第七話 夜を超える
「ありがとうございましたー。」
扉が閉まって、鈴がひとつ鳴る。
その音が消えるのを待ってから、俺はカウンターの内側に戻った。
夜は静かだ。
この通りは、昼間でも人が多い方じゃないみたいだが、日が落ちると一気に気配が薄くなる。
遠くで足音がした気がしても、すぐに聞こえなくなる。
さっきの客は、きちんとした身なりをしていた。
背筋が伸びていて、言葉遣いも丁寧。
この時間に来る客にしては、少しだけ余裕がないようにも見えた。
まあ、理由はどうでもいい。
夜に腹を空かせている。
それだけで、ここに来る理由としては十分だ。
カウンターの上に残った丼を見る。
中身はきれいに空で、縁にだけ、溶けきらなかったチーズが少し残っている。
白く固まって、薄く張りついていた。
チーズ牛丼は、軽い飯じゃない。
疲れている時には、少し重いかもしれない。
それでも、頼まれれば出す。
四口目くらいだったか。
あの客は、赤い小瓶を手に取って、少し迷ってから傾けていた。
ほんの少しだけかけて、口に運ぶ。
その瞬間、目がわずかに見開かれた。
……ああ。
ああいう反応を見ると、悪くないなと思う。
チーズと牛丼だけでも十分なのに、そこに辛さが入る。
強引な組み合わせのはずなのに、不思議とまとまる。
考えなくていい味だ。
噛んで、飲み込んで、少し汗をかく。
頭が追いつく前に、腹の方が先に満たされる。
夜に来る客には、そういう飯が必要な時がある。
丼を下げて、軽く拭く。
紅生姜の容器を見ると、ほとんど減っていない。
どうやら、あの客は紅生姜よりも、チーズと辛い方が好みらしい。
それも、別に構わない。
牛丼なんて、食べたいように食えばいい。
正解なんてない。
レジの中には、六百六十イェン。
この世界に来てからも、金の感覚だけは妙にズレていない。
理由は分からないが、今は深く考えないことにしている。
それよりも、体の感覚だ。
腹は減るし、眠くもなる。
仕込みの間隔も、前とほとんど変わらない。
何時、という意識も、妙に狂っていない。
この世界の時間がどうなっているのかは分からない。
でも、少なくとも俺の体は、前と同じように夜を感じている。
それなら、判断はしやすい。
考えるより、出せているかどうか。
腹を満たせているかどうか。
それだけでいい。
食べ終わったあと、あの客は一度だけ、深く息を吐いていた。
肩の力が抜けたような、そんな顔だった。
今日は、ここまで。
多分、そういう夜だったんだろう。
それなら、この店は、ちゃんと役に立った。
次の仕込みに手を伸ばしながら、俺はそう思う。
さて。
次は、どんな客が来るだろうか。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
また、読んでいただけると嬉しいです。
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