第九話 塩気
「ありがとうございましたー」
そう声をかけると、女の客は軽く頭を下げて店を出ていった。
扉が閉まる音がして、店内にはいつもの静けさが戻る。
夜のこの通りは人が少ない。
そもそも、この時間に開いている店自体がほとんどない。
だから、ああやって迷い込むように入ってくる客は、だいたい事情を抱えている。
さっきの客も、例外じゃなかった。
入ってきたときから、様子は分かりやすかった。
腹が減っているというより、落ち着く場所を探している。
そんな感じだ。
目は少し赤く、呼吸も浅い。
席に着くなり、水を一気に飲み干したのを見て、すぐに注ぎ足した。
声をかけるほどのことじゃない。
喉が渇いている人間は、水を飲めば少しだけ現実に戻る。
それだけの話だ。
注文のときも、料理名を聞かなかった。
「私に合いそうな料理をください。すぐ出るもので」
そう言われて、変に考える必要はなかった。
こういうときは、重すぎず、軽すぎず、温かいものがいい。
だから牛丼ミニにした。
味噌汁とおしんこを付けたのも、自然な流れだ。
食事というより、区切りを作るためのセット。
味噌汁を口にした瞬間、彼女は俯いた。
肩がほんの少し揺れたのを見て、
ああ、今まで張っていたものが緩んだんだな、と思う。
泣かせるつもりはない。
ただ、温かいものは、勝手に人の気を緩める。
牛丼は、静かに、でも止まらずに食べていた。
一口ごとに迷いが減っていくような食べ方だ。
こういう客は、大丈夫だ。
途中で手が止まる人間の方が、よほど危うい。
おしんこの塩気で、ちゃんと味を切り替えているのも悪くなかった。
食べ終わった後の「ごちそうさまでした」は、
小さかったが、店に入ってきたときより、ずっと安定していた。
会計の五百四十イェンを置く動作も、もう焦っていない。
料理で人を救った、なんて思うほど、俺は傲慢じゃない。
ただ、腹が満ちると、人は余計な思考を一旦止められる。
その隙があれば、自分で立て直す時間が生まれる。
この店は、そのための場所でいい。
夜が早いこの世界では、考え事をする場所も案外少ない。
だからこそ、夜に灯りをつけて、飯を出す。
それだけだ。
カウンターを拭き直しながら、次に来るときのことを考える。
あの客は、きっと次はもう少し量を食べる。
並か、それとも最初から大盛りか。
そんなことで悩めるくらいが、ちょうどいい。
鍋の火を調整し、次の仕込みに手を伸ばす。
夜は、まだ終わらない。
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