第八話 牛丼ミニ、お味噌汁とおしんこセット
お腹が空いていた。
それだけは、はっきりしていた。
喉の奥が妙にひりついて、塩気のあるものが食べたかった。
涙のせいだと、自分でも分かっている。
泣いた後の身体は、どうしてこんなにも正直なのだろう。
別れ話をしたのは、ほんの少し前だ。理由は単純で、どうしようもなかった。
浮気。
その一言で、信じていた時間が、音を立てて崩れた。
問い詰めた言葉も、返ってきた言い訳も、今はもうどうでもよかった。
ただ、胸の奥に残った重たいものだけが、ずっと消えずにいた。
家には帰りたくなくて、あてもなく歩いた。
夜のこの通りは人影がなく、灯りも少ない。
昼間はそれなりに人が通るはずなのに、日が落ちると嘘みたいに静かになる。
暗さと静けさが、不安を余計に膨らませて、足音だけがやけに大きく響いた。
だから――赤と黄色の灯りを見つけた瞬間、逃げるように扉を押した。
理由は分からない。ただ、明るい場所にいたかった。ひとりで泣いている自分を、これ以上感じたくなかった。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた声だった。それだけで、胸に張りついていた緊張が、少しだけほどける。
何かを聞かれることも、詮索されることもない。
ただの挨拶が、今はありがたかった。
席に着くと、すぐに飲み物が出された。
茶色っぽいコップで、中の液体はよく分からない。水なのか、茶なのか、その判断すら今はどうでもよかった。
喉が渇いていた。
迷わず、一気に飲み干す。冷たさが、内側に溜まっていた熱を少しずつ落ち着かせていく。
空になったコップを見ると、店長は何も言わず、もう一杯注いでくれた。
そのさりげなさに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
気遣われている、と意識しなくていい距離感が、心地よかった。
「……あの」
声を出すのが、少し怖かった。自分が今、どんな顔をしているのか分からなかったからだ。
「私に合いそうな料理をください。すぐ出るもので」
自暴自棄なのは分かっている。
でも、今は選ぶ余裕がなかった。考えることを、少しだけ放棄したかった。
「わかりました」
それだけ言って、店長は奥へ下がる。その背中を見ている間、不思議と心がざわつかなかった。
ほどなくして、料理が運ばれてきた。
「お待たせしました。牛丼ミニと、お味噌汁、おしんこのセットです」
名前を聞いても、正直ぴんとこない。
ただ、湯気の立つ茶色いスープと、香りのいいご飯を前にして、自然と息をついた。
考えなくていい。ただ、食べればいい。その単純さが、今は救いだった。
スプーンを手に取り、まずは味噌汁を口に含む。
……温かい。
その一口で、身体の奥まで張りつめていたものが、ゆっくりとほどけていくのが分かった。
逃げなくてもいい場所が、今ここにある気がした。
それだけで、堪えていたものが切れて、思わず俯く。泣くつもりなんてなかったのに、ぽろりと一粒、こぼれてしまう。
少し落ち着いてから、牛丼に手を伸ばす。
ご飯の上に乗った肉は柔らかく、甘辛い味がじんわりと広がった。
噛むたびに、ちゃんと美味しいと感じられる自分が、少しだけ戻ってきた気がした。
美味しい。
一口、また一口。
おしんこの塩気が、今の気分に不思議と合う。
全部が解決したわけじゃない。明日になれば、また思い出すかもしれない。
それでも今は、ちゃんと座って、食べて、息をしている。それだけで十分だと思えた。
気づけば、すべて食べ終えていた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
「お会計、五百四十イェンです」
硬貨を置く音が、やけに現実的に響く。
その感触が、今ここにいる自分を、確かにつなぎ止めてくれた。
店を出ると、夜はまだ暗い。
でも、さっきよりは、少しだけ息がしやすかった。
胸の奥にあった重たいものが、完全に消えたわけじゃない。
それでも、抱えたまま歩けるくらいには軽くなっている。
……次は、もう少し大きいサイズでも、いいかもしれない。
そう思いながら、私は静かな通りを歩き出した。
涙の跡は、もうなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
お味噌汁ってなんであんなに心に染みるんでしょうか。
この女性が次の恋に進めることを願ってます。
また、読んでいただけると嬉しいです。
※毎日7時/19時投稿予定です✨




