Ⅲ
「クローディオさん、取り敢えずバスルームを貸しましょうか? スーツも濡れてますし、着替えた方がいいでしょう?」
「着替えがない。町長、ジジイの所為で碌な準備も出来ないまま町を出されたからな。何が『善は急げ』だ……! 金さえ大して持たせないまま出立させよって……!」
(ジジイって言い直した……)
そんなに年を召した方なのだろうか。ジジイと呼ぶという事は男性らしい。幾ら町長とはいえ、思い出し苛々だけで禍々しい殺気を放つクローによく命令が出来るな、とアルバートは感心した。
「ふ、服なら貸しますよ。もう夜になりますし、寝巻きでいいですよね?」
「何でもいい。アルバート、俺は今ほぼ無一文だ。ジジイの所為で。また着替え一つ持っていない。ジジイの所為で」
(二回言った……)
「何より泊まる充てがない。《魔法使い》を片すまでの間、全方面的に厄介になる気だが構わないか?」
「は、はい。構いませんよ。メノウさんも招いてましたし」
完全に根に持っている。クローが【ニル】に帰宅した後の町長が無事でいられるのか、アルバートは不安に思った。
「ふん、厄介事を増やしよってあの木偶が……」
「すみません、私の責任です。私が……」
「何を落ち込んでいるんだ貴様。勝手に首を突っ込んだのはあいつの方だ。結果、何が起ころうが自業自得としか言いようがない」
「しかし……」
「いいからバスルームに案内しろ。あと何か喰える物を寄越せ。パンだけでも構わん」
「あ、はいっ」
クローに頭をぺちりと軽く叩かれ、アルバートはうつ向いていた顔を上げた。
そうだ、落ち込んでいる場合ではない。アルバートは着替えの用意を使用人に指示し、クローを連れバスルームへ続くロビーへと向かった。
「クローディオさんは、その、メノウさんが心配ですか?」
アルバートが横並びに歩くクローに問い掛ける。
「何故、俺があいつの心配をしないといけないんだ」
やはりというか、クローはメノウの事を全く心にかけていなかった。
信頼しているとか無事を願ってとか、そんな想い、好意の裏返しや素直になれない気持ちなど一切なく、純粋にどうでも良さそうだった。
「けれど、メノウさんは真剣に捜査をしてくれました。私は何としてでも、一日でも早く【楽園】から連れ戻そうと思っています。ですからクローディオさん、出来る範囲で構いません。是非協力を……」
「あんな木偶、百年ぐらい結界に居ればいい」
感情のない声で、クローはそう言った。
「あいつは私利私欲の為に動く。真剣に見えようが実際に真剣だろうが、結局は自分の為だ。その結果、どのような事が起こっても構わないと、奴自身がそう考えている」
『おまじないです』
昨晩、メノウが自分にしてくれた事を思い出すアルバート。クローはメノウを自己中心的な人間と称した。ならばあれもメノウ自身の為だと言うのだろうか。
「しかし、【楽園】と謳われる結界か。そこに長居させるのは癪に触るな。地獄と呼ばれる様な結界なら、遠慮なくぶち込んでやるというのに」
指の爪先を齧り、クローは苛立った。そういえば、アルバートは一度も上機嫌な彼の姿を見た事がない。不機嫌なままでは判断が鈍くなる可能性がある。
何よりも、傍に居るだけで精神がごりごりと削られる殺気を放たれたままでは辛い(というよりそれが最大の理由)。
クローをバスルームへ案内した後、アルバートはどう彼の機嫌を取ろうかと考えた。相応の見返りを用意すると宣言した以上、彼の機嫌が和らぐぐらいの物は用意しなくてはいけないだろう。
(だけどまさか本当に来てくれるなんて……)
散々警察官の協力を拒否していたクローである。自分の手紙など読みもしないで捨ててしまうだろうと考えていた。殆ど期待していなかった。
そうでなくとも、まさか、こんなに早く来るとは夢にも思っていなかった。予想では来てくれるとしても明日か、雨が止んだ後か、せめて身支度を終えた後だ。
こんな強い雨の中、身支度もせずに来るなど予想外にも程がある。お陰で迎え入れる最低限の準備も出来ていない。
自室に戻ったアルバートは困惑し、部屋の中を右往左往した。
(お礼はやはり無難にお金か……? いやお金で動く方なら、とっくに捜査に協力しているだろう)
警察官の用意した報酬金以外にも、行方不明者関係者の貴族や富豪が、行方不明者を探し出してくれた人間に大金を出すと豪語していた。クローもその話は知っている筈だ。
その話も流していたのなら、金に執着していない事になる。
(クローディオさんは時計が好きだとメノウさんは言ってたが……。ただクローディオさんは、何でも時計を渡せばいいと思うな、と言っていたし……)
しかしアルバートはクローの好みに関して、『時計が好き』という事ぐらいしか知らない。
また先日見た彼の部屋から彼の欲する物を推測しようとしても、彼の部屋は無機質でこだわりを感じず、物も最低限しか置かれていなくて、寧ろ物欲がないという余計な情報が増えた。
ならば数少ない好みの情報を考慮する他ない。
現時点でも、差し出せる時計は幾つかある。父母や兄、そして自分が使っていない物を用意すればいいだけだ。しかしデザインを重視するのか、はたまた性能を重視するのか。クローの好みが分からない。
(あっ、いっそ全てを出し、クローディオさんが欲しい物を差し上げれば良いか)
自分が勝手に選ぶより選んで貰うのが確実だろう。アルバートは早速父母や兄の自室に向かい、引き出しの奥に眠っていた懐中時計の類いを勝手ながら集め、ディナーの準備が進められているダイニングへ向かった。
そしてクローがダイニングに来る前にと、十二人掛けのテーブルの上に五つばかりの懐中時計を並べる。
「……。何をしているんだ貴様」
その最中、赤茶のガウンに身を包んだクローが執事に連れられダイニングに入って来た。マゼンタのリボンを腕に巻き、おろしたラピスラズリの髪が胸元までかかっている。
「クローディオさん、もう上がったんですか」
「長風呂は好かん。それより何だこれは。まさかこれを食せと言いたいのか?」
「え!? いや、違います! クローディオさんは時計がお好きと仰っていたので、手紙に書いた通り、見返りの一つとして差し上げようと思いまして。懐中時計なら荷物にもならないでしょう?」
「……まぁな」
「良かった。では好きな物をお選び下さい。懐中時計なら荷物にならない、と先程は申しましたが、私の召使いを使って全てを貴方の家に運ぶ手段もあります」
アルバートがそう言うと、クローはテーブルの前へ真っ直ぐ近付き迷わず一つ選び取った。
それは確か父が骨董屋で購入した、金色の古い懐中時計である。文字盤が透けていてムーブメントが見えるデザインがクラシカルでいいと言っていたが、いつだか壊れたからと使わなくなった物だ。
「それ一つでいいんですか?」
「……。後で代金を請求したりしないか?」
「え? そんな事しませんよ」
「本当か?」
「勿論です」
「二言はないか?」
「神に誓って」
「後で訂正しても聞かんぞ」
「あの、クローディオさん。何だか信用していない様ですが、私は貴方の時間を頂く以上、相応の礼をしなくてはいけません。クローディオさんは時間が大事なのでしょう?」
「……まぁな。というか、そんな事を書いていたのか」
「本当に読んでいないんですね……。それで、その大事な物で取り引きするのですから、足りないぐらいでしょう」
「足りない?」
クローの猛禽類に似たヴァイオレットの目がアルバートを射抜く。アルバートはビクリと肩を震わせた。
「この価値が分からない貴様の目は節穴か。これはフランスの最高時計技師が着工した【マリー・アントワネット】だ。恐らくレプリカだろうが、かなり緻密かつ精巧に作られ本物に近くしてあるな。蓋は金で文字盤は本物のクリスタル。だが針が止まっている。手入れがされてないな。こんな希少品を放置するとは愚の骨頂」
長々と語られた内容はアルバートの頭はに入り切らなかった。
取り敢えず気に入ってくれた事だけは、心なしか輝いて見えるヴァイオレットの目から読み取れる。
「しかし成る程、俺の時間をくれと書いたのか。それであのジジイが面白いやら愉快やら告白の如しやら訳の分からん事を……」
ブツブツと小言を言うクロー。
「アルバート。再三訊くが、本当にこれを頂戴していいのか? それも魔法如きの為にな」
「私にとっては魔法は如きで済まされません。寧ろ安いぐらいです」
「ほぉ。……確かに滑稽かもしれないな。一時の苦痛から逃れたいが為に、ありもしない救いを求める狂信者を見ている様だ」
「うっ。け、結構ざっくり言いますね。しかしクローディオさん、人の価値観はそれぞれ、という事にして頂けませんか?」
すると、クローは不意に笑みを零した。
初めて見た彼の笑みは、……何と言うか、えげつない悪巧みを思い付いたデーモンの様だった。
はっきり言って怖い。子供が見たら多分泣く。直視するのが辛くなったアルバートは視線をクローからやや逸らした。
「そうか。折角の好機だ、有難く頂戴するとしよう。アルバート!」
「は、はい!」
よく通る声で名を呼ばれ、逸らした視線を反射的に戻し返事をするアルバート。
クローはまた怖い笑みを浮かべて、
「俺の時間、貴様にやろう」
【マリー・アントワネット】を愛おしそうに見詰め、そう宣言した。