Ⅰ
「……ここが、《結界》の中……」
魔法にかかっていない所為か、招かれず侵入した所為か、時計塔の時とは違い思考はしっかりと動き、また体も難なく動かせる。
辺りは月明かりだけがやけに目立つ薄暗い森。目の前は舗装されていない獣道。木の根が剥き出しで、歩くのも難しい。先程の墓地や町の面影はなく、歪ももうどこにもなく、ただ何処までも樹海が続いていた。
初めて訪れる場所。結界の中という非現実的な場所。だが見た事がある。どこだったか。確かつい最近ーー。そう、夢の中で見た。
アルバートは朧げな夢の記憶を頼りに、足を進める。
「おい」
唐突に、声をかけられ腕を掴まれた。アルバートは「ひぃっ!?」と情けない悲鳴を上げてしまう。よく見ればそれは紺色のローブを纏ったクローの手だ。
暗闇に溶け込み、クローの姿が全く見えなかったアルバートは、ばくばくと高鳴る心臓を落ち着かせた。
「クローディオさん、居たんですか……」
「ヤケに落ち着いているな貴様。そして何故そっちに迷わず行こうとした」
「いえ、えっと、特に深い理由はなくて……。夢の中で似た景色を見て、確かこっちに屋敷があったなと……。その、ただの勘です」
「夢?」
クローが顔をしかめる。
「おいアルバート、貴様【楽園】の存在はいつ知った?」
「【楽園】の噂ですか? それはこないだ【ニル】に行った時に、新聞を読んで初めて」
「【ニル】で初めてか。【ウーヌス】で聞き込みを行ったのはいつからだ」
「いつ……。本格的に動いたのは最近ですが、婚約者が居なくなった当初から、彼女の家の近所の方々に様子を伺った事はありました」
「……貴様の探しているその女は最初の被害者、だったな」
「そうです。彼女を初めとして人が行方不明になっていきました」
「その女は確か、家の中で蒸発した。それで合っているか?」
「はい。彼女だけ家の中で消えてしまったんです」
「その家は墓地の近く、だったか」
「そうですが?」
「……成る程、“貴様”か」
「は?」
「ならば合っている筈だ。行くぞ、アルバート」
「え、あ、はい」
問答の末、墓守に言われた事と同じ事を言われたアルバートは、首を傾げながらも樹海を進む。
凸凹と足場が悪い上に草木が足に絡み付く中、クローはローブを纏った身で悠然と森を進んでいた。以前に樹海でも探索した経験でもあるのだろうか。
やがて、開けた場所に出た。無秩序に草木が生えた森の中とは全く違う、草原、と呼ぶのが相応しい場所だ。クリケットの試合が出来そうな程に広いそこの中央に、大きな屋敷が建てられていた。
ゴシック様式とロマネスク様式を組み合わせた、豪華で上品な屋敷。新聞に書かれていた屋敷そのものだ。窓の数から恐らく三階建て。下手な城よりも大きく、立派な造りだ。
「本当にあった……。この中に、【楽園】が……」
屋敷を見上げ、アルバートは体を強張らせる。覚悟はしてきたが、やはり緊張はしてしまうものらしい。
するとクローは口元に指を当て、静かにするようジェスチャーをすると、屋敷の正面から左手の側面の方へ移動を始めた。アルバートもそれに続く。
「いいかアルバート。ここからは完全に潜入する形になる」
クローは小声で言う。
「正面突破など派手な事が好きなら止めんが、そんな事をしたら直ぐ捕まり魔法にかけられる、つまり主導権を握られる。結界の中とは所謂、魔法使いの張った《蜘蛛の巣》だ。その巣に引っかかれば後は餌になるしかない」
『結界に招かれた人間は、魔法が解けるまで魔法使いの玩具です。全てが支配されてしまう。その間、何も出来ません』
初めて会った時に、メノウが言っていた言葉が脳裏を過る。それを回避するには強制的に結界を破り、秘密裏に侵入をしなければいけないのだと。
しかしそれも、見付かり御用となるまでしか回避出来ないのだろう。
「まぁ、全く何も出来ない訳ではない」
が、アルバートの思考を読んだかの如くクローはそう言った。
「え!? あの、メノウさんは何も出来ないと言っていたんですが……」
「あ? 木偶が、法螺を吹きよって……。あのな、人が寒熱の耐性に差があるように、魔法も耐性に差がある。特にメノウはちょっとやそっとでは主導権を渡さん。何せマインドコントロールに耐性があるからな、俺より遥かに余裕を持って行動出来る」
「えっ?」
「しかし魔法にかからないよう抵抗するとしても、逆に魔法をかけようと反抗するとしても、どの道《血》を消費する事となる。俺はそれは避けたい」
クローは苛立ったのか、人差し指の爪先を齧る。
「《血》を消費したくないって、どうしてですか? 確か結界の中では、何をしても現実には影響がないのでしょう?」
危険がないからこそクローは同行を許可してくれたのだ。時間こそ奪われてしまうが、それ以外は何のリスクもないと。
するとクローは至極嫌そうに片眉を潜めた。
「アルバート、よく聞け。……一つだけ、厄介な法則がある」
クローは言葉を連ねた。
結界の中という異空間では、時間の影響を除けば、何をされても何をしても現実には反映されない。全ては夢の中の出来事と同じなのだから。
しかしそれは魔法にかけられた人間のみ話である。魔法にかけられていない人間には、かけられた人間にはない、唯一にして最も厄介な法則があるのだという。
「それが《血》の消費だ。《血》の消費だけは現実にも反映されてしまう。そんな法則があるというのに、“半永久的”に血を消費出来る奴の相手などしたくないわ。そんな事をしたら普通にこっちが死ぬ」
「え、死ぬ、って……」
不穏な言葉をさらりと呟かれ、アルバートは碧い目を泳がした。
「あ? 何だ貴様、メノウから聞いていなかったのか?」
「魔法を使う為のエネルギーを《血》と呼ぶのは聞きました。しかし、死ぬとはどういう意味ですか?」
「あの木偶め、中途半端な説明しかしていないな。……死ぬというのはそのままの意味だ。俺は知っての通り、よく訳のわからん名称が付いているエネルギーを《血》と呼んでいる。何故か。その一番の理由はな、」
クローの金縁のモノクルが、月光を反射し輝く。
「消費し過ぎると死ぬからだ」
冷たく言い切って、クローはローブの中をごそごそと探り、懐から小型のスコープを取り出した。それをモノクルを付けていない左目に当て、屋敷の様子を探る。
「クローさん、な、何故死ぬんですか……。魔法は、無意味な力ではないのですか?」
「あぁ? 人間限界に達すれば死ぬだろう。魔法は頭やら神経やらを酷使するからな。過労死だ過労死。だから魔法を使おうなど冗談でも思うな」
「そんな……っ」
「今は深く考えるな。切り替えろ。じゃないと取り込まれるぞ」
衝撃で唖然としていた所に、ぺちりとまた頭を軽く叩かれ、アルバートは「は、はい」と吃った返事をした。
「しかし、窓から見えるだけでも三十人か。人が多いな……」
「人が多い? 失踪した町人は十人程度です、そんなに人が居るとは思えないのですが」
「エキストラは魔法で作ったのだろう。ここは結界の中、そのぐらい余裕だ。……いや、結界が張られていた場所が墓地と考えれば、死人をそのまま流用しているかもな。そちらの方が一から作るより楽だ」
「死者が踊る宴ですか……」
アルバートの脳裏に十四世紀だったろうか、一時流行った【死の舞踏】が過った。死生観の一つで、多種多様な人間が身分も貧富の差も関係なく、一様にして骸となり墓地に行く……。
つまり死ねば全て無になるという事だ。しかしアルバートはそこから派生した版画、《ミヒャエル・ヴォルゲムート》の絵が脳裏に浮かぶ。身分を示す衣さえ脱ぎ、骸となった姿で踊り狂う死者。死の恐怖を前にして半狂乱となった人間の末路。
その末路がまるで、【楽園】のように見えて。この結界の中もまた、その末路と同じなのだろうかと、狂った空間なのかと……。
深読みし過ぎだなと、アルバートはそこで思考を停止させた。
「正面のエントランスホールはやはり論外だ。人が集中していて危ない。窓から見えるホールもロビーもどこも人が居るな。バルコニーは……」
クローはスコープの角度をあげ、チッと舌打ちをする。何を見たのだろうかとアルバートも目を細めバルコニーを見てみると、タキシードを着た紳士とイブニングドレスを纏った令嬢が熱いキスを交わしていた。
柱の陰に隠れいるつもりなのだろうが、生憎こちらからは丸見えである。
「中の人間に見付かり、騒がれでもしたら面倒だ。出来れば誰も居ない所から入りたいんだが……」
「えっと、確か【楽園】は宴をしていると噂されてました。ホールやダイニング、リヴィングには人が居るでしょう。ならそれ以外は人は少ないのではないでしょうか」
「ほぉ。例えば」
「例えば……、書斎、とか」
「書斎か。確かにドンチャンしている時に本など読まないか」
問題はどこに書斎があるかである。クローとアルバートはゆっくりと屋敷の構造を確認しながら、周囲を歩く。屋敷は随分と奥行きがあった。
漸く屋敷の裏庭が見えてきた辺りで、クローはスコープ越しに何かを見付けた。
「……! むっ、あれは……!」
「クローディオさん、どうしたんですか?」
スコープを持たず何も見れないアルバートが問う。
「メノウが居る部屋を見付けた。あの女々しい内装がされた部屋、間違いない」
「本当ですか!?」
思わず大きめな声で歓喜するアルバート。そしてクローも少なからずメノウを心配していたのかと、アルバートは心を温め……
「部屋を与えられ、かつ自分好みに模様替えとは。余裕だなあの木偶……!」
られなかった。安堵するどころか寧ろ禍々しい殺気を放つクローに対し、アルバートはメノウが出会い頭に殺されるのではないかと、彼の幸先が不安になった。
「アルバート、書斎を見付けた。突入する」
「は、はい……!」
クローから発せられるピリピリとした緊張感に耐えながら、アルバートは彼の後に慎重に続く。クローが見付けた書斎は幸い地上階にあり、窓から入るのは容易だった。
「か、鍵が空いていてよかったですね」
「空いてなかったら壊していた所だ。多くの人間はホールで騒いでいるからな、このぐらいの音では気付かんだろう」
薄暗い書斎の中は人一人居らず、天井に届くほど高い本棚のみが陳列している。部屋自体はそれほど広くなく、しかし本棚に収まり切れないほど本に溢れ、紙とインクの匂いが書斎を包み込んでいた。
ただ、本棚に入れられた本も積み上げられた本も、タイトルは全て同じだった。
そのタイトルは、【灰かぶり姫】。
「ほぉ。《シャルル・ペロー》版か。俺は原作に近いと謳われている、《グリム》版の方が好みだがな」
本の一冊を手に取り、べらべらと捲るクロー。彼も童話を読むのかと関心し、アルバートもつられて本を手に取り読む。
継母と義理の姉に虐められた少女の元に魔法使いが現れ、かぼちゃの馬車に乗って舞踏会に出席し、王子と踊り、ガラスの靴を残して家に帰る。そして後に自分を探しに来た王子と結婚する。
大元の流れはそうだ。僅かなチャンスを掴み成功した少女の物語。辛くとも最後は大団円となるドリームストーリー。ペロー版でもグリム版でもそれは変わらない筈だ。
「グリム版だとどう違うんですか?」
「まず魔法使いが登場しない」
「え、」
「当然かぼちゃの馬車も登場しない。そして靴はガラスではなく一晩目は銀、二晩目は金とされている」
「灰かぶり姫の代名詞が……」
「ちなみに靴を落としたのは灰かぶりがドジを踏んだのではなく、あらかじめ王子が階段にヤニを塗ったからだ」
「王子策士ですね……!」
「姉が王子と結婚したいが為に靴を履く時、サイズが合わないからと長女が爪先、次女は踵を切り落とす。まぁ靴から血が流れバレるがな」
「いいっ!?」
「ならばと姉共は灰かぶりの結婚式で媚を売ろうとしたが、鳥に両目ともくり貫かれ失明する」
「……」
灰かぶり姫は因果応報物語だっただろうか。シャルル・ペロー版のドリームストーリーしか読んだ事がなかったアルバートには衝撃的で、あまりに血生臭いストーリーに目眩がした。
それとも七版あるグリム童話の内、過激に書かれた所を抜き取って言っただけだろうか。そう信じたい。
「ちなみに、城への導きやらドレスの用意やらも全て鳥がやっている。鳥万能だな」
「そうですね……」
力なく相槌を打つアルバート。