第十六話 牛丼並盛(特盛)①
腹が鳴ったのは、恥ずかしいことではなかった。
それは、生きている証拠だったからだ。
だが、妹の腹が鳴る音を聞くたび、胸の奥がきしむ。
あの夜から、ずっと。
俺たちは犬と狼の血を引く獣人だ。
嗅覚が鋭く、夜目が利く。
その分、人の街では目立つ。
戦争が終わった後も、それは変わらなかった。
いや、正確には――戦争が終わってからのほうが、居場所は減った。
村は焼け、群れは散り散りになった。
守るはずだった大人たちは戻らず、残ったのは俺と妹だけだった。
王都に来れば仕事があると聞いた。
だが現実は違った。
獣人というだけで門前払いされることも多い。
賃金は安く、危険な仕事ばかり回される。
それでも、妹を飢えさせないためなら、何だってやるつもりだった。
その夜も、稼ぎはなかった。
日が落ち、通りの灯りがまばらになる頃、俺たちは人目を避けるように歩いていた。
――匂いがした。
肉の匂いだった。
火を通した脂の匂い。穀物の甘さ。湯気に混じった、腹を殴るような温かさ。
俺より先に、妹が立ち止まった。
「……にい。」
小さな声だった。
振り返ると、妹の鼻がひくひくと動いている。尻尾も、わずかに揺れていた。
「だめだ。」
反射的に言った。
金がない。
店に入れる身なりでもない。
何より、厄介事は避けたかった。
だが妹は、通りの奥をじっと見つめている。
木の看板。暖かな灯り。開いた扉の向こうから流れてくる匂い。
「……ちょっとだけ。」
その声は、頼みというより祈りだった。
俺は歯を食いしばった。
腹が減っているのは、俺も同じだ。
だが妹は、俺よりずっと細い。ここ数日、まともに食べさせてやれていない。
「見るだけだ。」
そう言って、俺たちは店の前に立った。
中からは、人の気配がした。だが騒がしくはない。
逃げ出すなら、すぐにできる――そう判断して、扉を押した。
温かい空気が、顔を包んだ。
一瞬、それだけで足が止まる。
カウンターだけの小さな店だった。
視線を感じて身構えたが、店の奥に立つ男は、俺たちを見て眉をひそめることも、追い払うこともしなかった。
妹が、小さく息を吸った。
「……いい匂い。」
その一言で、腹が鳴った。
俺の腹も、妹の腹も。
逃げ場は、もうなかった。
金はほとんどない。
だが、この匂いを嗅いでしまった以上、何も食べずに出ていく選択肢は――俺には、選べなかった。
俺は一歩、前に出た。
「……あの。」
声が、少し掠れた。
生き延びるために、何度も頭を下げてきた。
だがこの時ほど、妹の視線が背中に突き刺さったことはなかった。
腹を満たすという行為が、
こんなにも、怖い夜があるとは思わなかった。
妹は俺の背中に半分隠れたまま、だが目だけは忙しなく動かしていた。
木のカウンター。
壁に掛けられた札。
湯気を上げる鍋。
そして――鼻をくすぐる、あの匂い。
「席、どうぞ。」
店主の声は低く、穏やかだった。
警戒も好奇も混じっていない。
ただ、そこにある声。
俺は一瞬ためらい、それから妹の手を引いてカウンターの端に座らせた。
椅子は、妹には少し高い。足が宙に浮いている。
店主は何も言わず、茶色コップを二つ置いた。
水か茶かは分からない液体。
妹がそっと口をつける。
それだけで、表情が少し緩んだ。
「……おいしい。」
それを聞いて、胸の奥が少しだけほどける。
俺は財布の中身を思い出していた。
硬貨が数枚。紙はない。
これで何が頼めるのか――いや、そもそも頼めるのか。
「……この店で一番安いものを。」
そう言うのが精一杯だった。
情けない声だったと思う。
店主は俺の顔ではなく、妹を一度だけ見た。
それから、短く頷く。
「並盛でいいですか。」
聞き返されて、言葉に詰まる。
量の話ではない。値段だ。
「……いくらだ。」
「五百四十イェンです。」
一瞬、理解できなかった。
耳が、言葉を拒んだ。
「……それで、二人分か。」
「一杯です。」
一杯。
だが、店主は続けた。
「取り皿、お出ししますよ。」
それだけだった。
余計な説明も、恩着せがましさもない。
鍋の音が、少し大きくなる。
肉を焼く音。油が弾く音。
妹の尻尾が、小さく揺れた。
俺はそれを見ないふりをした。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
長くなりそうでしたので、2話に分けさせてさいただきました。
次回も読んでいただけると嬉しいです。
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