Ⅱ
ドンドンドン。ドンドンドン。
ノッカーのない扉が力強く叩かれる。
「クォーツ様! クォーツ様! いらっしゃるでしょうか!」
朝方からチェンバレン家から馬車を飛ばして【ニル】へやって来た、アルバートの遣いのメッセンジャーである。彼は便箋に書かれた住所通りの家、随分とボロく古めかしいゴシック調の屋敷を訪れ、今、その家の無骨な扉を叩いていた。
「んー?」
気怠げそうな声が屋敷の中から聞こえる。やや低く、体の芯に響くような声だった。
「誰だこんな昼間に。何の用だ」
扉ではなく、その横に設置された上げ下げ窓が僅かに開かれる。しかしそれ以上は開けず、磨りガラスの窓により住人の顔はわからなかった。
「クォーツ様、お手紙です」
「手紙ぃ?」
「はい。それで、出来ましたら至急お返事をと……」
「見せてみろ」
窓の開いた隙間から骨ばった右手が伸ばされ、メッセンジャーの持つ封筒を奪う。
「あ? クローディオ宛てではないか。ここにクローは居らんぞ」
「えっ!? そ、それは失礼しました!」
「気にせんでいい。数年前までここに住んでいたからな、間違えたのだろう。しかし送り主がアルバート・チェンバレンとはな……。侯爵のご子息様ではないか。あやつ、いつの間に上流階級の人間と知り合ったんだ」
窓の隙間、そして磨りガラスに写る影から、住人がペーパーナイフを取り出している様子が見えた。次いでビリッと封筒の封を切る乾いた音が聞こえる。
「あ、ああの勝手に開けてはっ……」
「……」
メッセンジャーの制止を無視し、アルバートの手紙を読み始める屋敷の住人。
『拝啓、クローディオ・クォーツ様
現状はもう一つの便箋に書いた通りです。
どうか、力を貸してください。
クローディオさんには事件でもないでしょう。
解決に動く事は実に無意味な行為でしょう。
無碍な時間を過ごさせてしまうでしょう。
それを承知で申し上げます。
貴方の時間を私にください。
侯爵子息として、アルバート・チェンバレン個人として相応の見返りは用意させて頂きます。
魔法の関わる事件は夢と同じならば、どうか叩き起こして欲しいのです。
私は一刻も早く悪夢から目覚めたい。
クローディオさん、どうか私に貴方の時間を売ってください。
色良い返事、お待ちしております。
敬具、アルバート・チェンバレン』
「ほうほうほう。……まるでラブレターのようだのぅ」
幾何学的な文字で書かれた手紙を読み終えた住人は、悪戯っ子の様な笑い声を漏らした。
「ひひっ、気に入った」
◇◇◇◇◇
真っ黒い馬の蹄が地面を蹴り、草木を切り開いただけで整備されていない道を駆ける。
ただでさえ走りにくい地面へ、ポツリポツリと雨が打たれる。打たれた場所は色が濃くなりぬかるむ。雨は次第に強くなり、やがて辺り一帯に強い雨が降り注ぐようになった。
「……ちっ! 急ぐか」
真っ黒い馬に乗った男は舌打ちをすると、乗馬用の鞭をふるい馬の尻を叩いた。
けたたましい鳴き声が、雨空の下に響く。
◇◇◇◇◇
(酷い雨だ。明日には止んでいればいいけど……)
ガラスを割らんばかりに窓に叩き付く強い雨を、アルバートはベッドの上で眺める。今は夕方で、日が沈むには少し早いが、黒い雨雲によって外は暗い。
昼過ぎからずっとこの悪天候が続いている。今日は一日中ベッドの上だったが、この天気ではどの道あまり動く事は出来なかっただろう。
(明日もこの調子だと捜査が続けられないな。雨の日に外出の誘いをしても悪いし……。何よりデリックに外出を止められるだろうし……)
「坊ちゃん!」
その時、ノックもなしにトレーシーが部屋に入ってきた。そつなく落ち着いた対応をする普段とは違い、酷く慌てた様子だ。
「ん? どうしたトレーシー」
無礼も気にせず迎え入れるアルバート。トレーシーは息を荒げ、顔を青くしながらも口を開いた。
「あの、お外に坊ちゃんに会いたいというお客様が……」
「こらトレーシー! 坊ちゃんは体調が優れないのだぞ!? あの不審者は追い返せと言っただろう!」
台詞の途中で、背後に現れたデリックに頭を叩かれるトレーシー。彼は涙目になりながら「しかしデリックさん」と言葉を繰り返していた。
「こんな雨の日に客? 不審者と言う事は知人ではないのだな、どんな奴だ」
「い、いえ。坊ちゃんはお気になさらず。直ぐ帰させますので、貴方様は寝ていてください」
「もう充分寝た。熱も下がったから心配するな。私に客なら会いに行かなければいけないな」
アルバートはベッドからすっくと立ち上がった。デリックの制止を無視し、トレーシーに手際よく寝巻きからウェストコートへ着替えさせると、ステッキを片手に部屋を出る。
ふと、雨音に混じり、けたたましい馬の鳴き声が聞こえた。微かに使用人の騒ぐ声も聞こえる。エントランスの方だ。
「どうした、何の騒ぎだ」
アルバートはエントランスに辿り着くと、おろおろと扉の前を右往左往するメイドに声を掛けた。
「そ、それが……。マフィアのドンみたいな方がお坊ちゃんに会わせろと……」
「マフィア? ……まさか!」
扉を開け外へ出ると、まず黒い馬が視界に入った。引き締まった体をした、毛並みのいい、大きな黒い馬。その馬に繋がれた手綱を握り、使用人と鉄柵越しに問答を繰り返す、一人の男が門の前に立っていた。
紺色のローブを纏い、金縁のモノクルを付けた人間を、アルバートは一人しか知らない。
「クローディオさん!」
名を呼ばれローブを纏った男、クローがアルバートへ顔を向けた。雨に打たれながらも猛禽類に似た鋭い眼光は変わらず、一睨みされたアルバートはビクリと肩を震わす。
だが怯んだままではいけない。アルバートは直ぐに使用人に開門をさせると、クローディオを屋敷へ招く。彼が乗ってきた馬は使用人に厩舎へ連れて行かせた。
「ク、クローディオさん。来てく……」
「あ?」
エントランスの真ん中で、クローはアルバートへ射殺さんばかりの眼光を向けた。彼へタオルを持って来たメイドが「ひっ」と短い悲鳴を上げてすくみ上がる。
「アルバート、だったな。貴様、随分と姑息な手を使ったな……」
クローは持っていたアタッシェケースを床に投げ捨てるように置くと、地を這う様な低い声でそう言った。右手に握ったままの乗馬用の鞭が、異様な存在感を放ち始める。
「こ、姑息? クローディオさんは私の手紙を読んで来て下さった、んですよね……?」
「ああ? 何を言っているんだ貴様。俺ではなく町長に手紙を送り、奴の同情を誘いここに来させたんだろう? 俺が逆らえないと知ってな……!」
「町長? え、いえ私は、クローディオさんに手紙を送った筈ですが……。メノウさんのノートに書かれていた住所に」
「……。……あの木偶が、分かりにくいメモをしよって……!」
暫し間を置き、クローはドスのきいた声を発した。続いてフードを外す。隠れてよく見えなかった顔が、シャンデリアの灯りに照らされた。
苛立ちから細められられたヴァイオレットの目。やや病的な青白い肌。精悍な顔には、鮮やかなラピスラズリ(瑠璃色)の髪が張り付いていた。
因みに髪は肩を越える長さがあり、後ろで一纏めに結ってある。それに、彼に似合わないマゼンタの色のリボンを使っているが、もしや同じ髪色をしたメノウが結ったのだろうか。
彼はメイドから奪い取る様にタオルを受け取ると、ラピスラズリの髪を乱雑に拭き始める。
「え? え? クローディオさんの自宅ではなかったんですか……?」
「違う。第一遣いを用意するなら、時計塔に行く様に指示をすれば済むだろうが。何故書かれた住所に行くよう指示したんだか」
次にクローは右目に付けていたモノクルを外し、丁寧に拭いた。
「あっ、そういえばメッセンジャーと一緒に来なかったのですか? そう命じたのですが……」
もしいい返事が貰えたら速やかにクローを屋敷に送れるよう、という意図も含めメッセンジャーを用意したというのに、クローが一人で来てしまっては意味がない。使用人が一緒なら、門で足止めされる事もなかったろう。
「そいつなら今頃、町長に捕まっているぞ。奴は客人をもてなすのが趣味だからな」
モノクルを付け直し、雨水を吸って重くなったローブを脱ぐクロー。
その下にはダブル(ボタン)のブラックスーツを着ていた。ネクタイもジャケットもベストもズボンも、三つ揃いで黒一色。まるでこれから葬儀に向かうかの様な、暗い服を。
「喪服……?」
怪訝な顔をするアルバートを余所に、クローは鞭をベルトに挿しタオルを首にかけると、その場でローブを雑巾を扱う様に力任せに絞った。
エントランスに水溜りが出来る。
「ちょっ、何をしているんですかクローディオさん! ここで絞らないでくださいっ。あとその絞り方ではローブが傷みますよ!? 君、乾かしてあげて!」
アルバートはクローからローブを奪い取ると、側に待機していたメイドに手渡す。ローブを受け取った彼女は逃げるようにエントランスからリヴィングへ向かった。入れ違いに別のメイドが現れ、床にモップをかける。