第十七話 牛丼並盛(特盛)②
運ばれてきた丼は、
想像していたよりも重そうだった。
そして、店内に貼ってある絵より、幾分か多そうに見えた。
白い飯。
その上に乗った肉。
湯気が、真っ直ぐ立ち上る。
妹が息を呑む。
「……これ、ぜんぶ?」
「そうです。」
俺が答えるより先に、店主が言った。
「お熱いので、ゆっくり食べてくださいね。」
それだけ言って、店主は奥に下がった。
俺は、スプーンを取った。
手が、少し震えている。
一口分を取り、皿に分ける。
妹の前に置くと、彼女は一瞬、俺を見る。
「……いいの?」
「食え。」
それだけで、妹は頷いた。
最初の一口。
妹の目が、丸くなる。
言葉はなかった。
ただ、噛む。飲み込む。
次の一口は、少し大きかった。
俺も、口に運ぶ。
甘い。しょっぱい。油が、喉を通る。
腹の奥に、熱が落ちていく。
涙が出そうになるのを、必死で堪えた。
腹が満たされるというのは、
こんなにも――恐ろしいことだったのか。
失う前に、知りたくなかった。
妹は、夢中で食べている。
こぼさないように、慎重に。それでも、止まらない。
俺は、その姿から目を離せなかった。
この一杯が、
今日を生き延びる理由になる。
そう、思ってしまった自分を――
否定できなかった。
―――――――――――――
――あったかい。
それが、最初に思ったことだった。
口に入れた瞬間、甘いような、しょっぱいような味がして、
噛むと柔らかいものがほどけていく。
お腹の奥が、じんわりする。
怖くない。
苦しくない。
兄がいつも分けてくれる硬いパンとは、ぜんぜん違う。
噛むたびに、体の中に「大丈夫」って言葉が落ちてくるみたいだった。
顔を上げると、兄がこっちを見ていた。
じっと、逃げ場がないくらい真剣に。
だから、私は少しだけ、急いで噛んだ。
大丈夫だよ、と言いたくて。
でも言葉は、喉に引っかかって出てこなかった。
代わりに、もう一口。
湯気が鼻に当たって、少しくすぐったい。
目が、勝手に細くなる。
こんな匂いの夜は、初めてだ。
外は暗くて、
お腹が鳴ると叱られて、
眠れば忘れられると思っていた。
でも、忘れなくていい夜もあるんだと、
このご飯が教えてくれる。
兄が、ゆっくりとスプーンを動かしている。
いつもより、少しだけ、肩の力が抜けている。
――また、ここに来たい。
理由は分からない。
お金のことも、明日のことも、分からない。
でも、この匂いを、
この熱を、
もう一度知っていたいと思った。
私は、また一口食べた。
――――――――――――――
丼の底が、見えた。
見えた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
空になったからじゃない。終わってしまったからだ。
妹は、最後の一口をゆっくり噛んでいた。
急がない。
奪われる心配がないことを、もう理解しているみたいだった。
……そんな顔、いつ以来だ。
俺はスプーンを置き、丼を両手で持ち上げる。
中身は、きれいに無くなっていた。米粒一つ残っていない。
腹は、正直に言えばまだ足りない。
でも、不思議と焦りはなかった。
満たされたのは、胃袋だけじゃない。
妹が小さく息をつく。
熱いものを食べ終えた時の、あの吐息だ。
「……おいしかった。」
小さな声だった。
それでも、はっきりと聞こえた。
俺は何も返せず、ただ頷いた。
言葉にしたら、何かが壊れそうだったから。
店内は静かだ。
鍋の奥で、かすかな音がしている。
夜の外より、ここはずっと落ち着いていた。
――だめだな。
こんな場所に慣れちゃいけない。
居心地がいい場所は、長くはいられない。
俺は立ち上がり、店主の方を見る。
「……勘定を。」
声が、少し低くなった。
店主は手を止め、こちらを見た。
表情は変わらない。値踏みもしない。
「並盛一つで、四百五十イェンです」
俺は懐を探り、硬貨を取り出す。
「……うまかった。」
絞り出すように言うと、店主は軽く頷いた。
それだけだった。
見返りも、説教もない。
哀れみすら、感じさせない。
それが、逆に胸に来た。
妹の手を引き、出口へ向かう。
扉の前で、もう一度だけ振り返る。
店主は、もう鍋の方を向いていた。
俺たちに背を向けたまま、次の準備をしている。
――また来たい。
その考えが浮かんだ瞬間、俺は視線を逸らした。
だめだ。
そんな余裕は、俺たちにはない。
夜の通りに出ると、空気が少し冷たかった。
妹が、俺の腕にしがみつく。
腹は、確かに満たされている。
だからこそ、歩き出せた。
また腹が減ったら。
また、どうしようもなくなったら。
その時、思い出してしまうだろう。
この夜の匂いを。
それが、少しだけ怖かった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
牛丼の量が増えてる事なんて、誰も気づきません。店長を除いては。
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