第二十三話 カレー②
二口目を口に運ぶ。
一口目よりも、ゆっくりと味わった。
舌の上で転がし、すぐには飲み込まない。
やはり、ただ辛いだけではない。
鼻の奥に抜ける香り、喉に残る熱、そしてわずかに甘い余韻。
それぞれが主張しているのに、不思議とぶつからない。
知っている香りが、いくつもある。
だが、その名前がどうしても思い出せない。
幼い頃、故郷の市場の裏で嗅いだ匂い。
母が鍋をかき混ぜるたびに、立ち上っていた香り。
確かにそこにあったはずなのに、記憶の中では輪郭が曖昧だ。
それでも分かる。
これは偶然ではない。
この料理には、たくさんの香辛料が使われている。
それぞれが複雑に絡み合い、この異常な美味さにつながっている。
何度も配合を変え、失敗し、捨て、また作り直した末に辿り着いた味だ。
この一皿に至るまで、どれほどの時間と金が費やされたのだろう。
考えただけで、自然と背筋が伸びた。
ある意味、香辛料の世界における一つの完成形を味わっている。
そんな気分にさえなる。
食べ進めるごとに、辛さが身体の奥へ染み渡ってくる。
喉から腹へ、そして指先まで、じわじわと広がる熱。
――そう、この感覚だ。
自分が生きるには、この感覚が必要なのだ。
汗をかき、息が少し荒くなり、それでもスプーンを止められない。
辛さは苦しさではなく、確かな実感としてそこにあった。
途中で、水を一口飲む。
口の中を整えるため、という理由だけではない。
このまま食べ続けたら、胸の奥に溜め込んでいたものまで、
一緒に溢れてしまいそうだった。
鼻の奥が、少しだけつんとする。
水は冷たく、無味だった。
だが、その無味さが、今はありがたい。
感情を一度、まっさらに戻してくれる。
そして、もう一度スプーンを取る。
ふと、カレーとご飯の境目にある、
茶色い野菜のようなものに目が止まった。
スプーンで掬い、口に運ぶ。
……うまい。
さっぱりしていて、カレーの濃い後味と驚くほど合う。
なるほど。
これは牛丼で言う、紅生姜のようなものか。
強い味の合間に挟むことで、口の中を整え、
次の一口をまた新鮮にしてくれる。
これがあれば、いくらでも食べられる気がした。
スプーンは止まらなかった。
気づけば、皿の中身はみるみる減っていく。
食べ進めるほどに、遠い故郷へ帰れている気がした。
この料理は、確かに私の故郷と繋がっている。
空になった皿を見下ろした時、
そこには、笑顔の母と妹の顔が浮かんだ気がした。
――こっちは元気だよ。
――あなたは、あなたのやるべきことを全うしなさい。
母に、そう言われた気がした。
そうだ。
私には、まだ故郷へ帰れない理由がある。
それが成されるまで、どれほど寂しくても、
この国で生きていくと誓ったのだ。
残った水を飲み干し、立ち上がる。
会計をするため、カウンターの方へ向いた。
「カレー並盛で、四百九十イェンです」
安い。
あれだけの香辛料と、人の叡智を集めた料理が、
本当にこの値段でいいのかと思ってしまう。
硬貨で支払いをすませる。
そのあと、立ち去る前に、私は一度だけ店主の方を見た。
声をかけるつもりはなかった。
なぜこの人が、これほどの香辛料を扱えるのか。
なぜこの国で、これほどの料理を出せるのか。
疑問はいくつも浮かんだが、どれも口にはしない。
ただ一つ確かなのは、
ここが、私を故郷へ連れて行ってくれる場所だということだけだ。
店を出て、空を見上げる。
夜空は暗く、どこまでも続いている。
一瞬、飲み込まれそうになる。
それでも、私は前を向いて生きていかなければならない。
故郷への想いを、胸に抱いたまま。
どれだけ辛くても、耐えられる気がした。
あの料理が、いつでも故郷へと連れて行ってくれるのだから。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この人がこの国で成すべきこととは一体何なのでしょうか。
気になって夜しか眠れません。
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