つまり今のが痛たたたた、クローさん痛いですって! 魔法です、魔法っ。何ならもう一回痛たたたた!」
「貴様は寝ていたんだ。今のは夢だ夢。白昼夢。例え何度同じ夢を見ようがそれは夢だ。記憶の一部だ思考の具現化だ」
「魔法だってそんな物でしょう。ただその具現化した対象が他人の物ってだけで痛たたたた!」
五月蝿くなったのか、クローはメノウから手を離す。次いで何か思い付いたらしく人差し指を立てた。
「よしこうしよう。メノウは他人に好きな夢を見せれる超能力がある。と言う訳だ、解決する力はない」
「何ですかそのヘンテコ能力は。そうだとしても、解決出来る力はぼかぁ端から持っていませんよ。さっきの魔法だって解いたのはクローさんでしょうに」
片耳を抑えながら得意気に言うメノウ。それが事実なら、魔法を使ったのはメノウで、解いたのはクローという事になる。
先程の、一分もなかった夢を思い返す。サーカスとおもちゃ箱を足した様な世界の夢。あれは確かに、アルバートでは見る事のない夢だ。
アルバートは縫いぐるみにもサーカスにも、殆ど縁がない。だが嫌に生々しかった。よく見た事もないフェルト生地の質感が、自分の手が、はっきりと目に焼き付いていた。
あれはきっと、魔法にかけられたからだ。
メルヘンチックながら何処か薄暗い空間の中で、縫いぐるみになるという魔法に。
夢と同じように徐々に記憶が朧になっていくが、間違いない。魔法があると信じるには充分だ。摂理にそぐわない不可思議な力があると思わせるには、充分だ。
再度依頼しようとして、アルバートは顔を上げる。目前に座る当のクローといえば、威圧感がこれ以上ないぐらい高まっていた。直視出来ないアルバートは、取り敢えず話題を反らそうと先程訊きそびれた事を口にした。
「あ、あの、メノウさん。そういえば、貴方の職業は何ですか? 記者か何かで?」
「僕の職業ですか? 《人形使い》です」
「《傀儡師》だろ」
「いや人形使いですって」
「お前は木偶だからな。傀儡師が似合う」
「そうですかー……」
クローに有無を言わせない程に言い切られ、メノウは力ない声を発した。
アルバートから見て、二人とも嘘を言っている様には見えない。メノウの職業が記者でないのならば、《ネタ》とは何の事だろうか。アルバートが問い掛ける前に、クローがその答えを言った。
「そう、貴様は傀儡師だ。戯曲家ではない。磨くのは傀儡の扱いで充分だというのに、何故自ら厄介事を持って来るんだ」
「ぼかぁ人形劇に新しい風を、と思っているだけですよ」
「茶々を入れると言う名のネタ集めに、俺を巻き込むな」
どうやらメノウは事件に関わり、人形劇の戯曲の参考にする事を目的にしているらしい。人形劇に限らず、演劇は民話や神話をよく扱う。
新しく話を作るとしても、それは文芸家の仕事だ。裏方であり役者でもある彼自身が手掛けるのは珍しい。
「全く、最近は警察官から何通も手紙が来る始末だ。公僕相手に無視は出来んと、わざわざ返事をしても何度も送ってきよって……。便箋代も馬鹿に出来ないというのに」
それはきっと、その返事の内容が全て断りだからだろう。魔法を否定する事は諦めたらしいクローは、親指の爪先を齧り苛立った。
メノウの言った通り、クローは警察官にも頼りにされる存在の様だ。一体彼は何者なのだろうか。アルバートは意を決して、一触即発と思うほど不機嫌になっているクローへ問い掛けた。
「クローディオ、さん。あの……、貴方の職業を訊いても……?」
「あぁ、言っていませんでしたね。アルバートさん、クローさんは《墓守》なんですよ」
「墓守、ですか」
探偵でないのなら教師や学者など、知識があり頭が回りそうな職業をアルバートは想像していたが、墓守という答えは全く予想していなかった。
「そう。【ニル】の墓地は公営なので、クローさんも公務員と言えば公務員です。ですから余計、同じ公務員の警察官とかには強く出れないんですよねぇ」
「一番恐ろしいのは町長にクビを言い渡される事だがな。減給も嫌だが」
どうやらクローは何よりも現職の解雇を恐れているらしい。しかし正直な所、墓守という職は低賃金で、卑しい身分の人間が就く職とされている。現在その習わしは緩んできてはいるものの、風評はいいとは言えない。
「墓守って、そんなにいい仕事ではないでしょう? 何故執着するのですか?」
クローは年老いている訳ではない。見た目より年上だとしても三十に達するかしないかだろう。今からでも充分他の職に転職出来る年だ。何もこの職に固執する事はない。
それとも何か深い理由があるのだろうか。それも他人に触れて欲しくない程の。その可能性に気付いた時、アルバートは失言をしてしまったと己を恥じた。
「ふん。そんなもの決まっている」
しかしクローはアルバートの心境を余所に、あっさりと返答した。
「墓地が時計塔と隣接しているからだ」
それも、常人には理解出来ないような理由を、真顔で。
「……」
何と返していいのか分からず、アルバートは押し黙る。
確かに時計塔の裏手に墓地が見えた。墓守ならば時計塔を至近距離で、眺めながら働けるだろう。しかしだからと墓守に就くのはあまりにも安直だ。
メノウは呆れた様子でやれやれと肩を竦めた。
「アルバートさん、クローさんはこういう人なんですよ。この人は大の時計好きで、時計の為なら何だってやる変人なんです。公共物だったこの時計塔を無理矢理買い上げ、私物化するような人なんです」
「貴様に変人呼ばわりされたくないわ」
猛禽類に似たヴァイオレットの目がアルバートを見据える。アルバートは蛇に睨まれた蛙の様に息を飲み体を強張らせた。
「これ以上付き合う気はない。用がないなら帰れ貴様。ここは俺の家で貴様らの溜まり場ではない」
「いえ、あります!」
がたりと大きな音を立ててアルバートはアームチェアから立ち上がった。
「クローディオさん、どうか私に力を貸してください! 助言だけでも構いません! どうか、どうか……!!」
メノウの立つ側とは反対、クローから見て左側へと移動した後、アルバートはステッキを足元に置き、あまり綺麗ではない床に手を付き頭を下げ、懇願した。その声は悲痛で切実で、彼の切羽詰まった心情が伝わる。
『アルバート様、ほら、小鳥が見えますわ。可愛らしい……。やっぱりピクニックに来てよかったですね』
ダイヤモンドの指輪が視界に写る。婚約者の声が頭に響く。早く、会いたい。
「断る」
だが、クローの返答はあまりに無慈悲なものだった。
アルバートの表情が絶望に染まる。
「そんな……っ!」
「クローさん。アルバートさんはわざわざ隣町から来てまで、貴方を頼りにしてくださっているんですよ? 少しくらい力を貸してあげたらどうですか?」
メノウは小さく「またか」と呟いて、アルバートの援護をした。しかし彼は首を横に振り拒否の意を示す。警察官の応援を断ったのも含み、クローは事件に関わる気は全くないらしい。
「何なら僕が頑張って報酬用意しますからっ。今度南国行くんで、その土産とかどうです? 勿論、時計の」
「いらん。何でも時計を渡せばいいと思うなよメノウ」
クローは片眉を潜め、ぶっきらぼうに言った。