だから、恋をする。
最低な人シリーズ第2弾と言う感じです。
「健、罰ゲーム決定!!」
そんな声を安藤絵梨が耳にしたのは、教室の扉に手を開けた時だった。いつものように、図書室で勉強を終え、荷物を取りに教室に戻った絵梨は「珍しいな」と思った。この時間は、大抵の学生は部活をしており、部活がない学生は、帰宅している。だから、まだ誰かが教室に残っていることはほとんどないのだ。
「健、3日とか短すぎだろ?」
「いや、だってさ。あいつうぜぇんだもん。彼女面するし」
「いや、彼女だっただろ」
「こっちは、ゲームのために仕方なく付き合ってやってんのに、勘違いしてるから面倒くさくなったんだよ」
「最低だな、お前」
「悟も智樹もこの話にのったんだから、お前らも同罪」
「そりゃそうだ」
教室の笑い声が廊下まで響いていた。
「でも、『彼女とどのくらい持つか?』って賭けで、3日って。健、1か月は行けるとか言ってたくせに」
「あんなにうぜぇと思わなかったんだよ。胸もちいせぇし」
「うわ~、かわいそ」
「うるせぇよ。で?何にすんだ?罰ゲーム」
「悟、どうする?」
「そういうの考えるの智樹の方が得意だろ?」
「どうしようかな?」
絵梨は扉に触れていた手を外す。急いで背を向け、来た道に戻ろうと足を一歩踏み出した時だった。扉が開く音がすぐ近くで聞こえた。絵梨は思わず後ろを向く。
目が合った。
背の高い3人組。一人は金髪で、2人は栗色の髪をしていた。耳にはピアス。ジャンルは異なるもののその容姿は3人とも整っていた。
絵梨は真面目だ。放課後一人で残り、勉強をする程度には。制服は校則どおりに身に着け、スカートの丈は長い。長い黒髪は後ろで一つにまとめており、銀のフレームのメガネを付けている。当たり前のように彼らとの接点などなかった。けれど、そんな絵梨でも知っている。彼らの周りにはいつも女の子たちが溢れているから。ただ廊下を通るだけで黄色い声が飛ぶ。
絵梨は振り向いたことを後悔した。とっさに小さく頭を下げると、その場から離れようと駆け出した。
「ねぇ、君」
けれどその努力はただの2歩で終わった。
「安藤絵梨さん」
かわいいという表現が似合う栗色の髪をした岡田智樹が絵梨の名前を呼んだ。彼は3人の中では一番背が小さい。
絵梨は恐る恐る振り返る。
「な、なんで名前…」
「なんで知ってるのって?そりゃ知ってるよ。君、頭いいでしょ?よく、成績上位者で名前張り出されてるよね?ってか、そんなことよりさ、今の話聞いちゃった?」
智樹が首を傾げ聞く。きっと今のしぐさを女子たちが見たら「かわいい」と声を上げるだろう。けれど、絵梨はさらに自分が固まるのがわかった。
「俺たちさ、今のアイドル生活、結構気に入ってるんだよね。飯もただで食えるし、授業ノートとかも勝手に作ってくれるし。だからさ…」
「…な、なんでしょうか?」
声が震えた。その反応に目の前の彼らから笑いが漏れる。
「おい、おい。怖がってるじゃん」
金髪の西島健が面白そうに言った。目が大きく、少しだけつりあがっている。智樹とは違い、格好いいと思わず言ってしまう顔立ちだった。
「健の顔が怖いんじゃねぇの?」
「お前の顔の間違いだろ?智樹」
「え~、俺こんなにさわやかなのに?」
「うざ」
「悟くん、ひど~い」
冷たく言い放った上森悟に智樹が冗談交じりに言う。悟は黒縁のメガネがよく似合う知性的な顔立ちの青年だ。
目の前で笑っている彼らを見ながら、絵梨はどうしてこうなったのだろうかと考えた。ただ、自分は、いつものように図書室に行き、いつものように荷物を取って帰ろうとしただけだ。たまたま彼らの話を聞いただけ。イレギュラーなのは彼らの方だ。なのにどうして自分が彼らに絡まれなくてはいけないのか。
「そうそう。それで、今の話、黙っててくれない?」
智樹の言葉に絵梨は全力で頷いた。その姿が必死だったようで、また前から笑いが起こったが気にしない。これで話は終わったとばかりに、絵梨はその場を離れようとした。けれど、再びそれは叶わなかった。
智樹の手が絵梨の肩に触れている。
「ねぇ、悟。この子、いいんじゃない?」
「何言ってんだ、お前?」
悟の言葉に絵梨も心の中で頷いた。何を言っているのかわからない。けれど智樹は一人でうん、うんと頷いている。
「おい、智樹、何の話だよ」
しびれを切らしたように健が聞いた。
「健、この子と付き合えよ」
「は?なんでこんな地味な女と」
「罰ゲーム」
「罰ゲーム?」
「そう。そうだな…、1か月な。しかも超ラブラブな感じで」
「無駄に長いし。うざい」
「悟もそれでいいよな?」
「別にいい。面白そうだし」
「ってことで、決定」
「マジかよ?」
「賭けに負けたのは誰だっけ?」
自分の知らないところでどんどん進む話に絵梨はついていけなかった。勝手に罰ゲームの対象にされていたが、それに怒ることすらできない。
「わかったよ」
頭をかきながらしぶしぶ頷く健は、絵梨に「ほら」と手を差し伸べた。目の前の大きな手を見て、絵梨はやっと頭を稼働させた。
そして言い放つ。
「賭けとかよくわからないんですけど、好きな人がいるので、あなたとは付き合えません」
絵梨の言葉の後、2秒間の沈黙ができた。
それを破ったのは、悟と智樹の笑い声だった。
「やべ~、腹痛い。健、ふられてるし」
「てめぇ、ざけんなよ」
笑う2人の姿に健の表情は厳しくなった。怒りを隠さず健は絵梨に詰め寄る。
「俺が付き合ってやるって言ってんじゃねぇか!お前ごときと」
怒る健をよそに、絵梨はどこか冷静になっていった。一つ深呼吸をし、まっすぐ健の目を見つめる。
「どうして怒られなければならないのかわかりません」
「は?」
「あなたたちがどれだけすごいのか私にはわからないけど、あなたたちの遊びに付き合わなければいけない義務はないはずです。しかも罰ゲームの対象って、人をバカにしすぎです」
「ま、確かにそうだな」
絵梨の言葉に頷いたのは笑いを止めた悟だった。
「悟!」
健が睨むように悟を見た。悟は軽く肩を竦める。
「しょうがないだろ。彼女は正しい。彼女がお前を好きだって言ってたならこの話は成り立つけど、別にそうだったわけじゃないし。現に好きなやつがいるっていうし」
「確かにそうだよね。ごめんね、絵梨ちゃん。巻き込んで。しかも失礼なこと言ってごめんね。でもさ、もったいなくない?健と1か月だけでも付き合えるんだよ?」
そう言う智樹に絵梨は首を傾げる。
「好きな人と付き合うから意味があるんじゃないの?」
「うわ~今時なんて純なコメント。ねぇ、俺と付き合わない?…って、そんな睨まなくてもいいじゃん。冗談だから」
「お前までふられてる」
「悟も告れば?みんなで一緒にふられちゃう?」
「…あの、とりあえず、さっきのことは他言しないので、もう私は行ってもいいですか?」
「いいよ。もちろん。ごめんね」
「すまなかった」
「いえ。それでは」
「だめだ」
通る声が一つ。低いその声は決して大きくないのに、絵梨の耳にしっかりと入った。
「お前、やっぱ、俺と付き合え」
「おいおい、健。もういいじゃん。別の罰ゲーム考えるからさ」
「いやだね。俺はこいつを惚れさせてやる。んでもって、俺からふってやるよ」
黒い笑みを浮かべた健に絵梨は一歩後ずさった。それを追いかけるように健が一歩を大きく出す。
「覚悟しろよ」
健が絵梨の頬に手を添える。顔を上に向かせると、一気に距離を縮めた。動こうとした瞬間に唇に何かが触れた。離れていく健の顔を見て、絵梨はようやく気付く。自分は今、人生初めてのキスをしたのだと。
目覚ましの音とともに絵梨は目を覚ました。頭の中で勝手に昨日の出来事が再生される。思わず右手で唇を触った。その動作にさらに頬が赤くなる。記憶を消そうと首を横に振った。振り過ぎで頭が痛くなる。
絵梨の口から思わずため息が漏れた。昨日、健にキスをされた絵梨は思わずその顔に手を出していた。バチンといい音を鳴らしたビンタも人生初めてだった。
学校に行きたくないと頭から布団をかぶる。けれど、今日は休みたくなかった。絵梨は両頬を軽く叩くと、一気に布団を持ち上げた。冷たい空気が頬に当たる。けれどそれがちょうどよかった。
支度を終えても絵梨はまだ一人で悩んでいた。行きたくない、けれど行きたい。そんな気持ちがぐるぐると自分の中を回る。どうして自分がこんなことで悩まなければいけないのか。絵梨はあの時間にあの場所にいた運の悪さを呪った。
ピーンポーン。突然、鳴り響いた呼び出し音。食器を洗っていた母が玄関に向かった。そんな母がすぐに呼んだのは絵梨だった。
絵梨は不思議に思いながらも、呼ばれたとおり玄関に行った。そして驚く。そこにいたのは青のマフラーを首に巻いた健だったから。
「西島君がお迎えに来てくれたわよ」
母の顔は何ともにこやかであった。「色恋に興味がないと思っていた絵梨にこんな格好いい彼氏がいたなんて」表情にセリフを付けるとしたらこんなものだろうか。
絵梨は外向きの笑みを浮かべる健を睨みつける。
「絵梨。早く学校行こう」
優しい声。それが逆に怖いと思った。逆らいたいのに逆らえない。
「…行ってきます」
結局抗えず、通学用の鞄を手に持ち、靴を履いた。
「行ってらっしゃい。またゆっくり遊びに来てね。西島君」
「はい、ありがとうございます。じゃあ、絵梨、行こうか」
玄関のドアが音を立てて閉まる。家から数歩離れたところでようやく絵梨は口を開いた。
「西島君、どういうことですか?」
「一緒に登校しようと思ってさ」
「どうして、私があなたと…」
「昨日のお詫びだと思って言うこと聞けよ」
健は自分の左頬に触れた。絵梨は一瞬口を閉ざし、すぐに反論する。
「それは、あなたが…その…あんなことするからでしょう!」
「あんなことって、キス?」
「そ、それです」
「いいじゃん、あのくらい」
「あのくらいって、あなたには普通のことかもしれないですけど、私にとっては!」
健は、絵梨の顔を覗き込むように見た。
「あれ?もしかして、初めてだった?」
「……そうですけど」
「あ~ごめん」
決して悪いと思っていない謝罪に絵梨は苛立つことがバカらしくなった。キスをしたのではない。ただ、触れてしまっただけだ。決してキスなどではない。心の中で復唱する。一度息を深く吐き、絵梨はもう一度、健を見た。
「なんで家を知ってるんですか?」
「絵梨の同中の女から聞き出した」
「慣れ慣れしく呼ばないでください」
「俺の勝手だろ」
「…全部が全部、自分の思うようになるなんて思ったら大間違いですよ」
「なるよ」
「はい?」
「お前は俺に惚れるから」
言い切る姿に絵梨は逆に感心してしまう。どうしてそこまで自分に自信が持てるのだろうか。絵梨は健の横顔を盗み見た。確かに綺麗な顔立ちだ。整った目鼻立ち。金色に染まった髪がよく似合っていた。太陽が当たるたびにきらきらと光って見える。
「見惚れてる?」
からかうような口調。けれど、絵梨は素直に告げる。
「綺麗だなって」
「は?」
「本当に綺麗な顔ですね」
絵梨は健をまじまじと見つめる。
「綺麗って、嬉しくねぇけど」
「でも、綺麗ですよ」
「…調子狂うな」
頭をかきながら呟かれた声を聞き取れず絵梨は聞き返した。
「え?」
「何でもねぇよ!っつーか、敬語やめろ。うざいから」
「うざいって」
「わかったか」
「…」
「もう一回キスするぞ」
「やめます」
「即答すんな。こら」
そう言って頭を軽く叩かれる。
絵梨は男子とあまり話したことはなかった。正直、苦手だ。けれど、今、自分は、離れて見ていた他の人たちのようなやり取りをしている。それがなんだかおかしかった。
苦手だったけれど、本当は話してみたいと思っていたのだと絵梨は気づく。「キス」とか「惚れる」とか、そんな単語さえ出てこなければ、まるで男友だちができたような、そんな錯覚に陥った。
「ってか、お前さ、もう少しかわいくしたら?せっかくかわいい顔が台無しだろ?」
「え?」
聞きなれない『かわいい』のフレーズ。誑し込むための言葉だとわかっていても、異性に初めて言われたその言葉に頬が赤くなるのを止められなかった。
「あれ?照れてる」
「別に…そんな…」
「いや、実際かわいいと思うぜ?銀ぶちのフレームじゃなくて、コンタクトとかもうちょいおしゃれなメガネにすれば?」
「別にそんなの私の勝手じゃないで…勝手でしょう」
「お、よく、敬語とめたな」
「…」
「そうだ、絵梨」
名前を呼ばれた瞬間に引っ張られた。気づけば手を繋がれている。
「な、何?」
「今日は学校サボるぞ」
「え?」
「メガネ見に行こうぜ」
そう言い、強引に引っ張る腕を絵梨は振り払った。健は離れた手を数秒見つめる。
「お前に拒否権ないんだけど」
「サボるなんてできない」
「別にいいじゃん」
「だって、今日、世界史あるし」
「世界史?」
「あ、…えっと…私、世界史が苦手で、だから、一回でも休むと、ついていけなくなるから、休みたくないの」
「お前さ、嘘下手だな」
「…」
動揺が表に出ていたのは自分でもわかったため、思わず黙る。
睨むような視線が痛かった。
「世界史…橋元譲。俺のクラスの担任」
出された名前に、肩が小さく上がる。その反応に健がくすりと笑った。
「何?好きな人って先公なわけ?」
「…」
「どこがいいの?」
「…どうして、そんなこと言わなきゃいけないの?」
「橋元に言っていいんだ?」
「…」
「言っていいんだな」
「…名前を覚えていてくれたの」
「は?」
絵梨の言葉に、健は首を傾げた。その素直な反応に絵梨はおかしくなる。だって、きっと、健にはわからない感覚だろうから。
「何?名前覚えてるだけで惚れるわけ?」
「一回目の授業の時、私は日直で、号令をかけたの。その時、『ありがとう、安藤』って。思わず、授業が終わった後、聞いたの。『どうして名前を知ってるんですか』って。そしたら、『隣のクラスの子くらい覚えてるよ』って。…私は、地味で、あんまり印象に残らないから、いつもすぐに名前を覚えててもらえなくて…だから嬉しかったの」
「それだけ?」
「好きになるのなんて、そんなものでしょう?」
「…なんだ、それ」
「西島君はすぐに覚えてもらえるだろうから、そんな感覚はないだろうね。でも、私は嬉しかった。高校に入ったばかりで、担任の先生だってまだ覚えてなかったのに、橋元先生は名前を呼んでくれた。きっと、自分の生徒の名前と隣のクラスの人と一生懸命覚えたんだろうなって。その努力の中に自分も含まれてるんだって思ったら、嬉しかった。好きになるくらいに」
「…ほら、行くぞ」
「え?」
「学校行くんだろ?」
つまらなそうに健はそれだけ言った。それがなんだか健の優しさのような気がして絵梨は笑顔で頷いた。
「絵梨って西島君と仲良かったんだっけ?」
お昼を食べていた友人の言葉に絵梨は思わず箸を止めた。
「…え?優里…なんで?」
「今日一緒に来てなかった?」
その言葉に、絵梨は思わず優里の口を塞ぐ。そして辺りを見渡した。その様子に優里は笑う。絵梨の手を軽く叩き、離してほしいと訴える。
「ご、ごめん」
「大丈夫だよ。誰も聞いてない」
「そ、そうだよね」
「で、どうなの?」
「えっと…それがさ」
小声で昨日の出来事を優里に手短に話した。優里が驚きの表情を浮かべる。
「何かあったとは思ったけど、予想以上に壮大だね」
「そんな、他人事みたいに」
「ごめん、ごめん。絵梨が大変なのにね」
「…なんでこんなことになっちゃんたんだろう」
「あっちの世界の人にはうちらみたいな人が珍しいのかな」
「おもちゃじゃないつーの!」
「橋元っち!」
思わず叫んだ絵梨の声は、廊下から聞こえた黄色い声にかき消された。
「あ、絵梨。橋元っちだよ」
優里が指を指した先を見た。その先では呼ばれた「橋元っち」が渋い顔を浮かべている。
「こら、ちゃんと先生って呼べっていつも言ってるだろ!」
「だって橋元っち先生っぽくないんだもん」
「何気に気にしていることをさらっと言うなよ!」
「え~なんで?先生っぽくないってむしろ褒め言葉じゃない?」
「俺は、先生なの。先生っぽくしたいの!というか、君たち、ちゃんと敬語を使いなさい」
「だってうちらとそんなに年齢変わんないでしょ?」
「全然違う!俺もう25歳だから。君たちみたいにティーンじゃないの。だから敬いなさい」
「え~」
女子生徒2人と楽しそうに話す譲。自分にはできない会話。あんな風に譲と話すことができたら楽しいだろうなと思う。
譲を視界に入れて一年が経とうとしているのに、絵梨が譲と話すのは、日直の時の授業前の御用聞きか、質問のときだけだった。あんな風に、たわいない話をすることはできない。
「羨ましいわけ?」
急に降ってきた声に思わずびくりと身体が反応する。振り返ればそこには健の姿があった。目の前の優里も同じようにびっくりしている。
「に、西島君?」
「絵梨も話して来れば?昼休み終わっちゃうよ?」
「ちょ、ちょっと…その話しないでよ」
「何?この子にも内緒なの?」
「知ってるけど…」
「じゃあ、いいじゃん。それにしてもどこがいいわけ?おっさんじゃん。しかも背、低いし」
「よくないの。ってか、おっさんじゃない」
「あ~あ、行っちゃった」
健の声に絵梨は視線を廊下に戻した。離れていく譲の後ろ姿を視線で追う。
「なんかあいつ遊んでそうじゃないか?」
「それ、西島君にだけは言われたくないと思うよ」
「お前、たった2日で言うようになったな」
2本の指で頬を掴まれる。その瞬間どこからか悲鳴が聞こえた。悲鳴の正体は、健を見ている女子たちだった。絵梨と健のやり取りに目の前の優里も少なからず驚いている。
絵梨は自分の失態に気づいた。健は人気者で、地味な自分と一緒にいるなどありえないのだ。友達などと一瞬でも思ってしまった自分に嫌気がさす。
健はそんな絵梨の心情など構わず、絵梨の頬を掴んだまま周りに笑顔を振りまいた。その状況に、周りは黄色い声と悲鳴を器用に混ぜ合わせた声を上げる。
「西島君。離してくれない?」
小声で健に訴えた。けれど健は絵梨を離すことなく笑顔を振りまいている。
「なんで?」
「なんでって」
「なんか、面白いし、よくないか?」
「…昨日も思ったけど、あなたたちって暇なの?」
「暇って言うか、退屈?別に、基本、勉強も運動もできるし、女も勝手に寄ってくるし」
多くの人を一瞬で敵に回すであろうセリフ。けれど、健には許される気がした。それはきっとこの端正な顔のおかげなのだと絵梨は小さくため息を吐く。
「だからさ、お前に興味持ったんだ」
「え?」
「だって、思いどおりにならないんだぜ?めちゃくちゃ、面白い。絶対惚れさせてやるから」
健は身体を少し曲げ、絵梨の額に音を立ててキスをした。慌てて額を押さえる。しかし遅すぎた。
一瞬で広がる周りの悲鳴と楽しそうな健の笑い声。
「なんか、大変だね」
しみじみと言われた優里の言葉に絵梨はただ、頭を抱えた。
オレンジの光が教室に注ぎ込まれている。空を飛ぶカラスが小さく鳴いた。
「どういうことなの!」
帰りのHRが終わるとすぐに机の周り女子たちに囲まれた。HRが終わった教室から続々と増えていくその数に絵梨は頭を抱える。しかも、2年や3年のお姉さま方までいる始末だ。モテることは知っていたがここまでとは。
自分を取り囲む女子たちに聞きたいのはこっちだと言いたくなる。こう囲まれている中ではため息をつくことすら許されない。
絵梨は恐る恐る彼女たちを見つめた。睨みつける彼女たちはひどく真剣な顔をしている。
「…別に、何も」
「何もない人とキスするのね」
「…」
「安藤さんが地味で、いつも付き合っている人たちとは違うから、面白がっているだけよ!遊ばれているだけ」
それはごもっともだ。わかっているならそれでいいじゃないか。絵梨は思ったが、この状況でそう口に出せるほどの度胸はない。
黒板の上の時計を盗み見た。時間は4時を過ぎている。世界史の質問をしに行こうと決めていたのに、このまましばらく帰れそうもない。
質問というのは実はなかなか浮かばないものだ。完全に理解していないと質問はできない。けれど理解してしまえば、問う必要はない。だからこそ、せっかく見つけた会話の種だったのにと絵梨は項垂れる。
「聞いてる!」
「聞いてます。あの、すみませんでした」
「健はみんなの健なの。抜け駆けしないで」
3年の先輩が鋭い視線を絵梨に向けた。その言葉に周りの女子たちも頷く。
その言葉に絵梨はおかしいのではないかと思った。『みんなの』なわけないじゃないかと。それは『好き』と言えるのだろうか。ただ見ていることしかできない自分にそんなこと思う資格はないかもしれないが、疑問しか感じなかった。
けれど、昨日の智樹の言葉を思い出す。彼らは『アイドル』でいいという。『アイドル』ならば、『みんなの』だ。需要と供給のバランスが整っている。なら、それでいいのかと絵梨は、腑に落ちないが自分を納得させる。そもそも自分が首を突っ込む話ではないのだ。
「もう、健に近づかないでね」
「わかりま…」
「何言っちゃてんの?んで、お前も何頷きそうになってんの?」
了承の意を示そうとした絵梨の言葉を止めた人物にみんな視線が映る。教室の扉に寄りかかりながらこちらを見ていたのは健だった。
「健!」
「どうしたの?こんなところで」
急に柔らかくなった彼女たちの声。
「別にどうもしないよ?ただ、彼女を迎えに来ただけ」
「…彼女?」
何十人の女の子たちが周りを見渡した。犯人を捜すかのように鋭い視線が行き来する。
健は扉から離れるとまっすぐに進んだ。机の前に立つ。
「絵梨、帰ろ?」
優しい声。けれど面白がっているだけだと絵梨にはわかった。睨みつけようかと思ったがどうせ効果がないことは知っている。
絵梨は立ち上がり鞄を手に持った。差し出された健の手は掴まずに歩き出す。その様子にまたもや楽しそうに健は笑った。
「何考えてるの?」
女子たちの悲鳴をBGMに絵梨は怒りを隠さず健に問う。
「だって、お前、面白いんだもん」
「…西島君のおもちゃになった覚えはないんだけど」
「いいじゃん。俺と一緒にいれるんだぜ?」
「嬉しくない」
「そんなこと言われたの初めて」
心底楽しそうに健が言った。
「マジでお前欲しくなってきた。このゲーム、面白すぎだろ」
「…」
不意に飛び出した『ゲーム』という単語。そうだったと絵梨は思い出す。これはただのゲーム。健の退屈を紛らわすだけのただのゲームだ。友達ですらない。
絵梨は思わず立ち止まった。
「どうかした?」
首を傾げる健に見られないように、俯いた。なんでだろう。少しだけ、悲しいと思ってしまうのは。
「…別に、なんでもない」
「なら、いいけど。ほら、帰るぞ」
「…私、職員室寄っていくから」
「は?」
「質問があるの」
「橋元かよ」
「そうだよ」
頷く絵梨の腕を健は掴んだ。その力は強くて、絵梨は表情を歪める。
「行かせない」
まっすぐ見つめるその目がやけに真剣で、絵梨は心臓が鳴るのがわかった。さっきの笑う顔とは似ても似つかない表情。健にとってはただのゲームだ。頭の中では理解しているはずなのに、顔が熱くなる。
「い、行かせない…とかじゃないよ」
「行かせねぇよ。行くぞ」
引っ張られる腕。朝は振りほどけたその手を今度は振り払うことができなかった。絵梨はただ言われたまま学校を後にした。
「じゃあな」
家まで送り届けた健がそう言って離れていくのを絵梨はただ見ていた。学校を出て交わした言葉はなかった。それでもずっと繋がれていた手。外は震えるほど寒いのに、手だけはずっと暖かかった。絵梨は自分の手のひらを見つめる。気がつけば心臓はさっきずっと大きな音を立てていた。
「行ってきます」
玄関でそう言う絵梨は母親の表情に首を傾げた。
「何?」
「今日は、西島君来ないの?」
残念そうな顔はそういうことかと納得する。
「来ないよ」
言い切る絵梨に母親はさらに残念がった。
「というか、昨日たまたま来ただけなの。昨日がイレギュラー」
「彼氏じゃないの?」
「なわけないでしょ」
「…そっか。ま、確かに、格好良かったもんね。絵梨の彼氏のわけないか」
母親の失礼な発言に、けれど同じ思いで頷く。世界が違うのだ。きっと何もなければ会話をすることさえできないほど遠い人。
「じゃあ、私、行くよ」
「行ってらっしゃい」
手を振る母親に背を向け、家を出た。そしてすぐに驚く。
「よっ!」
健が電柱に寄りかかってそこにいたから。絵梨を待っているように。
「…なんでいるの?」
「一緒に登校しようかと思ってさ」
「……」
「昨日、家に来られていやそうだからここで待ってた」
外は北風が吹いている。その中で、いつ出てくるかわからない自分を待っていたというのか。よく見れば、健の耳が寒さで赤くなっている。
「ってかお前、俺に優しくされておいた方が身のためだぞ。昨日、お前の事、彼女宣言したからなんかされるかもしれないし。俺がべた惚れだって思わせておいた方がお前も安全だぜ?」
「そんなの…西島君が勝手に言っただけじゃない。巻き込まないでよ」
「巻き込まないでとかもう遅すぎだろ?」
笑いながら健は絵梨の手を取った。冷たい手が絵梨の手を包む。
「絵梨の手、暖かい」
優しい笑みが絵梨に向けられる。そのしぐさはあまりに自然で、慣れているのだと絵梨は思った。胸が痛くなる。そんな自分が嫌だった。
「離してよ」
強い口調で言う。そんな絵梨に健は呆れたという表情を浮かべた。
「俺の話聞いてたか?手を繋いで方がお前のためなの」
「別にいいよ。何されたって。…だから、離して」
「この俺が手を繋いでやってるのに、そういうこという訳?」
「…離して」
「もしかして橋元に誤解されたくないとか言う?」
「え?」
「誤解なんかしねぇよ。ってか、誤解も何もただの隣のクラスの生徒ってだけなんだから俺と手を繋いでようが何してようが、あいつは何とも思わねぇよ」
健の言葉に、絵梨は何か言おうとした。けれど口は開かなかった。だってそのとおりだったから。自分はただの隣のクラスの生徒で、そんな自分が何をしていたって譲は何とも思わない。そんなことは知っていた。けれどなぜだろう。自分が知っていたということと、言葉で言われることがこんなに違うのは。胸が締め付けられるように苦しかった。
「わかってるよ」
辛うじて出した声は、聞き取れないほど小さかった。
「何?」
「…そんなこと、言われなくてもわかってるよ!」
八つ当たりも甚だしい。わかっている。それでも、開く口は勝手に叫んでいた。
そんな絵梨に驚いたのか、掴む手はゆるくなった。絵梨は振り払うように健の手から離れ、駆け出す。涙で視界が歪みそうになるのを必死で堪え、ひたすら足を動かした。
全力で走ったために、学校についたころには息はすっかり切れていた。冷たい空気のせいで、吐き出す息が白くなっている。
「おはよう、安藤。…走ってきたのか?」
「…橋元先生」
教室に向かう廊下で声をかけられた。振り返った先にいたのは譲だった。
「ん?」
「あ、いえ。おはようございます」
「ああ。おはよう。どうしたんだ?まだ早い時間なのに、そんなに急いで」
「えっと…寒かったので、ちょっと走っただけです。それより橋元先生こそ早くないですか?」
「先生は生徒より早く来るものなの。ってか、安藤、ありがとう」
「え?」
「安藤だけだよ。ちゃんと橋元先生って呼んでくれるの」
譲が本当に嬉しそうに笑う。そんな譲につられて絵梨も笑った。
「笑うなよ。俺、本当に嬉しいんだから」
「それならよかったです」
「なんか俺の事バカにしてない?」
拗ねる様な声色に笑いながら首を振る。こんなところが女子高生からも人気がある所以なのだろう。
「してないですよ」
「ならいいけど。…なあ、安藤」
「なんですか?」
「悩みがあるならいつでも言えよ」
「え?」
先ほどとは違う真剣な声色。視界に映る譲の顔は『先生』だった。
「何にもできないかもしれないけど、話を聞くぐらいならできるからな」
「…ありがとうございます」
「どういたしまして」
にこやかに笑う表情。その顔に歳の差を感じてしまう。自分はどうしようもなく子どもで、譲はどうしようもなく大人だ。遠いなと思う。譲も健も近くにいるのに、手を伸ばせば触れるのに、それでもとても遠かった。絵梨は軽く頭を下げ、譲に背を向け、教室に向かった。まだ早いためか他の生徒の姿は見られない。
絵梨は出そうになる涙を必死で堪えた。何の対しての涙かわからなかった。譲を好きになって今まで泣きたいと思ったことなどなかった。苦しいと思ったことも。譲の笑顔を見れば嬉しくて、自然と目で追っていることがなんだか楽しかった。絵梨は譲が生徒と同じようにはしゃいでいる姿ばかり見てきた。だから知っていたけど気づけなかった。こんなにも差があったのだと。譲は当たり前のように大人だった。届かないほど遠かった。
「おい」
肩に手が乗せられた。ここ数日聞きなれ声。振り向きたくなくて、絵梨は俯いたまま黙っている。苛立ったように両肩を掴まれ、くるりと身体ごと向きを変えられた。
「お前、何一人で…って、泣いてんの?」
気がつけば涙は頬を伝っていた。絵梨は慌てて涙を拭う。
「どうした?」
問いかける声は優しい。どうせならバカにしてほしかった。そうしたら、怒鳴って涙なんて忘れられるのに。
「なん…でも、ない」
「なんでもないわけないだろ」
「…なんでもないの」
「もしかして…橋元?今、すれ違ったけど一緒にいたのか?」
「…」
沈黙を肯定と取ったのか健は絵梨の腕を掴んだ。驚く間もなく絵梨は健の腕の中にいた。健の右手が背中に回っている。
「あんなやつ、やめとけよ」
その声が苦しそうに聞こえてまたわからなくなった。健の気持ちがわからない。そして、自分の気持ちも。
絵梨は健の胸を押し、距離を取る。何も言わずに一人で教室の中に入っていった。
「くそっ」
思わずそんな声が健の口から洩れる。
「あれ?健?おはよ~」
「おはよう」
そこにいたのは智樹と悟だった。
「…おはよ」
ちらりと見ただけですぐに健は下を向いた。そんな様子に智樹と悟は顔を見合わせる。
「どうかしたか?」
「別に」
「あ、そうだ。絵梨ちゃんとはどう?」
「は?」
「俺、健が落とす方に賭けたから頑張ってね」
「なんだよ。お前らまた賭けてんの?」
「だって面白そうじゃん。そうだ、聞いてよ。悟なんてさ、めっちゃ大穴狙いなんだよ。なんとね…って、どうかした?」
「そうだよな」
「え?」
「これはゲームだもんな」
健は自嘲的な笑みを浮かべた。何をマジになっていたのか。健はちらりと教室の中を見る。勉強道具を広げている絵梨の姿があった。
「あれ?ここ絵梨ちゃんのクラス?やば、さっきの話聞かれたかな?」
「いいんだよ。別に、聞かれたって。なあ、それより、今日、女と遊びたいんだけど、誰かいないか?」
少しだけ声を張った。絵梨は聞こえているのか、聞こえていないのか。ノートを走る手は止まることはなかった。
「女って、健が声をかければ誰でも来るんじゃないの?」
「…だよな。そうだよな」
「健、いいのか?」
傍観していた悟が絵梨を顎で指し尋ねる。
「いいんだよ」
そんな悟に健は笑って答えた。
足音が遠ざかっていく。絵梨はようやくノートから顔を上げた。教室の外を見る。先ほどまでそこにいた健の姿はなかった。おかしいなと思った。なぜ寂しいなどと思ってしまうのだろうか。
胸が苦しくなる。違う、と首を振る。違う、違う。けれど、やっぱり胸は苦しくて、絵梨は胸を押さえて目を閉じた。
次の日、健は絵梨の家に来なかった。またその次の日も次の週も来なかった。
学校では健の姿を目にした。金髪のその髪は遠くからでもよくわかる。健はいつも女の子と一緒にいた。毎日違う子だった。その誰もがきれいで、かわいかった。健の隣がよく似合う。彼女たちは健と腕を組んでいた。時には、健が彼女たちの肩に手を回していた。退屈だと言っていたのが嘘のように、楽しそうに笑っている。その声が遠くから見ていただけの絵梨の耳にも入ってきた。
絵梨は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。胸が苦しい。そんな自分をバカだなと思う。話しかけてきたのはゲームのため。真剣な顔は作ったもの。わかっていたはずだった。けれど勘違いしていたのだと思う。自分はただの暇つぶしのおもちゃだったのに。
「絵梨、大丈夫?」
覗き込むように優里が言った。心配そうな表情を浮かべている。優里の顔を見て、自分の顔がいかにひどいのかわかった。
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないでしょう。…やっぱ、西島君」
優里が顔を動かした。つられて絵梨もそちらを向く。女子の肩に手を置く健がいた。
「そんなわけないじゃん。私が好きなのは、橋元先生」
「…絵梨は大変な恋ばっかだね」
優里が優しく頭を撫でる。その言葉に本当にそうだなと絵梨は笑った。
いつものように図書室から教室に戻った。空は薄暗い。絵梨は空気の寒さに一瞬身体を震わせた。早く帰ろう。そう思い鞄を手に持ち、廊下に出る。
「あれ?安藤。まだ残っていたのか?」
声のした方を見れば譲が立っていた。
「はい。ちょっと図書室に」
「安藤は本当に頑張ってるよな。安藤みたいな生徒がいてくれると、俺たち教師としては本当に嬉しいよ。ありがとう。何かわかんないことあったらいつでも聞きに来いよ」
譲は笑顔でそう言った。その言葉に絵梨の心は揺れる。譲の言葉が勉強面についてのことだとわかっていた。けれど、口は勝手に動いてしまった。
「先生」
「なんだ?」
「…なんでこんなに苦しいんでしょうか?」
何の脈絡もない言葉。けれど、譲は不思議そうな顔をすることなくまっすぐに絵梨を見ていた。絵梨は少しだけ補足する。
「見たくないと思うのに、目で追ってしまうんです。聞きたくないと思うのに、勝手に声を拾ってしまうんです」
自分が何を言っているのか、誰を指しているのかわからなかった。けれど、譲はすべてわかっているように優しい笑み絵梨に向けた。
「それは安藤が恋をしているからじゃないかな?」
「…恋?」
「恋は一人じゃできない。そこには相手がいて、だから絶対に自分の思いどおりにはならない。だから、苦しいんだ。苦しくなければそれは恋じゃないよ。だから、苦しいのは、安藤がちゃんと恋をしている証だと思う」
「どうして苦しいのに、恋をするんでしょうか?」
「ひとつ、昔話をしてもいいかな?」
「昔話?」
「俺の高校時代の話。…俺ね、最低な人だったんだ」
「え?」
「来る者拒まず、去る者追わず。彼女とか何人もいたよ」
譲の言葉に絵梨は目を丸くする。そんな絵梨に譲は苦笑を浮かべた。
「本当に、最低だったと思う。でもね、彼女と出会って変わったんだ」
「彼女?」
「最低だった俺を変えてくれた人。そんでもって、今の俺の彼女」
譲の表情は今までに見たことのないような笑みだった。絵梨は黙ってその先を待つ。彼女がいるというその事実は不思議とすんなり自分の中に入ってきた。
「彼女に出会って、俺は本当の恋をしたんだと思う。彼女と出会うまで、俺は苦しいなんて思わなかった。色んな人を傷つけるばかりで。でも、彼女と一緒にいて、俺以外と話す姿とか見て、俺は初めて苦しいと思ったんだ。それまでは、ただ楽しくて、それで恋だって思ってた。でも、違った。全然、違った。傷ついて、苦しくて、でも、傍にいたい。傍にいて、笑顔を見ていたい。彼女が笑ってくれたら幸せだって思えた」
譲の彼女への思いに、絵梨は胸が苦しくなるのを感じた。けれど、視線を逸らすことはしなかった。
「なあ、安藤。人は不幸の数ばかりを数えてしまうけど、幸せの数を数えれば、きっとその数は多いはずだよ。苦しさを伴うのが恋だけど、でもそれだけじゃない。幸せだっていっぱいあるんだ。むしろ幸せがなければ、それもやっぱり恋とは言えないと思う。一緒にいて楽しいとか、目が合ってうれしいとか。幸せは当たり前のことで、でもその当たり前が幸せだと思えるのが恋なんだと俺は思う。苦しさもつらさもあって、もうやめたいって思うこともあるけど、それでもやっぱり幸せだから人は恋をするんじゃないかな」
譲の言葉を聞いて絵梨は少しだけほっとした。自分の気持ちは恋と呼んでよかったのだと。
譲を見ていると幸せだった。それだけしかなかった。その気持ちに苦しさを加えたのは健だ。健の一言で、譲との距離を知った。距離を知って苦しくなった。
教師への恋なんて不毛だ。そんなことはわかっていた。でも、譲の笑顔を見ると胸が鳴った。「安藤」と名前を呼ばれると嬉しかった。少しでもよく思われたくて頑張った勉強。上がった成績。笑顔を見たいと思った。名前を呼んでほしいと思った。決して叶うことのない想いなのだと知っていた。でも恋だった。苦しさを知った時から、ただの憧れでなく恋になったのだ。
突然機械音がした。発信源は譲のスマートフォン。
「メールだ。…見てもいいかな?」
「はい」
頷く絵梨に「ありがとう」と告げ、譲はメールを開く。そして微笑んだ。それはおそらく自然に出た笑み。絵梨は羨ましいなと思う。自分は決してそんな笑みをさせることはできないから。
「噂の彼女さんですか?」
冗談めかして聞く。
「え?」
「橋元先生、幸せそうです」
「そんなに顔に出てるか?」
「はい」
「…今日、実は、これから結婚指輪を買いに行くんだ。今、校門に着いたって」
「おめでとうございます」
苦しさを感じた。けれど、その言葉は本音だった。
「ありがとう。まだ、誰にも言ってないから内緒だぞ」
「はい。それより、早く行ってあげてください。寒い中、待たせたらかわいそうですよ」
「いいんだよ」
「え?」
予想外の言葉に絵梨は首を傾げる。
「学校にいる間、俺は先生だからね。だから、今は彼女より、安藤の相談の方が大切なんだ」
譲の言葉に絵梨は自分の目頭が熱くなるのがわかった。一瞬でも譲の彼女より大切にしてもらえた。それだけで十分だ。
「…橋元先生。私はもう大丈夫です。だから、ほら、早く行ってあげてください」
「本当か?」
「はい。ありがとうございました」
「わかった。じゃあ、俺、行くな」
「はい」
その言葉に譲は小さく頷き、絵梨に背を向ける。少しずつ遠くなる背中。一度目を閉じ、すぐに開いた。少しだけ声を張る。
「先生」
「ん?」
振り返る譲に絵梨は自分にできる最高の笑顔を向けた。
「大好きでした」
絵梨の言葉に譲は驚くことなく笑った。そして手を振り、再び絵梨に背を向ける。
絵梨の頬に涙が伝った。それを拭うことなくもう譲がいなくなった廊下をただ見ていた。告げられないと思っていた。告げようなどと考えてもいなかった。けれど、せっかく恋になった想いを届けたいと思った。譲は教師で、自分は生徒。見えない距離は限りなく遠いけれど、想いを告げられるほどには近い。それで十分だ。
「ね~健。今日は家に来てくれるでしょう?ねえ、聞いてる?…ってどうしたの?」
急に聞こえた甘い声。そちらを見れば、健がいた。絵梨はとっさに顔を背ける。慌てて頬の涙を拭った。
「お前、帰れ」
「え?何?」
「帰れ」
冷たい声。健の隣にいた彼女は急に変わった健の態度に驚きつつ、言われたとおり一人で絵梨の隣を抜けていく。その時絵梨を睨むように見ていたが、絵梨はそれに気付かなかった。視線はまっすぐに健に向かっていたから。
彼女の姿が見えなくなってようやく、健が口を開く。
「何、泣いてんの?」
「…なんでもない」
「また、なんでもないかよ」
「…」
「何でもないわけないだろ?お前、泣いてんじゃん」
「西島君に関係ないでしょう」
「ざけんなよ。人の事かき乱しといて、関係ないなんて言うな!」
「かき乱したのはそっちでしょう!…もう、なんなの」
「…さっき、橋元が校門のところで女といるのを見た」
健の言葉に絵梨の肩が少しだけ上がった。健の舌打ちが耳に届く。
「大方その姿見て、泣いてんだろ?だから言っただろ、あいつは遊んでるって」
「そんなんじゃない!先生のこと悪く言わないでよ。…先生は彼女のこと、本当に大切にしてるんだから」
「なんなんだよ!なんで…あいつなんだよ」
苦しそうに唇を噛む健の姿。そこに嫉妬を感じ取る。けれど、絵梨は首を横に振った。これはゲームだ。彼を好きになってはいけないゲーム。好きになったら離れて行ってしまう。今は、初めて手に入らないおもちゃが珍しいだけ。手に入ったらきっと飽きてしまうだろう。それだけは嫌だった。
好きだと認めなければ、まだ一緒にいられるかもしれない。好きだと認めなければ、見ていることを許されるかもしれない。絵梨は泣きそうになるのを必死で堪えた。どうしてこんなに好きになってしまったのだろうか。いつのまにこんなに好きになっていたのだろうか。けれど自分の気持ちを認めるわけにはいかなかった。
「そんなマジにならないでよ」
「は?」
「ただのゲームじゃない」
「…ゲーム?」
「そう言ったのは西島君だよ」
「絵梨にとってゲームなのか?」
健の言葉に、絵梨の中で何かが崩れるのがわかった。冷静にならなければいけない。そうわかっているのに、絵梨は健を睨みつける。
「ゲームって言ったのは西島君じゃない!なんで…そんな風に問いかけるのよ。私の気持ちなんて知らないくせに」
「何も言わないんだから知るはずないだろ!言えよ。お前はどう思ってんの?」
「言えるわけないじゃない!」
「言えって!」
「好きだって言ったら、離れてくくせに!」
目を丸くする健に、絵梨は自分の失言を知った。健の顔を見ていられなくて、俯く。涙が出そうになり、目を閉じた。
次の瞬間、身体が揺れた。背中に回る腕。気がつけば、健の腕の中にいた。
「なんだよ、それ」
絵梨は離れようと、健の胸を押す。けれど回されている腕の力は強く、逆に胸に押し付けられた。あやすように髪を撫でられる。その手が優しくて、絵梨は抗うのをやめた。
健の腕の中は暖かかった。心臓の音が聞こえる。絵梨は目を閉じ、その音を聞いた。
「ゲームじゃねぇよ」
「え?」
「ゲームじゃない」
絵梨は顔を上げて、健を見た。下を向く健と目が合う。健の目は優しかった。
「確かに初めは興味本位だった。俺の誘いを断るやつなんていなかったから、新しいおもちゃができたみたいで」
「…」
「けど、絵梨が橋元のことを話すたび苦しいって思うようになった。けど、そんなの初めてだったからどうしていいかわかんなかった。絵梨といると楽しくて、でも、苦しかった。それが嫌で、楽な方に逃げようとした。けど、全然楽しくなくて、目は勝手にお前の姿を探してて、どうしたらいいのかわかんなかった」
健の言葉に絵梨は一緒だと思った。健も自分と同じように思っていたのだと。
「なあ、言えよ」
「え?」
「俺の事好きだって、ちゃんと言えよ」
言ってしまいたかった。健のことを想うと苦しかった。健が他の人と一緒にいると泣きそうになった。苦しくて、つらい。けれど、目が合えば胸は音を立てた。笑顔を見ると自然に自分まで笑顔になっていた。譲の言ったとおりだ。苦しくて、つらくてそれでも幸せだから恋をするのだ。
絵梨が健を好きだと言えば、健は自分から離れて行ってしまうかもしれない。手に入れてしまえば、健の熱は冷めてしまうのかもしれない。けれど、絵梨は言ってしまいたかった。
「なあ、言えよ」
「…」
「…好きだって、言ってよ」
「好き。西島君が好き」
絵梨の言葉に、健は回した腕に力を込めた。痛いくらいの抱擁に、だけど胸の苦しさはなくなった。
「俺も好き。絵梨が好き」
「うん」
「ゲームなんかじゃないから」
「ありがとう」
絵梨は健の胸に顔を埋める。心臓の音が早くなっていた。そのまましばらく2人は抱き合っていた。
カラスの鳴き声が一つ聞こえた。それを合図とばかりに2人は腕をほどく。
「帰るか」
「うん。帰ろうか」
そのまま手を繋ぎ、2人は校門を出た。
「絵梨」
「ん?」
「聞きたくないけど、聞きたいから答えて」
「何?」
「橋元はいいのか?」
少しだけ顔を上げて隣を見る。そこには不機嫌さを隠そうともしない健の表情があった。あまりに素直な表情に絵梨は思わず笑う。
「なんだよ、その反応。言えねぇの?」
「違うよ。…大好きだったって伝えたよ」
「は?なんだよ、それ。やっぱ俺よりあいつが好きなのかよ?」
苛立つ健に絵梨は首を振る。そんな絵梨を健は睨むように見た。
「ちゃんと聞いてた?大好きだったって言ったんだよ?」
「だから何だよ」
「過去形なの」
「…なんか屁理屈」
「そんなことないよ。それより、明日から心配だよ」
「何が?」
「西島君のファン。…私じゃ、どうしても西島君と釣り合い取れないし」
「釣り合いとかどうでもいいけど。それに、俺がちゃんと守るから」
健のまっすぐな言葉に、顔が赤くなりそうで、思わず顔を逸らす。
「何?照れてんの?かわいいじゃん」
「…ね、ねぇ。今から、メガネ見に行かない?」
「は?」
「ほら、西島君言ってたでしょう?もっとおしゃれなやつにしたらって。変えてみようかなって思って。あとなんか雑誌も買おうかな」
メガネ一つで何が変わるわけではないだろう。けれどそれでも今よりかわいくなりたかった。健が隣にずっと自分を置いてくれるように。
「やめとけよ」
健の言葉に絵梨は首を傾げる。
「なんで?西島君が言ったじゃん」
「いいんだよ。お前がかわいいのは俺だけが知ってれば」
その言葉に、今度は本当に耳まで赤くなった。それを見た健が幸せそうに笑った。
【おまけ】蛇足です。
「あ~あ。なんだ、結局、悟の一人勝ちじゃん。絶対に俺が勝つと思ったのに」
「他の誰といる時よりも楽しそうだったからな」
「でも、意外だよね。健が絵梨ちゃんに落ちるなんて」
「そうでもないんじゃないか?」
「ん?」
「恋に意外なんてないだろう」
「…悟、もしかして、今の彼女と上手いこといってる?」
「智樹にしては鋭いな」
「なんだよ。お前らリア充しやがって。俺も本気の恋したい~」
最後まで読んでいただきありがとうございました!
コメントや評価を頂けたら嬉しいです!!
あと、お気づきの方がいてくれたら嬉しいんですけど、
橋元っちは以前投稿した『好きになったのは、最低な人でした。』に出てくる橋元譲です。
もし気になりましたら、そちらもご覧ください!