プロローグ
仕様書のない世界へ
――仕様書ってのは、読まれないために存在している。
それが俺の、社会人生活で得た結論だった。
画面いっぱいに並ぶ専門用語。
誰も見ない注釈。
「あとで直します」と書かれたまま十年放置された注意書き。
それでもバグが起きたとき、最後に頼られるのは決まってその仕様書だ。
「なんでこんな動きするんだよ……」
午前二時。
オフィスに一人、俺――佐藤圭一は、モニターを睨みながらコーヒーをすすっていた。
仕様通り。
でも、想定外。
いつものことだ。
誰も理解していない世界を、仕様だけが知っている。
そして俺は、それを読む役だった。
――胸が、痛んだ。
次の瞬間、世界が裏返る。
視界が白に塗りつぶされ、重力が消えた。
*
「ようこそ、異世界へ」
声がした。
目を開けると、そこは真っ白な空間だった。床も壁も境目がない。
目の前には、光の塊のような存在が浮かんでいる。
「あなたは不幸な事故により命を落としました。お詫びとして、転生の権利を与えます」
テンプレだな、と思った。
最近よく読む、なろう小説の導入そのままだ。
「能力を一つ、授けましょう。勇者級の力、最強の魔法、無限の魔力……好きなものを」
普通なら、ここで叫ぶんだろう。
――最強をくれ! と。
でも俺は、少し考えてから言った。
「……その世界の仕組みを、知ることはできますか?」
光が、一瞬だけ揺れた。
「ほう?」
「ルールとか、制約とか、例外処理とか……そういうのです」
「変わった願いですね」
光は少し楽しそうに輝いた。
「いいでしょう。ただし――」
その声が、わずかに低くなる。
「すべては見せられません。
あなたに与えるのは――限定的な閲覧権限のみ」
嫌な予感がした。
「スキル名は――」
光が、宣告する。
――《世界仕様閲覧(限定)》
「戦闘能力は付与されません。魔力量も最低水準です」
「……ですよね」
知ってた。
「ですが」
光は続けた。
「あなたは、この世界で唯一、“仕様を読む者”になります」
次の瞬間、意識が落ちた。
*
目を覚ますと、石造りの天井が見えた。
知らない言語のざわめき。
剣と鎧を身に着けた人々。
どう見ても、異世界。
頭の中に、文字が浮かび上がる。
《世界仕様閲覧(限定)》
《閲覧可能項目:物理法則/魔法構造/生物行動優先度(一部)》
《警告:すべての仕様は開示されていません》
……なるほど。
仕様書、未完成か。
俺は、苦笑した。
「読まれない仕様書があるなら……
読む役は、俺でいい」
こうして俺は、
剣も魔法も持たずに、異世界へ放り込まれた。
――世界のバグだらけの仕様書を抱えて。




