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前編

診断メーカーからのお題『赤毛で睡眠不足な青年と高飛車で女学生な少女の最終回』(http://shindanmaker.com/130224)

 彼の部屋は薄暗く、埃っぽいような薬品臭いような、何ともいえない匂いに満ちている。

 あらゆる形状の書物や紙片が堆く積まれて山脈を成し、あちこちで雪崩が起こっている有り様だ。壁の棚には燐光を放つ鉱物やら干からびた生物の標本やら、やたらと気味の悪い品々がぎゅうぎゅうに詰めこまれていた。

 そして床に描いては消され描いては消されをくり返し、すっかり模様のようになってしまった魔術陣の白い痕。そういえば彼の指はいつもどこか粉っぽく、噛み癖のある短い爪の奥まで真っ白だったとふと思い出した。その証拠のように、握り潰された白墨の残り滓が魔術陣の周囲に散らばっていた。

(魔術師の研究室というのは、どこもこんなに汚いところなのかしら)

 クラリーセの身近にいる魔術師といえば彼くらいで、比較対象がいないためによくわからない。しかし、魔術師であることを抜きにしても彼がだらしない男だということはいやというほど知っている。

 当の部屋の主は留守だった。今頃は王宮の夜会で慣れない礼服に着られながら、華やかな淑女たちに取り囲まれて鼻の下を伸ばしているに違いない。

 クラリーセは眉根をきゅっと寄せると、余計な妄想を頭から振り払った。

(そんなことを考えている場合ではないわ!)

 裾を汚さないようにスカートをたくし上げ、おそるおそる魔術師の領域へと踏みこむ。この数年、毎日のように通った部屋だが、クラリーセが入ることを許されていたのはごく手前の空間までだった。軽口やちょっとした喧嘩すら交わすようになっても、それだけは変わらなかった。

 彼は、クラリーセの父が目にかけていた若手の魔術師だった。貧しい市井の生まれのために豊かな才能の原石をなかなか見出せられず、いざ学舎に進んでからも身分を理由に爪弾きにされていた。それでも独学で研究を重ね、せっせと書いては発表し続けていた論文が、たまたま父の目に留まったのだ。

 父は貴族の嫡男でありながら、若い頃は魔術に傾倒し、しかし才覚のなさを理由に泣く泣くその道をあきらめたという変わり者だった。魔術の才には恵まれなかったが商人としての才には富んでいたらしく、事業を成功させて家名ばかりとなっていた生家を見事に立て直してみせた。

 妻を娶ってひとり娘を儲け、それなりに年を取ってなお、青春時代の情熱を忘れられなかったらしい。父は彼に援助を持ちかけ、書生として屋敷に住みこみ、好きなだけ研究に没頭できる環境を提供した。そこで彼は大いに才能の花を咲かせ、わずか数年の間にこの国の魔術史を塗り替えるような発見を連発した。

 彼の打ち出した理論や術式によって魔術の技術力は驚異的に躍進し、国の文明水準は一夜で百年進化したとすら謳われた。もはや国内どころか世界中で彼の名を知らぬ者はなく、最も優れた魔術師に贈られる『賢者』の称号を彼が手にすることに、だれも文句など唱えるはずがなかった。

 今宵、彼は国王陛下からじきじきに最高位の勲章と相応の爵位、そして栄えある『賢者』の名を授与される。夜が明ければ、決してクラリーセには行き着くことのできない場所へ去ってしまうのだ。

(きっと二度とこの部屋には帰ってこない……もしかしたら、王宮に住むことすら許されるかもしれない)

 そう思うだけで、ツンと鼻の奥が痛んだ。慌てて瞬いたが、じわじわと涙とともに滲んでくる本音を隠すことはできなかった。ぽろりと雫がひと粒こぼれたかと思うと、あっという間に頬が塩辛く濡れた。

 クラリーセは嗚咽に喉を震わせると、とうとう顔を両手で覆ってうずくまってしまった。

 ――たまたま耳にした父と彼の会話で、彼への縁談を知った。

 王族の系譜に連なる名門のさる当主が、ぜひ娘婿になってくれないかと持ちかけてきたらしい。もちろん彼には王宮つきの魔術師としてこの上ない地位と援助を約束する、という好条件を添えて。

 彼を実の息子のようにかわいがっていた父は、自分のことは気にせず彼の好きなようにしたらいいと言った。彼はひっそりと眉をしかめ、「考えさせていただきたい」と唸った。

(でも、答えなんて最初から決まっているわ)

 何しろ彼は父に負けぬほどの魔術かぶれで、魔術馬鹿なのだから。

 一に魔術二に魔術、三四がなくて五に魔術。彼の日常というか人生を言い表すとしたらまさにそれだ。研究にのめりこむあまり、寝食どころか顔を拭くことすら忘れて目脂で瞼が張りついているなんてことはしょっちゅうだった。

 そんなだらしないどころか不衛生極まりない男のどこがよかったのか、自分で自分を問い質したい。鳥の巣のほうがよほどましな錆色の髪、寝不足が当たり前のために濃い隈のある目、おまけに無精髭。ひょろりとした長身は猫背のせいで不格好な印象を与え、ずるずると引きずるような長衣がそれに拍車をかけている。

 極めつけはその口の悪さだ。恩人の娘(しかもひと回り近く年下の相手に、だ)だろうと歯に衣着せぬ物言いで容赦なくやりこめ、何度泣かされたことか。クラリーセもクラリーセで気の強い子どもだったから、仔犬のようにキャンキャンと噛みついた。おかげで出会った当初はかなり殺伐とした関係だった。

(それが変わったのは……あの魔術じかけの小鳥を貰ってからだわ)

 屋敷での暮らしが半年を過ぎようとしていた頃、彼は研究に行き詰まっていたらしい。そこへ父からの期待が重圧となり、かなり荒んだ生活を送っていたようだった。今思うと、げっそりと痩せこけ、まるでこれから憎い仇でも殺しに行くような顔をしていた。

 そんなある日、いつものように彼と鉢合わせたクラリーセは、いつものようにこまっちゃくれた口を利いたのだろう。日頃の彼ならば皮肉ひとつで受け流すところだったが、そのときに限って燻っていた鬱憤に油をたっぷりと注いでしまったのだ。

(確か、誕生日の祝いにお父様からいただいたきれいな小鳥を自慢したのよね。そしたら彼に鳥籠を取り上げられて、小鳥を窓の外へ逃がされてしまったんだっけ……)

 緑松石ターコイズのように艶やかな青色をした、人懐っこく愛らしい小鳥だった。クラリーセの指先にちょんと乗ると、ピチュピチュと歌うようにさえずるのだ。それなのに鳥籠の扉が開くとあっという間に逃げてしまい、悲しいやら悔しいやらでクラリーセは大泣きした。

 泣きじゃくる少女の前で立ち尽くす彼の、ひどく途方に暮れた顔をよく憶えている。

 それから一週間ほど、ふたりは徹底的にお互いを避け続けた。クラリーセは決して彼の部屋に近づかなかったし、彼も部屋に閉じこもっていたらしい。父も母もすっかり手を焼いて、成り行きを見守るしかなかったようだった。

 しかし、膠着していた冷戦は思わぬ形で終結する。

 ある朝、クラリーセが目を覚ますと、きらきらと輝く小鳥が窓辺に止まっていた。それは逃げてしまった青い小鳥によく似ていたが、真鍮でできた人形だった。驚くクラリーセの目の前で、金属の小鳥はまるで生きているかのように羽ばたき、空っぽの鳥籠の中へ器用に入りこんだのである。

 ピィ、という鳴き声はおもちゃの笛の音だった。

 慌てて鳥籠を抱えて部屋を飛び出したクラリーセは、朝食を取っていた両親に朝の挨拶も忘れて小鳥の人形を見せた。すると父と母は顔を見合わせ、「ある『魔法使い』からおまえへの贈りものだそうだよ」と微笑んだ。

 彼のことだというのは、幼いクラリーセにもすぐわかった。彼女は再び走り出すと、あれほど避けていた彼の部屋の扉を何度も叩き、不機嫌そうに寝起きの顔を覗かせた『魔法使い』に飛びついたのだった。

(あれから、だんだん好きになっていったんだわ……)

 クラリーセと彼は、年の離れた悪友のような関係を築いていった。遠慮というものが一度なくなってしまうと、お互いに好きなことをずけずけと言い合うようになった。しかし、他のだれにも持ちえないその気安さがとても心地好かった。

 彼はクラリーセを他の使用人のように『お嬢様』ではなく『お嬢さん』と呼んだ。「あなたは私の小さな友人だから」といたずらっぽく笑う彼の言葉が、くすぐったく胸に響いた。

(本当に、あのひとの友人のままでいられたらよかったのに……)

 生まれてはじめて家族ではない異性に覚えた好意は、いつしか淡い恋心になっていった。それは少女にとってごく自然な変化だった。女学校に通うようになると、ふとした瞬間に彼が自分よりずっと大人の男性なのだと意識してしまい、ひとり舞い上がったり慌てたりした。

 だがどんなに時が流れようと、彼の態度が変わることはなかった。彼にとってクラリーセはいつまでも『小さな友人』でしかなく、それ以外の何者にもなりえないのだ。

 尊く特別に感じていたその関係は、小さな棘になってクラリーセの胸の奥に突き刺さり、彼と過ごす無邪気な幸福を疼くような痛みに変えた。きっと、この棘は生涯だれにも抜くことはできないだろう――彼以外には。

(いつかこんな日が来るとわかっていた。あのひとがこの部屋から消えて、わたくしはあのひとの一番近くにはいられなくなる。小生意気でかわいらしいだけの女の子には決してなれない、あのひとだけの、大切なひとが……)

 彼は知りもしないのだ。クラリーセがもうすぐ女学校を卒業し、ほんの少し先の未来にはだれかの花嫁になるということなど。

 とびっきりとはいかなくとも、クラリーセはそれなりに見目のよい娘だった。濃い金色の髪を絹のリボンで編みこみ、すんなりとした手足を藍色の地に白い襟が映える女学校の制服に隠した姿は、いかにも清楚で品のいい令嬢に見えた。肌は白く、甘い林檎のように色づいた唇は形よく微笑む。

 唯一の欠点といえば、父親譲りの吊り上った野葡萄色の双眸だった。どうやら生来の負けん気の強さがまなざしに表れてしまうようで、うっかり気位の高い相手と視線が合うと「なんと卑しい目つきなのか」と顰蹙を買ってしまうのだ。おかげで女学校や社交の場に出るときには、しおらしく目を伏せる癖がついた。

 彼はいかにも馬鹿馬鹿しそうに「そんなくだらない連中なんて鼻で笑って相手にしなければいい」と言っていたが、貴族の家に生まれ、唯一の跡取り娘であるクラリーセはその意見に同意してはいけなかった。

 いずれ彼女は相応の相手を選び、父から家名を譲り受ける婿を取らねばならない。それは遠い将来のことではなく、現に父の許にはいくつかの縁談が持ちこまれている。

 父はクラリーセとこの家にふさわしい若者を選りすぐり、彼女が卒業を迎える頃にそっと見合いを勧めるだろう。愛娘には甘い父のことだから「おまえが気に入らなければ断ればいいのだから」なんて言うかもしれないが、クラリーセは微笑んで受け容れるつもりだった。

(もう子どもではいられない。あのひとの小さなクラリーセのままでは。わたくしにはこの家を、お父様の功績を守り、受け継ぎ、そして末永く伝えていく役目がある)

 彼のように貧しい、あるいは身分が低いというだけで有望な将来を閉ざされる若者が少しでも減るように。移ろう時代が、この国の可能性を担う芽吹きを踏みにじる暗澹へと向かわぬように。

 それが、誉れ高き賢者の『小さな友人』である自分の矜恃であり使命だと思うのだ。

(だからこそ、未練は捨てなければ)

 クラリーセは涙を拭い、赤く泣き腫らした目で前を睨んだ。彼が帰ってくるまでに、この部屋のどこかにあるだろう手紙を探し出さなければならない。

 かつて、幼く愚かだった自分が密かに隠した、彼への恋文を。

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