Ⅰ
この世界には、魔法がある。
それは一部の人間しか知らない事実。
森羅万象の破壊も諸事万端の破壊も、
空想も願いも現実に出来る。
これを魔法と呼ばず何と呼ぶ。
だが魔法は無意味な力だと、《彼》は言った。
魔法は、いつか必ず解けるから。と。
婚約者が行方不明になった。
ここ最近、正確に言えば一ヶ月程前から、奇妙な事件が続いている。簡潔に言えば《失踪》である。町人が次々と行方不明になり、警察官や身内の捜索も虚しく、未だ誰一人見付かっていない。新聞の記載によると、もう十人になると書かれていた。
馬車に揺られながら見ている為、上手く読めない。最初を軽く読んだだけで終わった。慣れない事をするものではないな、と額に手を置く。目が疲れ、気分が悪くなった。吐き気がする。頭が痛い。黒塗りの馬車に乗った、金髪碧眼の若い男は、指の隙間から横目で窓から外を覗き、早く目的地に着く事を願った。
煉瓦造りの家が建ち並ぶ町中。エプロンをかけた質素なドレスを身に纏い、バスケットを片手に商店街を歩く婦人。茶色いインバネスコートを身に纏い、パイプを咥えてカフェを訪れる紳士。ハンチング帽子を被り、無邪気に歩道を駆け回る子供。
多くの人々が行き交う、石畳みの路上。時たま馬車が人々を掻き分けて通り過ぎる。
町の名は【ニル】。
人口五千人程度。これと言った特徴もない、地味だが活気のあるこの小さな田舎町は、一見すると至って平和だ。犯罪には警察官が目を光らせ、夜は狭い間隔で設置された街灯が町をくまなく照らしている。
【ニル】には誇れる様な名物はない。著名人を出自した事もない。更にこれといった劇的な歴史も残っていない。辺鄙な場所にある訳ではないが、全てが平凡で平均的で、特出した物がない。
そんな田舎町の唯一の特徴と言っていい、名所がある。それは、ここは世界の中心とでも言いたげな、ひときわ高い塔。町のどの建物よりも高いそれは、この町のシンボルでもある。
飛控壁のある壁面、細長く尖った屋根、雨樋の先端に置かれた怪物の彫刻、ポインテッドアーチ状の窓、巧妙な細工が施された文字盤、その周りに飾られた大理石のレリーフ、寸分狂わず規則的に動く針――
そう、ただの塔ではない。これは常に正確な時を町人に伝えている、《時計塔》だ。
その時計塔の内部に繋がる唯一の扉の前に、黒いフロックコートを着た若い男が足を運ぶ。線の細い体に金髪碧眼を持つ、典型的な白人の容姿をした若い男。その左手の薬指には、ダイヤモンドの指輪が嵌められている。
彼は外装に対して装飾性のない、荒削りした板を立て掛けただけの様な木製の扉。取って付けた様な錠前は取り外されていて、外出はしていないと思われる。
そして男は、ノッカーすらない扉を叩く。叩く。叩く。……叩く。
(返事がないな……)
それどころか、中で誰かが動いた音も気配もない。もしや塔の奥に居て、気付けないのかもしれない。呼び掛けようと思い、大きな声を出そうとしたその時。
叩いた反動だろうか、不意に扉が手前に動いた。
鍵が空いている。
内側からは施錠出来ないのだろうか。不思議に思いながら扉の裏側を確認すると、閂のだろう金具が付いている。錠前ですらない粗末な造りに、男は眉を潜めた。
しかしその閂も取り外されている今、中に誰かいるに違いない。男は恐る恐るといった様子で、時計塔の中へと足を踏み入れた。
「すいません、誰か居ませんか?」
扉の先、時計塔の中は教会ばりに凝りに凝った外装とは違い、剥き出しの煉瓦の壁に石造りの床と古風な内装だった。壁には塔の形に沿ってかね折り階段が設置され、塔の上へ上へと続いている。しかし見上げてみても暗闇があるだけで、全貌は見えない。
思えば時計塔の中など入った事がない。男は物珍しさから、忙しくなく視線を動かす。
「どうしました?」
突然、背後から声を掛けられた。
「うわっ!」
思わず裏返った声を発した男。心拍が早まるのを感じながら後ろを振り返ってみると、マゼンタ(ピンクに近い紫)の髪を持つ若い男が、黄褐色の目をこちらに向いていた。金髪碧眼の男と同じか歳下に見える彼は、何故か左の頬に黄色い星型のペイントをしている。
頬だけでなく、格好も奇妙だ。一見すると白い燕尾服を着た、清楚な紳士という印象を受ける。が、よく見ればシャツの胸元や袖口にはふんだんにフリルがあしらわれ、清楚で片すには派手な出で立ちをしていた。
まるで奇術師だ。
「あの、私は怪しい者じゃなくてですね、その……。あ、いやそれより、勝手に入ってすみません。返事がなかったもので。でも人が居そうだったので。け、けして空き巣なんかでは……!」
挙動不審にも程がある、と男は内心嘲笑する。テンパって碌な事を言えていない。これでは弁解にならないだろう。
しかし空き巣と勘違いされそうになってもなお、彼にはここで成し遂げたい事があった。
「ここに、時計塔に住む人が奇妙な事件を解決してくれる力があると聞いて、それで……!」
「ふふっ」
アンバーの目を細め、男は笑った。
自分の顔に羞恥から熱が溜まっていくのがわかる。
「奇妙な事件。と言いますと、今話題の隣町で起きている事件ですか?」
「は、はいっ。多分合ってます!」
「やや、わざわざ何もないこの町に来るとは、ご苦労様です。つまり貴方は【楽園】の関係者なんですね」
「ら、楽園? いえ、私はその、失踪事件の事で……」
「その失踪事件はね、【楽園】と呼ばれているんですよ」
そう言って、マゼンタの髪を持つ男は、後ろ手に持っていた新聞を金髪碧眼の男に手渡した。先程、碌に読まずにいた新聞と同じ物だ。
【楽園】。
幾何学的な形をした文字で書かれた見出しには、その言葉が綴られていた。その内容は――
町の外れ、森の中に出現した大きな屋敷。ゴシック様式とロマネスク様式を組み合わせた、豪華で上品なこの屋敷、いつ建てられたか誰も知らず、気が付けば建っていたという。この時点で妙な話である。
屋敷の中には主である女が一人、暮らしているそうだ。怪奇小説ならばこの女は人間を喰う《魔女》だと見られるだろう。屋敷に女が訪れれば血を絞り取られ、男が訪れれば生気を絞り取られる。何方にせよ帰ってくる事はない。
しかし、この女は《聖女》だというのが町人の見解だ。そして屋敷の中は【楽園】なのだと。
歳を取らず、苦痛を知らず、ただただ楽しく過ごせる世界があるのだと。だから誰もが帰って来ないのだと。
「きっと貴方の探している人も、その【楽園】に居るんでしょう」
「ここに彼女が……。あぁ、先によく読んでおけばよかった。ここを探し出せば……!」
「やや、気が早いですね。森といっても何処の森かは書かれてないでしょう? それに森は広いものです。闇雲に探したって見付けられない。また仮に見付けられたとしても、見出しにあったように行ったら帰ってこられない可能性があります。ただ向かってもミイラ取りがミイラになりかねない。お止めなさい」
合理的に論され、金髪碧眼の男は途端、険しい顔をして新聞を握り潰す。
『ご機嫌よう。うふふ、似合うかしら?』
自分で作った花冠を被り、無邪気に微笑む婚約者の姿が瞼の裏に浮かんだ。
「もう、もう一ヶ月も行方がわからないのです! 警察官も碌に成果を出していない今、私が動かず誰が動くのです!!」
「やや、正義感が強いですね。いや、貴方が探しているのは女性……。愛情が強い、と言う方がいいですかね」
すると男はマゼンタの髪を掻き上げ、踵を返した。
「取り敢えず、立ち話は何です。部屋に入りましょう」
そうして案内されたのは、時計塔の二階。木製の扉の奥にある、無機質な部屋だった。
部屋にあるのは木製のキャビネットとクロゼット、テーブルにアームチェア、コート掛けと一通りの家具が置かれている。一応リヴィングらしい。だが、どれも装飾性がなかった。簡素、なのではない。殺伐とした、温もりを感じない部屋。
マゼンタの髪の男は無骨なアームチェアへと腰掛けると、金髪碧眼の男をテーブルを挟んだ反対側のアームチェアへ座るよう促す。
「あ、ぼかぁメノウ・アゲートっていいます。メノウでいいですよ」
男が座った所で、彼は名乗った。
「アルバート……。アルバート・チェンバレン、です」
宜しくお願いしますと頭を下げる金髪碧眼の男、アルバートへマゼンタの髪の男メノウは「そう畏まらずに」と呟く。
「で、何があったのですか?」
「……婚約者が、消えてしまったんです」
用語解説
インバネスコート……ケープ付きの袖のない外套。
バットレス……壁を支える控壁。文字通り壁が重みで倒れないよう横から支える壁。
ポインテッドアーチ……上部が尖ったアーチ状の物を指す。葉先に似てる。下部は四角い。
フロックコート……男子の昼用正式礼服。上衣はダブル(二列ボタン)で丈は膝まである。因みにモーニングコートは文字通り朝用。
かね折り階段……直角に曲がった階段。