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第十五話 育ちの良さ

夜の帳が下りると、この通りは本当に人が消える。


この国では、夜は休む時間だ。


腹を満たすのは昼のうち。夜に外を歩く者は、よほどの事情があるか、段取りを間違えたか、そのどちらかだ。


店の灯りだけが浮いている、この時間。

鍋の中で出汁が温まり、カウンターの上には、使われる予定のない生卵が静かに並んでいた。


――鈴が鳴った。


扉を開けて入ってきたのは、若い男だった。


服装は地味だが、仕立てはいい。


背筋が自然に伸びていて、周囲を確認する仕草にも無駄がない。

兵士でも、職人でも、役人でもない。


だが、どこか「慣れている」感じがあった。


夜の店に入るのが初めてじゃない。

そういう落ち着き方だ。


「いらっしゃいませ。」


声をかけると、男は軽く会釈をして席に着いた。

店内には他に誰もいない。


水か茶か分からない飲み物を出すと、男は一口飲んで、わずかに息をついた。

肩の力が抜けるのが分かる。


腹が減っている、という感じではない。

むしろ、頭の中が騒がしい客だ。


しばらくして、男がこちらを見る。


「この店で、よく出るものを。

 それに合うものを頼みたい。」


言葉遣いや抑揚の付け方が丁寧だ。

だが、へりくだってはいない。


考えて、牛丼並盛と生卵を出すことにした。

この店の基本で、余計な説明もいらない。


「お待たせしました。牛丼並盛と、生卵です。」


丼を前にした男の視線が、肉の重なりと湯気をなぞる。

それから、生卵に少しだけ目を止めた。


迷いがある。

以前、どこかで別の「常識」を教えられてきた迷い方だ。


男は卵には手を付けず、先に牛丼を食べ始めた。

スプーンの使い方が、妙にきれいだ。


三分の一ほど食べ進めたところで、卵を見て、こちらに尋ねてきた。


「この卵は……生で食べても問題ないのか?」


「はい。大丈夫ですよ。」


生で食べられる、という答えに、男は小さく頷いた。

だが、その表情にはまだ慎重さが残っている。


 ――この国では、卵を生で食べる文化がないのだろうか。


ふと、そんな考えが浮かぶ。


少なくとも、これまで来た客で、生卵に何の疑問も持たず手を伸ばした者はいない。


そもそも生卵を注文する客も数えるほどだ。


卵は火を通して食べるもの。

そういう価値観が、この国では当たり前なのかもしれない。


それに比べて、この店の卵は異質だ。

疑われる前提で、そこにある。


だからこそ、こうして確認する。

知らないものを、知らないまま口にしない――


それは、この国ではむしろ「育ちのいい」振る舞いなのだろう。


男は殻を割る前、ほんの一瞬だけ卵を見つめていた。

覚悟を決める、というほど大げさではない。


だが、自分の中の常識を、少しだけずらすための間だった。


そして、また男は少し考えてから、自分で殻を割った。

慎重だが、怖がってはいない。


黄身が崩れ、肉と飯に絡む。


そして、一口。


その一口で、表情がわずかに変わった。


驚きと、納得。

声には出さないが、それが分かる。


最後まで食べ終え、スプーンを置いた後、男は静かに言った。


「ごちそうさまでした。」


「ありがとうございます。」


それから、少し間を置いて、こちらを見る。


「……いくらだ?」


「五百四十イェンです。」


一瞬、言葉を失った。

目を瞬かせてから、小さく息を吐く。


「……安いな。」


値段に驚く客は多い。

だが、この言い方は少し違った。


金がないから安いと感じたわけじゃない。

価値に対して、安すぎると判断した顔だ。


会計を済ませ、男は立ち上がった。

扉に向かう途中、一度だけ、店内を振り返る。


理由は分からない。

だが、また来る客の目だった。


扉が閉まり、夜の静けさが戻る。


育ちのよさそうな客だった。

それ以上のことは、分からない。


だが――

ああいう客が、夜に来るということ自体が、この店の居場所を示している気がした。


今日もまた、夜は静かだ。

それでいい。


この店は、そういう夜に開いている。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


また読んでいただけたら、嬉しいです。


※毎日7時/19時投稿予定です✨

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