第十八話 瓶ビール
正直に言えば、最初は気味が悪かった。
隣の工房の石工だ。
昼間はいつも通り、無口で、石と向き合っているくせに、ここ最近、夜になると姿を消す。しかも、決まって腹を押さえるような動きで、こそこそと。
夜だぞ。
この国で、夜に出歩く理由なんて、ろくなものじゃない。
だから、ある晩、俺は仕事道具を置いたまま、後をつけた。
石工は迷いなく裏通りを抜け、灯りの落ちた通りを進み、そして――
ぽつんと暖簾の出ている店に入った。
……なんだ、あれは。
鼻を突く。
いや、刺すんじゃない。引っ張られる。
肉の匂いだ。それも、脂の匂いに、何か刺激のある香りが混じっている。
外から覗くと、石工は丼を抱えるようにして、何か赤いものをたっぷり乗せた肉を、夢中でかき込んでいた。
喉が鳴った。
くそ。
くそくそくそ。
我慢できるわけがない。
俺は、ずんぐりとした体を屈めるようにして扉を開けた。
背は高くないが、鍛冶場で鍛えた肩と腕には自信がある。
腰まで垂れた赤銅色の髭が、歩くたびに揺れた。
「……おい。」
石工が、目を丸くする。
「なんで、ここに……。」
その顔を見て無性に腹が立った。
短く言葉を交わし、俺は空いている席に腰を下ろした。
椅子が、ぎしりと音を立てる。
この体重と筋肉は、飾りじゃない。
店内は静かで、火と油の匂いが混じっている。
夜なのに、妙に落ち着く空間だった。
――酒だ。
今の俺に必要なのは、それだけだ。
この国の酒は、正直まずい。重く、苦く、喉に残る。
鍛冶仕事のあとに飲むには、どうにも向いていない。
「とりあえず、酒をくれ。」
煤と鉄の匂いが染みついた俺の声に、店主は一瞬だけ目を向けてから言った。
「瓶ビールになりますが、よろしいですか?」
聞いたことのない酒だ。
だが、断る理由もない。
「それでいい。あと……そいつが食ってるのと同じものを。」
まず出てきたのは、酒だった。
――冷たい。
分厚い指で瓶を掴んだ瞬間、思わず目を見開いた。
鍛冶場の熱しか知らない指先に、はっきりとした冷えが伝わってくる。
こんな酒、触ったことがない。
コップに注ぐと、淡い黄金色の液体が、静かに泡を立てた。
泡は細かく、すぐに消えない。
火明かりを映して、ゆらりと揺れる。
ごくり。
音を立てて、喉が鳴る。
一口。
……なんだ、これは。
冷たい。
軽い。
なのに、芯がある。
苦味はあるが、嫌じゃない。
喉を通り抜ける瞬間、腹の奥がすっと静まる。
思わず、もう一口。
止まらなかった。
「……うまい。」
太い髭の奥から、低い声が漏れた。
ふと、昔の夜を思い出す。
俺の国、ドワーフの国では、仕事が終われば夜が始まった。
工房の火を落とし、仲間と酒場に集まり、夜更けまで飲む。
鉄の話、武器の話、失敗談、くだらない喧嘩。
酒はいつも冷たく、泡立ち、夜を引き延ばしてくれた。
酔いとともに笑い、また明日も打てると思えた時間だ。
あの感覚だ。
この国では、夜は閉じられている。
飲む時間も、語る時間も、削られている。
だが、この酒は違う。
夜を、肯定している。
そのタイミングで、料理が運ばれてきた。
「お待たせしました。牛丼並盛です。」
湯気。
肉。
ビールを一口、肉を一口。
――最悪だ。
いや、最高すぎる。
脂の甘さを、ビールが洗い流す。
手が止まらない。
喉も止まらない。
空になった瓶を見て、俺は言った。
「……もう一本、くれ。」
店主は黙って頷き、次の瓶を出してくる。
二本目は、最初よりもうまかった。
体が、この味を理解し始めている。
気づけば、丼は空になり、瓶もまた軽くなっていた。
「……参ったな。」
その言葉を聞いて石工が、にやりと笑う。
その顔にまた腹が立ったが、この店に免じて怒りを飲み込んだ。
会計は、九百三十イェン。
安いとは言えない。
だが、この満足感なら、むしろ安い。
店を出ると、夜の通りは静まり返っていた。
腹は満ち、頭は冴えている。
――明日も、いい武器が打てそうだ。
そう思いながら、俺はもう一度だけ、店の灯りを振り返った。
……ああ。
ここは、夜を知っている店だ。
間違いなく。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
私はさっと飲みたい独りの夜に、よく瓶ビールセットを頼みます。
このドワーフが酔って喧嘩をしないように気をつけてなければいけませんね。
また読んでいただけると嬉しいです。
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