第十九話 ニンニク白髪ネギ牛丼
神殿に仕えるようになって、ようやく一年が過ぎた。
下級とはいえ神官は神官だ。朝夕の祈り、施しの準備、清掃、雑務。覚えることは多く、失敗もまだ多い。それでも白い衣を身にまとうたび、背筋は自然と伸びる。
――肉を口にしてはならない。
それは、神に仕える者として、最初に刻まれた教えだった。
血と脂に満ちた食を遠ざけ、身も心も清らかであれ。
……けれど。
正直に言えば、私はお肉が大好きだった。
幼い頃、家族と囲んだ食卓。焼ける音。立ち上る匂い。噛んだ瞬間に広がる、確かな満足感。
神殿に入ってから、それらはすべて「過去」として胸の奥にしまい込んだはずだった。
最近、施しに来ている獣人の兄妹がいる。
ある日の夕刻、教会内を歩いていると、ふいに耳に入った声があった。
「にい、また、あのお肉お店、行きたいね。」
「……ああ。行けるように頑張らないとな。」
内容はそれだけだった。
場所も、店の名も、詳しい話は何ひとつない。
それでも、
――お肉のお店。
その言葉は、胸の奥に小さな火を灯した。
その夜。
祈りを終えても、心が静まらなかった。
外へ出る理由を探している自分に気づき、愕然とする。
けれど足は、いつの間にか神殿の裏口へ向かっていた。
夜の城下は静かだ。
灯りの落ちた通りを歩いていると、不意に、空気が変わった。
――匂いだ。
甘く、香ばしく、鼻の奥を強く刺激する匂い。
無意識に足が止まる。
暖簾のかかった一軒の店。
赤と黄色。
やけに目立つ配色で、白い文字が浮かんでいる。
意味は分からないのに、不思議と目を引かれた。
そして、扉の隙間から漏れる気配が、異様に濃い。
まるで私を誘惑しているかのように。
私は一度、深く息を吸い、扉を押した。
中は明るく、静かだった。
客の姿はなく、木のカウンターと、外の静けさが嘘のように、整った空間が広がっていた。
席に腰を下ろすと、店主は何も言わず、茶色のコップに入った液体を差し出した。
水か、お茶か。
よく分からないまま口をつけると、冷たさが喉を通り、張りつめていたものが、少しだけ緩んだ。
……帰るなら、今だ。
そう思ったのに、言葉は喉の奥から滑り落ちた。
「この店で……幸福になれるものを。」
自分でも驚くほど、かすれた声だった。
少しして、店主が盆を持って戻ってくる。
「お待たせしました。ニンニク白髪ネギ牛丼です。」
そう言って、丼を置かれた瞬間――
匂いが、爆発した。
鼻を突く刺激。
目の奥がじんと熱くなるほどの強さ。
湯気とともに立ち上る香りが、逃げ場なく私を包み込む。
肉の色。照り。
上に載せられた、白い細切れの何か。
それらすべてが、強烈に訴えかけてくる。
思わず、唾を飲み込んだ。
――だめだ。
分かっている。
これは教えに反する。
私は丼の前で、両手を組んだ。
神よ。
私は、弱い者です。
誓いを立てたはずなのに、この匂いの前で、心が揺らいでいます。
命を糧とすることを禁じられた身でありながら、
それを欲し、美しいと感じてしまう私は、どれほど罪深いのでしょう。
どうか、罰を与えるなら、この身に。
他の誰でもなく、私に。
――それでも。
それでも、この衝動だけは、抑えられません。
震える手で箸を取り、ひと口。
……。
言葉が、消えた。
熱と甘み。
脂の重なり。
刺激的な香りが、口いっぱいに広がる。
美味しい。
それだけでは足りない。
気づけば、夢中でスプーンを動かしていた。
ああ神よ。
これが貴方様の仰る幸福な世界だと言うのですね。
しばらくして、はっと正気に戻る。
息が乱れている。頬が熱い。
……見られた。
店主に、この姿を。
顔を上げられず、立ち上がる。
「……お会計を。」
「七百三十イェンです。」
あまりの安さに、思わず目を見開いた。
支払いを済ませ、ほとんど逃げるように店を出る。
夜風が、火照った頬を冷やす。
私は空を仰ぎ、小さく祈った。
神様。
どうかまた、この店に来ることを、お許しください。
――きっと、私は、戻ってきてしまうのだから。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
夜中に食べるカップラーメンのように、コタツに入りながら食べるアイスのように、教義に反して食べる牛丼はきっと罪深い味なのでしょう。
神様に祈りが届くといいですね。
また、読んでいただけると嬉しいです。
※毎日7時/19時投稿予定です✨




