柑橘系な関係
はじめてのキスがレモン味という噂は、一体どんな人が流したんだろう。
お菓子みたいにふわりとした甘い恋愛を経験した人なのかな。
そんなことを私はひとりで悶々とけっこう真剣に考えていた。
時刻は夕方。天気は快晴。窓から差し込む、オレンジ色の眩しい光。
弱小文芸部の狭い部室内で、私は本棚から適当な小説を手にとって息抜きをしていた。
流行に詳しい後輩のお気に入りかつ、近頃話題の恋愛小説。
私も女子なので後輩に話を聞いた時から興味を持っていたけど、店頭で買うのにためらいがあり、読めずにいた作品だ。適当にとって、たまたま、この作品を棚から引き当てただけと、誰に言うでもなく内心で言い訳を用意しておいて、私は小説を読み進める。
パラパラとページをめくると、繰り広げられるのは同年代の高校生たちの恋愛模様。主人公は恥ずかしがり屋の女の子だ。相手役の男子は軽音部のドラム。
意中の人と隣席になった喜び。
お昼を一緒に食べようと誘われた時の緊張。
居眠りをする隣人を起こすときのためらい。
エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ……。
そして初めて意中の男性との距離が……と、
展開される物語があまりに初々しくて微笑ましくて、心臓をキュウキュウと座布団で圧迫されたような淡い苦しさを感じて、つい、『初キスがレモン味の噂の出所』なんて妙なことを考えてしまった。放課後に私はなにをしているんだろう。
私が恋愛小説を読んでこういったことを考えるのは、私のお父さんに大いなる責任がある。
できれば、笑わずに聞いて欲しいのですが。
私のはじめてのキスは、ワサビ味だった。
あれは忘れもしない、五歳の冬。酔っぱらったお父さんが「ハル~」と私の名前を呼んで、それになんの疑いもなく「パパ~」と近づいた私はふわりと抱きしめられ、そのままキスを食らった。
うええ、と突然の口づけに混乱した私は自分の唇をなめた。
とたん、私の舌に味わったことのない衝撃。
会社の飲み会で遅く帰ってきたお父さんは、お寿司をお土産に買ってきたのだけれど、あろうことか、お土産を自分で食べてしまっていたんだ。もちろん、大人なのでサビあり。
つまり、緑色の憎らしい調味料が、お父さんの唇を経由地点にして、いたいけな五歳児の唇に不時着してきたという痛ましい事件が起きてしまった。
以来、私はなにかでキスシーンを見たり、聞いたりするたびにワサビ味が浮かんでしまい、それと同時にお父さんとのキスがフラッシュバックしてしまうようになった。
ワサビと酔ったお父さんのワンセットが、みずみずしい青春の物語をジャックしてくる。私は感動して涙を流しているのか、ワサビのツンとくる味を思い出して泣いているのか判らなくなってしまう。
この話をして笑い転げる友達はいても、相談に乗ってくれる友達はいない。人望が欲しい。
一部でワサビ先輩と呼ばれているけど、泣かない。耐える。
趣向を変えて怪談調で話したり、お涙ちょうだいの感動仕立てで話したり、色々試したけど、ダメだった。お決まりのようにからかわれちゃうけど、当人としてはかなり深刻な悩みだ。
だって、私には青春の相方くんがいるのだから。
*
相方くんと出会ったのは今年の四月。約半年前。
ピカピカの新入生として部活を見学しに来た一人の男子生徒。名前は吉永俊。
吉永くんは、細身で眼鏡のいかにも文学少年といった出で立ちだった。この子が本を読まずに誰が読むんだよ、ってほど見事な文学少年だった。
そんな吉永くんが見学に来たとき私は、先輩も同級生も不在で、今と同じように、ポツリと一人で部室の本を読んでいた。完全に不覚だった。
ちらりと、今日はさっさと帰ればよかったなと思いもした、正直。
しかし私は、それでは先輩として駄目人間過ぎると思い直して、初めての後輩をゲットできるかもと、アワアワしながら部活の説明をした。
このときのことは、緊張で頭が真っ白になって、滑舌もそりゃあもう悲惨なことになって、五文字に一回噛んでしまったという最悪な思い出として残っている。醜態をさらけ出しまくった私はその日の夜、ベッドに飛び込み、布団をひっつかみ、日本語でも外国語でもないオリジナル言語を生み出してうめきまくり、いつのまにか就寝した。いわゆるふて寝だ。
そして翌日。
新入生に痴態をさらす、滑舌最悪な先輩が所属する文芸部なんていかねー。と吉永くんに思われているだろうなと全てをあきらめた私は、重たい気分を背中にしょいながら登校していた。その日の授業は全然、上の空の究極系を実行にうつした私の頭に入ってこなかった。
友達との会話も、へえ、はあ、しか言えず、傷心のあまり放課後、トイレの個室にこもった。
トイレットペーパーで折り紙を折って現実から逃げていても、時間が私を追い詰めた。部活動の時間が刻一刻と迫り……時よ止まれッ! という願いむなしく、私の腕時計は残酷に確実に、針を進めつづけていた。
どうやって学校から逃走しようと作戦を練っていると、いきなりケータイに着信があり、不覚にもマナーモードにしていなかったため、個室の壁によぉーく響く着信音が、私の潜伏場所を知らせた。
すばやく音を消し、届いたメールを確認すると、『上原美春捜索騒動勃発』という件名のメールだった。捜索されているのは私。さきほどの騒音。個室のドアの隙間から見える誰かの足。
当然、私は尋常じゃない冷や汗をかいた。
抵抗と説得と事情説明も効果はなく、「今日は帰っていい」という甘い嘘に引っ掛かり、ドアを開けた私は、部長にトイレからひっぱりだされ、部室へとアブダクションされた。
そこで私は、信じられないものを見る。吉永くんが部室のテーブルに着席して、部誌を読んでいたのだ。私に気づいた吉永くんはにこりと笑い、会釈をしてくれた。部誌のページは、なんの運命のいたずらか、私由来の文章がエイヤ! と印字されている箇所。それも初期の初期、入学して初めて書いた小説だ。
言っていなかったけど、私は混乱の境地に達すると、奇怪な行動をとるという直さなければ不味い欠点を抱えている。
昨夜生み出したオリジナル言語を口から発しながら、吉永くんの持つ部誌をひったくり、トイレに爆走した。だけど、懸命の走りもむなしく、陸上部と兼部しているスポーツ系文学少年である速水先輩に、安全圏である女子トイレを目の前にして捕獲されてしまった。
捕らわれの身となった私は、再び部室に搬送される。
いきなり意味不明の言語で話しながら、人が読んでいるものを奪って逃走する変人が所属する文芸部なんて生理的に無理だわー。と今度こそ拒絶されると泣きそうになったし、先輩や同級生に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
あんな文学文学してる少年なんてこの現代、十年、いや百年に一人いるかの貴重な人材だというのに私のせいで……と張り巡らせている本人にもわけのわからない思考が脳内を支配した。怖くて目が開けられない、部員のみんなや吉永くんを直視できない。
ぷるぷると蛇に睨まれた蛙のように身動きできないでいると、
「上原先輩の文章、好きなんですよ」
そう一言、吉永くんがつぶやいてくれたのだ。その一言は童話に出てくる魔法のように、私の不安やマイナスの感情をさらりと薄めてくれて、私はやっと目を開けることができた。
話を詳しく聞くと、去年の文化祭で配布していた部誌を読んだ吉永くんは、私の作品が気に入り、それで入学したら文芸部に入ろうと決めてくれていたらしい。
驚くべきことに、ズブの素人である私の文章が、少年の青春の進路をかすかに決定させたのだ。この話を聞いたときは鳥肌が立って、全身がゾワゾワした。充足感なのか背徳感なのかグチャグチャした感情が、胸の中を渦巻いていた。
そうして読者と作者という形で一足先に出会っていた私たちは時を経て、本人同士の対面を果たしたのだ。想像通りの人で安心しました、と笑う吉永くんと呆然と泣き笑う私が結ばれるのに、そう時間はかからなかった。これが私の青春の相方誕生秘話だったりします。
*
そして現在。ぎこちない交際スタートからあっという間に三か月。
私の所属する文芸部は、文化祭を目前に控えているのです。
今日は私と吉永くんが祭りの準備を当番している。部員の原稿をコピー用紙に印刷して、それをホチキスで製本するという地味ながらも根気のいる作業。
私には根気が足りないとお母さんからよく注意されるけど、まったくもってその通り。私は紙を折り、ホチキスをパチパチする作業に疲れ、まいってしまっていた。まいった私を見かねてか吉永くんが飲み物を買いに行ってくれ、私は情けなくもそれに甘え、部室で息抜きに小説を読んでいたというわけだ。我ながらひどい先輩だ。
自己嫌悪に苛まれてうーうーとゾンビのような声を出して、痛む胸をかきむしっていると、部室のドアが開く。吉永くんがコンビニのビニール袋を片手に帰ってきた。私はすぐさま奇行をやめて、冷静な年上の女性という自らの理想像を演じようと試みるも、
「はい、レモンティーでしたよね」
「あっ、うん……」
吉永くんの顔を見ると、冷静にはいられなかった。そういった物語をヘタクソながらに生み出すことはできるし、冷静な女性の描き方だってちょっとは勉強してる。けれど、その学習は実生活で役に立つことはなくて、ヘタレな先輩という嫌気がするほど有りのままの自分でしか、吉永くんと話せない。
ペットボトルのふたを開けながら気づく。
レモン、ティ、キスの味。
私は謎の連想ゲームにおちいり、勝手に顔面の温度を上昇させた。人類史上もっともアホな連想として認定されてもおかしくないよ、これ。なんだか飲みにくくなり、私はペットボトルのふたをキュルルと閉めた。
「飲まないんですか?」
お茶のペットボトルを両手でもてあそんでいる吉永くんが私の顔を見てきた。
「へっ、あ、いや、飲む、飲むよ?」
「具合、悪いとか?」
「ううん! だいじゅぶ」
滑舌は普段通り大丈夫じゃない。けど私たちの間では日常茶飯事なため、吉永くんはスルーしてくれる。滑舌よりも、私は自分の発想に困窮していた。
例のワサビ事件は私と吉永くんの関係性において、おおきな問題を作っている。
恋人という関係性において、おおきな問題。
キスが、できないのだ。いやべつにしたいわけじゃなくてね!
ほら、その……。
もし、なんらかの弾みで吉永くんが、それをしたくなったときに、拒絶してしまう。
そういう自分が容易く想像できてしまって、
私は吉永くんとの距離を縮めたくても、縮められずにいる。
友達に相談しても、笑われるし、ハイハイ惚気ゴチですー、とあしらわれるだけ。
手をつなぐくらいで、挙動不審になる私にはまだ早い悩みだけれど、いつか将来。
隣にいる優しい相方くんを傷つけることだけは、したくないんだ。
だから、毎日悩んでたりすんだけど、まったく解決案をひらめけない。
私は黄色いパッケージのこんちくしょうを、ぺちぺち平手で叩きながら息を吐いた。
「溜息とか、らしくないですね」
「うあ、ごめんね、ちょっと疲れちゃって」
「寝ればいいじゃないですか。僕が作業しますし」
吉永くんはテーブルの上にある私の分のコピー用紙を手に持つ。
「だっ、だめって! さすがにそんなに甘えちゃ、いちおー……ほら、先輩だしさ」
「そうですか」
「そうです!」
無表情の吉永くんからコピー用紙を受け取り、私は姿勢を戻した。パイプ椅子がギシリと軋む。目の前の本棚にある品揃えを眺めて平静を取り戻そうと努力してみる。放課後の脱力した空気は、とても好きだけれど、心が簡単にふやけそうで、ちょっぴり苦手でもあった。
「それ読んでるんですか?」
吉永くんが指差す先、そこには今話題の恋愛小説。
「あ、うん適当に棚から選んだら、これでね、それで」
まさか用意していた言い訳を使う時が来るなんて。用意周到でよかった。
吉永くんはさっきまで私が読んでいた本を取り、読み始める。時計の針が進む音と、吉永くんがページをめくる音が部室の中に響く。
私は吉永くんの読書姿を横目に、ほんわかした気持ちになりながら、いまだ終わりの見えない単純作業を再開した。
折って、パチパチ、折って、パチパチ、折って、パチパ……。
「なんか初めてのキスはレモン味、とか帯ついてそうですね、コレ。ものすごい王道というか」
あやうく自分の指をパチリしそうになった私はホチキスをテーブルに落とした。
「そ、そうだねぇ。ベタっていうかねぇ……あはは」
「あはは。先輩、それキス味ですね」
私は自分の心が読まれていたんじゃないか、吉永くんはエスパーなのかと激しく動揺し、テーブルに置いていたペットボトルを床に落とした。ああいったことを恥ずかしげもなく、顔を上気させるでもなく言ってのけちゃう吉永くんが羨ましく、うらめしい。
私はペットボトルを拾おうとして、テーブルの下に潜り込む。もし許されるなら、ずっとテーブルの下に隠れていたい。私はテーブルの下で体育座りをする。
「先輩? なんで出てこないんです?」
「暗い所が好きなの、夜行性なんだ!」
しまった、ごまかしたい一心で、言葉にトゲがついてしまった。吉永くん、怒るだろうか。
「キス、キスか……ねぇ先輩、そのままで聞いてくれますか。僕の顔を見ずに」
いつになく、重々しい声色でお願いされたら、断れるわけがない。大事な相方くんが、なにか年上の人間に相談したいことがあるのかもしれないんだ。私は、いいよ、と返事をした。
ありがとうございます、と吉永くん。それから、二秒ほど間があって、
「僕のファーストキスは、からし味なんです」
私はテーブルに思いっきし頭をぶつけた。大丈夫ですか? と私の安否を確かめてから、吉永くんは淡々と話を続ける。
あれは五年前……僕が十歳の頃です。親戚どうしの集まりで、姉や妹と同じテーブルに座って、僕はとある鍋ものを食べていました。練り物とか玉子とか大根とかを煮る、おでんです。
上原先輩も会ったことありますよね、僕の姉。
……そうそう、そうです。歳が十個離れてる、はい、あの清純系の。
それで当時二十歳になったばかりの姉は親戚の集まりということで羽目を外し過ぎ、そのうえ周りの大人も囃し立て、あれよあれよと酒類を飲み干していきました。芋焼酎をがぶがぶと、ハイボールをごくごくと。
いやあれは圧巻でしたねー、姉が姉じゃなくなる瞬間。姉という慣れ親しんだ存在から、酔っ払いという生物へと昇華した姉は、それはもう、未知ですよ、未知。
普段は大人しい姉が、ビール瓶をラッパしだしたときには、血の気がザザッと引きましたね。
それですっかり出来あがった姉は、同じように出来あがっている親戚にお酌をして回り、ついに、僕と妹が怯えている席にやってきたのです。
猫に追い詰められたネズミの気分でした。
姉はまだ子供である僕たちに、お酌ができないことでパニックになったのか……よくわかりませんけど……おでんを小皿によそってくれたんですよ。そこで妹と僕は一安心。姉がとってくれたホカホカの具をほおばりました。姉も自分のおでんを食べていました。
すっかり油断していたその時です、姉が僕の頭をひっつかみ、無理矢理、唇を奪ってきました。僕の名前じゃない男の人の名前を連呼しながら。きっと彼氏です。
僕は涙を流しました。姉がこんなことを彼氏としているのかという事実と、舌を這い、鼻を抜けていくえげつない味のせいで。
姉はからしをたっぷり付けておでんを食べる人だったのです。
これが僕の人生初めてのキスでした。
壮絶。
一言で表すならばその熟語があまりにしっくりくる。一気に私の耳に入ってきた吉永くんの話は、私の原体験よりもずっと精神的ダメージが高そう、ううん、断然高い。
まさかあの体の半分以上、八割くらいがやさしさで出来ていそうなお姉さんが……。
「彼氏とからしのダブルショックですよ。あれからというもの、ドラマを見ても、映画を見ても、なんでも。キスを扱うものに関わるたび、姉とからしが出てきてしまうんです」
そこまで言うと、吉永くんは私に手を差し伸べてくれた。恐る恐るそれをつかんで、私はテーブルの下から這い出る。
そのまま吉永くんは私を立たせ、
「それでですね、先輩が描く恋愛小説は、ほんと、ひねりがなくて、まっすぐで。嫌味もないし、飾ってもなくて、ちょうどこの本みたいに、いやこれよりずっと王道でした」
右手に持ったハードカバーをちらと見て、再び私をじっと見つめる。
どうして私の小説が出てくるのだろう。いきなりの品評と真摯な眼差しに身が固まる。
「キスっていえば、からしと姉の豹変しか思い浮かばない僕の意識を変えてくれたのが、初めて読んだ上原先輩の小説だったんですよ」
にこり、と半年前と同じように笑う吉永くん。
いつもそうだ。この子は。
どこまでも、まっすぐな言葉で、まっすぐ話してくれる。
私は、そんな風に口で気持ちを伝えることが苦手で、
そのモヤモヤを消化するためのツールみたいに小説を書いてたし、書いてる。
憧れを登場人物に、物語に投影して。文章だけでも、そう思って。
そんな私の文章を『まっすぐ』と言ってくれて、好きだと言ってくれた。
常にストレートしか投げない彼に、私は、尊敬と愛おしさを感じるようになって。
三か月前の、今日と同じような夕暮れの部室でいつもは白い顔を真っ赤にして、
一生懸命、言葉を選んでるのが、聞いてる私の心にこれでもかとぶつかってくるくらい、
真摯に恋心を告白してくれたときの吉永くんと、今の吉永くんの姿が記憶の中で重なる。
気が付けば、トクトクと動悸が激しくなっていた。吉永くんと繋いでいる手が汗ばむ。
「徹底的にキスシーンを避けて、肉体的距離よりも心のふれあいに注視して、それを一度もブラさずにどんどん新作を書く先輩は、清廉で本当に可愛らしいなぁと思います」
「くぁわっ……ち、違うの! あのね私もっていうか、私の方はちょっとヘッボいんだけどね、私、ワサビなの、初めてのキス……」
過去を話してくれた相方に、私も応えたい。うまく伝えられるだろうか、聞いてくれるだろうか。頭が真っ白になりそうなのを右手にあるペットボトルの冷たさで振り払う。
「ワサビ?」
「う、うん。あああの、五歳のときにね、お寿司食べてたお父さんにキスされて、ギャーッってなって、そうなのよ……だからべつに清廉とかじゃなくて、お父さんとワサビが浮かんじゃうからで、その……」
静まり返る部室。友達に話したら、普段は笑われるか、ちゃかされるかするのに。
支離滅裂な言葉なのに。
まとまりなんてどこにもないのに。
吉永くんは笑いもせず、ちゃかしもせず、そっと私の話を聞いてくれる。
「それで……キスの場面を避けてるだけ、なんだよ…………え、えへへ」
嬉しさを堪えきれずに私の方が笑ってしまった。表情を硬くしていた吉永くんも破顔した。
「どうりでそういう空気を避けるわけですね。夜景とか絶対に見に行きませんし、映画とかもアクションとかヒーロー物ばっかりで」
「うん……でもまさか、調味料トラウマ持ちがこんな身近にいたなんてわかんなかったよ」
「僕だって失言を取り返そうとしただけで、こうなるとは……あ、ごめんなさい」
パッ、と吉永くんが私の手を放してそそくさとパイプ椅子に座った。かわいい。
私もパイプ椅子に座りなおす。そしてどちらが言い出すでもなく、作業が再開された。
折って、パチパチ、折って、パチパチ、折って、パチパチ。
相当量の部誌が積みあがっていく。こんなに二日間でさばけるのかな。
折って、パチパチ、折って、パチパチ、折って、パチ……約二時間経過。
「だめ、げんかい!」
私の体力が尽きた。指の関節が痛い。右手をプラプラさせても効果なし。
もし弱小文芸部じゃなかったらオフセット印刷とかで楽ちんなのかな。
……印刷会社の人に見られるくらいなら、細々とコピーしてた方がいいや。
夕日に染め上げられていた空は、すっかり秋の夜の色になっていた。
「もう遅いし帰りますか。これだけやれば部長も褒めてくれます」
「うん……でも」
「大丈夫ですよ。先に自転車置き場に行っててください。僕、職員室に鍵、やっとくんで」
*
私は吉永くんの勢いに押されるまま部室から廊下に出て、職員室へと駆けていくすらりとした背中を見送った。私、年下の子に気を遣わせてばっかりだなぁ……。
単純労働の疲労と不甲斐なさが相まってひどい倦怠感が私をおそった。
ぽてぽてと足取り重く、校門前の自転車置き場にいく。
愛車の鍵をはずして、帰宅の準備を整えた。後は吉永くんを待つだけだ。
五分くらいボーっとしていると、待ち人来たり。
「カバンちょーだい」
「はい、すみません」
吉永くんの鞄を自転車かごに入れる。私の鞄と隣同士。当人たちより密着している。
なに考えてんだ……。
私はうつむきながら校門に向かって歩き出した。吉永くんも歩幅を合わせてついてくる。
秋の夜は好きだ。暑くもないし、寒すぎもしない。
秋空にはまあるい月も出ていて、恋人同士が帰宅するのにぴったりすぎる夜だった。
あたりに人はいなくて、私と吉永くんの足音と、車輪が回る音だけが聞こえる。
丁度いい温度の風が私の頬をするりとなでる。
いっちょまえに長い髪がゆれる。シャンプーを変えたことに吉永くんは気づいてるかな。
相方のきみに長い髪が好きって言われてから、丁寧にケアするようになったな。
きみと深くかかわると、自分が変化していくのが面白いけど、やっぱとまどうなぁ。
私が私でなくなるというか、きみのための私になりたいというか……。
「先輩、飴、舐めます?」
「う? うんもらう」
なぜか吉永くんは毎日なんらかの飴を携帯している。
そして私はそれを一日一個、帰り道にもらうのだ……餌付けされてるのかもしれない。
「甘いのって味覚の頂点だと思うんですよね。人が幸せを感じるのも甘さらしいですし」
「あー、わかるよ。幸せを求めちゃうよ、女子は特にね」
ころころと私たちの舌の上で転がる飴。私のはイチゴ味だ。疲れた体に甘味が染みわたる。
「いまの先輩はイチゴ味か」
「ぶっ!」
ころころとアスファルトを転がる飴。
「いったいなにを言い出すの! も、もったいないじゃないか、ほら飴がっ!」
「もいっこ、あげます」
「う、ありがと……」
私は飴をもらうために手を出す。とんでもなく紅潮してるから、ぷいと顔をそらして、手のひらだけを吉永くんに差し出すようにする。
けれど、何秒たっても手のひらに飴がのっかる気配がない。
疑問に思った私は立ち止まり、秋風が冷ましてくれた顔を吉永くんに向ける。
「くれないの?」
「いまあげます」
その瞬間、雷が、頭蓋におちて、そのまま身体中をまんべんなく麻痺させて地面に抜けていった。いやもちろん比喩だけれど、比喩じゃないくらいのナニカが私の身に起きた。
頭脳の活動がスローペースになって、一歩づつ、現状の確認作業が行われる。
なんだろう、このやわっこいのは。それにぬくい。
やわっこくてぬくいのが、私の顔面の下部にあたっている。
あれ、この位置って。顔のここにあるのって。
「むぐぐ……」
息苦しい、息ができない。なにかに口がふさがれているみたい。
口? そうだ口だよ。口に……。
「ぷっは! こここれっキキキキキキスじゃんか!」
正気に戻った私は、合わさっていた唇を離して、今までで一番間近な相方くんの顔に叫ぶ。
完全に不意打ちだ!
「唇を舐めてみてください」
「いや、へっ? はひゃふへ?」
得意のオリジナル言語を活用するも、吉永くんには私の動揺の億分の一も伝えられてない。
言われるままに、下手くそなアッカンベーをするみたいにベロを出して、自分の唇を舐める。
「…………甘い」それにこの味は。「……レモン?」
「そうです」
そうです、と言ったきり吉永くんはさっきの私のように、顔をそっぽ向かせてしまった。そしてズカズカと大股で歩いていく。私は小走りで吉永くんに追いついて、彼の顔を見ようと試みる。
やっと追いついた私の目に入ったのは、スイカみたいにほっぺたを真っ赤にした、吉永くん。
私が隣に来て観念したのか、吉永くんの歩調がゆっくりになる。
「僕は先輩を変えられましたか」
ぽつり、質問が空気にまじった。
「僕は先輩の小説のおかげで変われました。だから、今度は僕が先輩を変えようと」
「えっと……さっきのは、私のワサビを打ち消そうとしてくれたってこと?」
こくり、と首肯が返ってきた。
「ごめんなさい、付き合って初めてだったのに。浪漫も風情もなにもなくて。それに僕ときたら美春さんの……」
「う、うん」
なんだい、こんなときに名前で呼ばれたらドキッとしちゃうじゃないか。
「美春さんのお父さんに嫉妬してました、とんでもない男ですよ、僕は」
こんなセリフを大真面目に話す吉永くんは、たぶん、とてもパニックになっている。
私はといえばドギマギしている吉永くんを見てると、逆に落ち着いてきた。
この人も、私と同じように、相方のことで混乱してんだなと感じて。
「あはっあっはっは! 嫉妬かぁ……そっか。ふふ」
「面目ないです」
「初めてのキスはレモン味を実践するなんて、そーとー浪漫成分多めだよ、吉永くんてば」
「恥ずかしいです……」
「そんな。へこまないでよ、嬉しかったんだから。恋人同士のキスは、ちゃんと憧れのとーり、甘いんだってわかったからさ。これでもう、キスでワサビやお父さんを思い出すことはないよ」
「……そうですか」
「そうです。私をきみが変えたの。だからね、思い出すとしたら、きみのことだよ」
吉永くんの相槌がとぎれた。依然、彼の顔では火事が起きている。
その火の手は、やがて私の顔へと燃え移り、いまさらに自分がとてつもなく恥ずかしいセリフをべらべらと喋っていたことに気付いた私は、うーうーと数時間ぶりにゾンビになった。
隣の子もうーうー言っていたのでペアゾンビだ。
人目がなかったことだけが本当に幸いでした。
*
こうして、私の初キスは一日にしてワサビ味から、レモン味に見事塗り替えられたのでした。
お父さんとの古い記憶と相方くんとの鮮烈な記憶じゃ、お父さんが敵うはずがなかったのだ。
冷静に言っちゃえば、物理的に甘い口づけだったけれども、体が弛緩しちゃって涙が出そうになるアレは、たしかに甘酸っぱいものに例えられるのも納得だな、と私は上機嫌で帰宅した勢いのままに、自分の部屋で、ごろんごろんしながら物思いにふけっていた。
交際三か月でやっとキスするくらいに私と吉永くんはぎこちないけれど、体が火照るほどの充実感を一つずつ、ゆっくり味わえるのは、ぎこちないゆえの特権かもなぁ。
お菓子みたいにふわりと甘くなくても、柑橘系みたいに甘酸っぱい私と吉永くんの関係は、きっとファーストキスはレモン味論を世界で初めて考案した人も、ナイスレモンと褒めてくれるかもしれない。ナイスワサビじゃなくてよかった。
青春の危機に瀕していた私の悩みは泡と消え去っ…………てないぞ!
……忘れもしないあれは十二歳の春……小学校の卒業遠足。
意気揚々と班のみんなで遊園地を遊び倒そうとしていた。
私は常々乗りたいと思っていたジェットコースターに並んだ。
身長が届かないせいで、以前家族と来たときに乗ることができなかったんだ。
みんなは、乗ったことあるよー、怖いよー、と話していたけど全員が笑顔で話していたため、これは絶対に楽しいものなんだと、私は好奇心で胸をドキドキさせて順番を待った。
そしてやってきた、運命の時。動き出すモンスターマシン。
初めてジェットコースターに乗った私は、拘束具のきつさと目まぐるしく回転する景色に完膚なきまでにノックアウトされ、それ以降の長い時間を日陰のベンチで過ごすという大惨事を招いてしまったのだ。
美春ちゃん、私たちだけでほんとに行っていいの? 大丈夫なの?
という班のみんなの優しさが胸に痛かった。
みんなが居なくなってから、タオルを顔にかけて、ベンチに寝転がりひとり、泣いた。
今日、ゾンビモードから帰ってきた吉永くんと別れたときの会話をリフレインする。
(懸念もなくなったところで、文化祭の振り替え休日、遊園地行きませんか)
(うん、いいね!)
私はワサビ事件が無事解決したことで有頂天になり、すっかり忘れていたのだ……。
自分が……自分が遊園地恐怖症だということを……。
「た、楽しみですってゆってたし、が、がんばらねば……おしゃれせねば……ううあああ」
小学生の頃の記憶と戦うため、私は布団にもぐりこみ、親に聞こえないよう、わめいた。
私と吉永くんの青春航路はまだまだ困難が多そうであります。
おもに、私のせいで。
お疲れ様です。お読みいただき、ありがとうございました!