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中編

「何かお探しですか? お嬢さん」

 聞こえるはずのない声に呼ばれ、クラリーセはびくりと肩を震わせた。

 慌てて振り返ると、ひょろりとした長身を気怠げに扉へ凭せかけた彼がいた。赤みの強い髪を後ろに流し、漆黒の礼服に身を包んだ姿は、意外にも様になっている。無精髭をきれいに剃り落とし、目元の隈を脂粉で薄く隠しているせいか、いつもよりずっと健康的な紳士に仕上がっていた。

 しかし、クラリーセをじっとりと半眼で見つめる緑灰色の双眸には、見慣れた皮肉屋の笑みが浮かんでいた。クラリーセはきゅっと眉根を寄せて男を睨み返した。

「……ずいぶんとお早いお帰りね、賢者殿」

「ええ、貰えるものだけ貰ってとっととずらかってきました。煩わしい連中の相手をしているほど、私は暇ではないので」

「またお父様が甘やかしたのね。あなただって爵位を賜ったからにはれっきとした貴族なのだから、そういう方々のお相手をするのも必要な仕事の内ではなくて?」

 すると、彼はわざとらしく肩を竦めてみせた。

「爵位とはなんのことですか? 私はそんなものは一切貰っていませんが」

「……え?」

 きょとんと瞬くクラリーセに、彼は唇の端をゆるく吊り上げた。ハッと気づいたときには距離を詰められ、長身を屈めるように彼が片膝を折って顔を覗きこんでいた。

「私が国王陛下からいただいたのは、〈真赭ますほの賢者〉などというたいそうな称号だけですよ。貴族の身分も重苦しいだけの勲章も、すべて辞退させていただきました」

 クラリーセは今度こそ茫然とした。何度も何度も彼の言葉を反芻し、悲鳴を上げる。

「あっ、あなたなんてこと……!」

「大きな声を出さないでください。旦那様にお許しをいただいたとはいえ、途中で祝いの席を抜け出してきたと知られたら奥様から大目玉を食らう羽目になる。お嬢さんだって、なぜ私の部屋に忍びこんだのか問い質されたくないでしょう?」

 恩人である父にすら飄々とした態度を取る彼だが、母のことは昔から苦手らしい。魔術狂いの変わり者と呼ばれた男に嫁ぎ、一代で家を建て直す苦労を内助の功で支えた母は、聖母の微笑みと烈婦の豪胆さを併せ持つ女だった。やはり一代で貴族に成り上がった商家の出で、実家で培った知識と生来の機転で幾度も夫と婚家の危機を救ったそうだ。おかげで政略結婚であるにもかかわらず夫婦仲はたいへん睦まじく、娘が嫁入り前の年頃になった今なお新婚のような熱愛ぶりである。

 そしてこの屋敷の頂点に君臨するのは、実は当主たる父ではなく母だったりする。普段は良妻賢母の鑑のように夫を立てている彼女だが、決して譲らぬ部分は巌のごとくびくりともしない。クラリーセの知る限り、夫婦喧嘩(というほど両親のそれは激しくないのだが)で父が母に勝てたためしは一度もない。にこにこと笑いながら叱る母ほどおそろしいものはない、というのがクラリーセと彼の共通の認識だ。

 彼の指摘に、クラリーセはぐっと押し黙るしかなかった。たとえ家族同然の間柄とはいえ、未婚の若い娘がやはり未婚の男の部屋に忍びこむなど許されることではない。

「ところで、お嬢さんはいったいなんのご用で私の部屋に?」

 ささやくような低い声に驚くほど近く問われ、クラリーセはぎくりと全身を強張らせた。扉に続く前方を塞ぐように彼がいるため、逃げ場は部屋の奥しかなかった。

 ずるずると座りこんだまま後ずさるクラリーセに、彼は面白くなさそうに目を細める。広がったスカートの裾を押さえられ、少女の喉がひゅっと小さく鳴った。

「……あれほど私の部屋には勝手に入らぬよう、口を酸っぱくして言いましたよね? 魔術師の研究室というのは危険な薬や品がどこに転がっているかわからないんですよ。もしあなたがうっかり暗殺用の呪いでも発動させて死んでしまったら、私は旦那様や奥様にどんな顔を向ければいいんですか」

「そ、そんな物騒なものをどうして持っているのよ!?」

「あくまでたとえ話です。しかし、あなたを簡単に傷つけられる魔具があることも事実です」

 淡い灰色に煙るみどりの瞳の奥で、冷え冷えとした怒りが炎のように揺らいでいる。研ぎ澄まされたナイフよりも鋭く彼の言葉はクラリーセの良心を抉り、彼女は唇を噛んで俯いた。

「……ごめんなさい」

 膝の上で痛いほど握り締めた両手が小さく震えた。引っこんだはずの涙がこぼれ、青ざめた手の甲にぽたりぽたりと落ちる。

 彼はそっとため息をついた。

「何をしようとしていたか、お聞きしても?」

 呆れたような、だが優しい口調で問われ、クラリーセは唇をいっそうきつく噛み締めた。言えるわけがなかった。

「お嬢さん」

 再び言外に促されるが、クラリーセは黙ったまま頭を振った。ぱたぱたと涙が散り、埃の積もった床に点々と痕を残した。

 嗚咽だけでも洩らさぬよう必死に押し殺していると、とうとうぷつりと下唇の薄皮が破けた。滲む苦い血の味にクラリーセはなんともみじめで情けなくなり、ますます涙が溢れてどうしようもなくなった。

(今すぐ彼の目の前から消えてしまいたい……)

 ――その手紙をしたためたのは、女学校に上がって間もない頃だった。

 彼への恋心を自覚し、なんとか振り向いてもらえないかとまだ甘い幻想に浸っていたときの話だ。どれほど思わせぶりな振舞いをしてみせてもとんと気づかぬ彼に腹が立ち、悔しさに駆られるまま思いの丈を――今になってみれば悲鳴を上げて転げ回りたくなるほど恥ずかしい内容の――書き連ね、彼が広げたまま放り出していた魔術書のページの間に挟んで隠したのだ。

(思い知ればいいなんて、なんて恥知らずで浅慮だったの!)

 その後もやはり彼は相変わらずのままで、手紙は見つかることなく部屋のどこかで眠っているはずなのだ。今となっては早急に回収し、びりびりに破いて燃やし尽くしてしまいたい。いいや、必ずや成し遂げなければならない。

 それなのになぜ彼が目の前にいるのか。追い詰められたクラリーセはすっかり顔を上げることができず、狼の牙に晒された野兎のように震えることしかできなかった。

 黙秘を続けるクラリーセの耳に、二度目の嘆息が重々しく響いた。お嬢さん、と彼は少し温度を下げた声で彼女を呼んだ。

「あなたは昔から利口なようで向こう見ずな跳ねっ返りですね。……でもね、私はそんなお馬鹿なあなたが嫌いじゃありませんよ」

 密やかに続いた言葉に、クラリーセはわずかに困惑した。掠れ気味の口調が、まるではじめて聞いたもののようだったのだ。

 不意に乾いた男の指先が顎にかかり、更には唇に触れた。荒れた肌の冷たさに、クラリーセは濡れた双眸を見開いた。

「こんなに噛んだら、傷痕が残ってしまいますよ」

 ゆるやかに、だが有無を言わさぬ強さで顔を上向けられる。されるがままのクラリーセの目に、どこか甘さを滲ませた緑灰色の瞳が映りこんだ。

「ゼ、ルグ?」

 たどたどしく彼の名前を呟いた唇を、魔術師の指が優しくなぞる。林檎色のそれをいっそう赤く染める傷口で止まり――男は、当たり前のように少女へ顔を寄せた。

 ぺろりと。

 熱く、生々しいほどやわらかい何かが、クラリーセの血液を舐め取った。

「…………苦い」

 わずかに顔を離した彼は、眉をしかめて呟いた。「あなたの血は、なんだか甘そうな気がしたんですが」と訳のわからない理論をのたまっている。

 自分の唇に触れた舌が、まるで血の味を確かめるようにちろりと蠢いたのを認めた瞬間、クラリーセは大きく利き手を振りかぶった。

「おっと」

 しかし彼の頬に打ち下ろす前に、その手によってあっさりと捕らわれてしまう。

「あいかわらず直情的ですね」

「はっ……恥を知りなさい、ゼルグ・リュヒトッ!」

 先ほどの忠告を忘れ、クラリーセはこれまでの人生で上げたことのない大音声で叫んだ。

 怒りとも混乱ともいえない、ぐちゃぐちゃに混ざり合った感情が怒濤のように押し寄せ、痛々しいほど紅潮した頬の上を涙となってぼろぼろとこぼれ落ちていく。クラリーセは激しくしゃくり上げると、彼の胸を力なく叩いた。

「ど、どうしてこんなことができるの。わたくしのことなんてなんにも知らないくせに、今でも子どもだと思っているくせに! あ、あなたにとってはただの悪ふざけかもしれないけど、こ、こんなの、ただの辱めだわ……!」

 ひどい、ひどすぎると泣きじゃくるクラリーセを、長い男の腕がゆるゆると閉じこめた。

 掌に少し余る金色の頭を撫でながら、彼はなぜか楽しそうに笑って答える。

「いいえ、あなたのことならよく知っていますよ。小生意気で、意地っ張りで、負けず嫌いで。けれどとても聡明で誇り高い、私の自慢の友人です。……そしてこんな男を好いていてくれるらしい、けなげでかわいい女の子だということも」

 クラリーセは息を忘れた。

 おそるおそる視線を持ち上げると、悪党のように微笑む彼と目が合った。いつになく男臭く艶めくような表情にめまいがする。

 いっそこのまま気を失いたいと願うクラリーセの鼻先に、ぴらりと古ぼけた封筒が差し出された。

「お嬢さん、あなたがお探しのものはこれですか?」

 それは間違いなく、彼女が探し求めていた恋文だった。

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