Ⅰ
※ここから先、グロテスクな描写が増えます。苦手な方はご注意ください※
宙に浮かぶ歌う胸像。弾き手がいないまま奏でられる楽器。無秩序に飾られた絵画の中でワインを飲み干す人々。そんな異様な空間をした、屋敷の中で最も広いだろうダンスホール。
天井には宝石の装飾と共にぶら下がる幾つものシャンデリア、ギリシャの神話を模した壁画、鏡の様に姿を写すまで磨かれたフローリング、その上にひしめき合う百人近い男女、ホールの両端に置かれたテーブルを埋め尽くすご馳走、その奥、赤いカーペットが敷かれた高台の上に置かれた玉座に似た背凭れの高い肘掛け椅子、その頭上の壁に飾られた大きな掛け時計。
万華鏡の覗いたかの様に華やかで美しく、宮殿と見まごうばかりの場所が、そこにあった。
「……」
踊り狂う男女が居るその空間へ、アルバートはその身を投じた。
「一人で大丈夫ですかねぇ」
「魔法にかけられる事はあっても、危害を加えられる事はない筈だ。俺達はアルバートが無事なまま、魔法使いを見付けられるかを祈るくらいしか出来ん」
二階のギャラリーから一階のホールの様子を探る、メノウとクロー。下に居る人間と混じってもよかったが、全貌を把握出来るギャラリーにいた方がフォローに回りやすいと判断した。
「変装も意気込みも何も要らん。ただ踊りたい女と踊ればいい。そいつがきっと……」
◇◇◇◇◇
(昼夜関係なく礼服を着ている、確かに着替える必要はなかったな)
モーニングコートを着ていたりローブデコルテを着ていたり、フロックコートを着ていたりアフタヌーンドレスを着ていたりと、踊りにくさなど欠片も考えていない自由な服装を着た人々。それは豪勢なホールがちぐはぐに感じる程だ。その中ではアルバートの格好も馴染んだ。
近場の女性を誘い、一曲踊ろうかと思いながらアルバートはホールの端を歩き奥へと進む。少々古風なデザインの大時計は、もうじきアラビア数字の十を指そうとしていた。十時に部屋を出た筈だが、大時計が狂っているのか結界内の時間がおかしいのか。普通とは違うのだなとアルバートは不意に笑みを零した。
(時間の事を考えている場合ではないか。私も踊らなくては不自然だろし……)
それに結界の中とはいえ、豪勢な舞踏会である。記念に踊ってみたい気持ちもあった。しかしざっと見渡した所、多くは既にペアを組んでいて空いている女性がいない。
そもそも男女比が均等ではなく、男の方が多いらしく、余った男は豚が餌を貪る様に暴飲暴食に励んでいた。
(参った……。曲が終わるまで待つしかないかな……?)
リンゴーン、リンゴーン
大時計の針が十時を指したその瞬間、どこからか鐘の音が響いた。
続いて玉座が置かれた高台が盛り上がり、数段だった段差の数を増やす。続いて左右のギャラリーが形を変え、その高台へ繋がる階段を形成した。
新たに形成された階段を、いつの間にか姿を現した一人の若い女性が、くだる。
純白のドレス、パールで作られたティアラ、顔全体を覆う薄いベール、肘を越す長さがあるグローブ。
まるで、ウエディングドレスを着た花嫁の様な格好をした、女性。
『アルバート様。今夜は沢山、踊りましょう?』
彼女の名を、アルバートは知っていた。
「……レベッカ?」
レベッカ・カークランド。ブロンドの髪とエメラルドに似た瞳と、艶があり透き通る様な白い肌を持つ女性。
婚約者と同じ容姿をしている別人なのか、それともその人なのか。アルバートは花嫁の格好をした彼女を凝視した。が、やがて階段へ足を運び玉座の横に立つ彼女の前に立った。目線が合うよう、数段下の足場の上に。
「こんばんわ、お嬢さん」
優しく、柔らかく、囁くように言うアルバート。
「……貴方はだぁれ?」
鈴を転がした様な綺麗な声で、花嫁は問いかけた。
少し悲しそうにアルバートは微笑む。
「私はアルバート・チェンバレンです」
「そう」
「貴方の、お名前は?」
「私は、レベッカ」
「レベッカ、何のですか?」
「私はレベッカ。ただの、レベッカ」
花嫁姿のレベッカは、ベール越しに見える、真っ赤な唇が弧を描く。
「ではレディ・レベッカ。私と一曲、踊りませんか?」
片膝をつけ、アルバートはレベッカへ手を差し伸べる。レベッカはまた朗らかに微笑むと、
「イヤ」
素っ気ない声でそう言って、アルバートの横を通り過ぎて行った。ダンスホールまで下りた彼女の周りには、先程まで暴飲暴食に耽っていた男が歯の浮く言葉と共にワルツに誘っている。
「美しいお嬢様」
「気品溢れるお姫様」
「是非とも私と」
「是非とも僕と」
「うふふふ。誰と踊ろうかしら」
アルバートは自分が動揺しているのがわかった。背後で交わされる会話が遠くに聞こえる。人混み、酒の匂い、汗の匂い、香水の匂い、笑い声、歌い声、全てが狂おしく思えた。頭が痛い。吐き気がする。
彼女は、嫌だっただろうか。ワルツが、婚約が、結婚が。ずっと拒否をしたかったのだろうか。そう言えば、いつだか訊いた事がある。
『君は私がお金を持っているから、傍に居てくれるのかい?』
それを聞いた彼女は、エメラルドに似た瞳を皿の様に丸くして、ぱちくりと瞬きをして、そして静かに微笑んだ。
『アルバート様。私もお金は好きよ。だって、綺麗なお洋服が買えるもの。色んなお化粧品が買えるもの。大きなお家に住めるもの。美味しいご飯が食べれるもの』
彼女は決して献身的で無欲な《聖女》ではない。
『でもね、私は貴方とお喋りしている時が、一番好き』
《聖女》を彷彿する心を持っているだけで。
「レディ・レベッカ」
アルバートは階段を下りて、レベッカの肩を強めに掴んだ。不思議そうな表情をして、彼女は振り返る。
「どうか、私と踊ってください」
「どうして?」
「今の君は、世界の誰よりも美しいから」
歯の浮く台詞を言って、少し強引に手を握って、グローブ越しの口付けをすれば、レベッカは至福そうに微笑んだ。
「おべっかがお上手ね、アルバート様」
◇◇◇◇◇
「やや。一回振られながら再び誘う事に成功しましたね、アルバートさん」
ギャラリーからアルバートの様子を見守っていたメノウが呟く。
「しかしクローさん、これからどうするつもりで? 恐らく彼女が《魔法使い》でしょうけど、アルバートさんはこれ以上何も出来ませんよ」
「後は情報収集だ。魔法使いという決定打と、《器》が何なのか特定する為のな。本当は寝物語が有効だと思ったがな……。チッ、使えん木偶め。だから貴様は木偶なんだ」
「うっ。いやでもほら、僕がフォローに回っている方がもしもの時に安全ですしっ」
「フォローぐらいなら俺一人でも出来るわ。くだらん。この茶番もくだらん」
クローは冷め切った目で、男女が優雅に踊るダンスホールを見下ろした。
「魔法で叶えられる願いなど、何一つありはしないというのに」
◇◇◇◇◇
豪勢なホール。美しい音楽。美味しい食事。極上のワイン。一様に整った顔を持つ男女。その誰より美しい花嫁。
その誰よりも美しい花嫁とワルツを踊るアルバートは、囁くように問い掛けた。
「……レディ・レベッカが好きな物は何ですか? 食事? ワイン? ダンス? ドレス? 身分? お城? それとも全てを買えるお金ですか?」
「あら、どうしてそんな事を訊くの?」
「私はお金と身分くらいならば持っていますから、望めば貴女に差し上げられる」
ただし有限ですが、とアルバートは悪戯っぽい笑みと共に付け加える。レベッカもつられてか悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「高価な宝石」
一歩、
「色んなお化粧品」
二歩、
「綺麗なお洋服」
三歩、ステップを踏む。
「でもね、一番欲しいのはね」
くるりと純白のドレスの裾を広げて、ナチュラルターンをするレベッカ。
「若さ」
手を繋ぎ直し、リードするアルバート。
「美しさ」
アルバートの背に手を回し、彼女は惚けた表情で言った。
「鏡さん、鏡さん。私は美しいですか?」
「……はい、この世の誰よりも」
ここにない魔法の鏡の代わりにアルバートは答える。
「うふふ。ねぇアルバート様、私は綺麗でしょう?」
「はい、とっても。例え高価な宝石がなくても、多彩な化粧品がなくても、綺麗なドレスがなくても、貴女はとても綺麗なままでしょう」
「うふふふ。本当、おべっかがお上手」
レベッカの頬が林檎色に染まる。
「しかしレディ・レベッカ」
「なぁに?」
「私は例え美貌と若さがなくとも、愛する事が出来ると思います」
ふと、レベッカのステップを踏んでいた足が止まる。その表情は、無だった。
「……私は若くない、美しくないという事?」
ダイヤモンドダストの様に冷たい声が、レベッカの口から発せられる。
「違います。しかし貴女の魅力は決してそれだけではな」
「私は綺麗でありたいわ!」
レベッカが叫んだその瞬間、
彼女を除いたダンスホールに居た女性全ての首が、木っ端微塵に吹き飛んだ。
「!?」