第十四話 牛丼並盛生卵付き
腹が空いていたわけではない。
正確に言えば、腹の底で煮えたぎっていたのは
空腹ではなく、苛立ちだった。
城の食卓に並べられた夕餉は、いつも通りだった。
乾いた黒パン。
塩気の弱い煮込み。
油はほとんど使われていない。
見た目だけは整っているが、噛めば噛むほど味が消えていく。
この国の王――つまり父は、倹約を美徳とし、食に意味を見出さない。
「腹が満ちれば十分だ。」
それが父の口癖だった。
だが、私はもう限界だった。
他国へ留学したあの日々を思い出す。
港町の屋台。香辛料の匂い。湯気の立つ皿を囲んで、言葉も文化も違う者同士が笑っていた光景。
料理には、人を黙らせる力もあれば、前を向かせる力もある。
あの時、はっきりと理解してしまったのだ。
――この国の食卓は、貧しいのではない。意図的に、切り捨てられているのだと。
父とは何度も口論になった。
「贅沢は国を弱くする。」
「いや、希望のない日常が国を鈍らせる!」
議論はいつも平行線で、最後は決まって睨み合いになる。
その夜も同じだった。
私はほとんど手を付けず、席を立った。怒りが冷める気配はなく、胸の奥がざらついて仕方がない。
気づけば、警備の目を避け、城の裏門を抜けていた。
城下の夜は静かだった。
この国では、夜に食事をとる文化が薄い。灯りの落ちた通りを歩きながら、
私はふと思い出す。
城で仕える文官たちが、昼間に交わしていた噂話だ。
――城下に、不思議な店があるらしい。
――夜でも腹を満たせる場所だ。
彼らは声を潜めて笑っていたが、その目は本気だった。
気づけば、足はその通りへ向いていた。
通りの奥に、ひとつだけ灯りが残っていた。
派手ではない。
だが、夜の静けさの中では妙に浮いて見える。
赤と黄色の光が、控えめに看板を照らしていた。
近づくにつれ、胸の奥にあった苛立ちが、わずかに形を変える。
期待というほど前向きなものではない。
だが、無視できない引力があった。
店構えは簡素だった。
石造りの壁に、木の扉。
装飾はほとんどなく、看板も小さい。
それでも、不思議と入りづらさは感じなかった。
私は一度、周囲を確かめてから扉に手をかける。
警備の姿はない。
城の夜に比べれば、ここはあまりにも静かだ。
扉を押すと、鈴の音が小さく鳴った。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた声だった。
過度な愛想も、警戒もない。
店内には、誰もいなかった。
木のカウンターと、数席の簡素なテーブル。
壁には料理の写真が貼られており、テーブルの上には、光る板のようなものが置いてあった。
また、飾り気はないが、手入れは行き届いていた。
席に座ると、すぐに飲み物が出された。
透明な液体だが、光の加減でわずかに色がついて見える。
水か、茶か。
判別はつかなかったが、構わず口をつける。
冷たすぎず、温すぎず。
喉を通ると、張り詰めていたものが少し緩んだ。
私は息を整え、店主を見る。
「この店で、よく出るものを。
それと、それに合うものを頼みたい。」
店主は短く頷いた。
ほどなくして、盆が置かれる。
「お待たせしました。
牛丼並盛と、生卵です。」
丼の上には、薄切りの肉が幾重にも重なっている。
湯気とともに、甘い香りが立ち上った。
隣には、小さな器。
中には、殻ごとの卵がひとつ。
……生卵。
留学先で教えられた記憶が、頭をよぎる。
卵は必ず火を通すもの。
生で食べるなど、危険だと。
私は一度、卵から視線を外し、先に丼へ手を伸ばした。
用意されていたスプーンで、肉と飯を掬う。
口に運んだ瞬間、思わず動きが止まる。
――これは。
甘辛い味が、舌に広がる。
油は強すぎず、それでいて物足りなさもない。
噛むほどに、味が消えるどころか、深まっていく。
……うまい。
三分の一ほど食べ進めたところで、再び卵を見る。
気になって、店主に尋ねた。
「この卵は……生で食べても問題ないのか?」
「はい。大丈夫ですよ」
迷いのない返事だった。
私は殻を割り、慎重に中身を丼へ落とす。
黄身が崩れ、白身が肉と飯に絡む。
一瞬だけ、躊躇したが――
意を決して、卵ごと掬った。
……柔らかい。
先ほどまでの甘辛さが、角を失い、全体に馴染む。
卵が主張するのではない。
牛丼そのものを、包み込むような感覚だ。
これは、城では、いやこの国では出会えない味だ。
倹約を重んじる父は、食に価値を見出さない。
腹が満たされれば、それでいい。
そう言い切る人だ。
だが、この一杯は違う。
満たされるのは、腹だけではない。
苛立ちや、言葉にならない不満が、少しずつ溶けていく。
私は黙ったまま、スプーンを動かし続けた。
やがて、丼の底が見える。
「……。」
最後の一口を食べ終え、私は静かに息を吐いた。
店内には、相変わらず他の客はいない。
夜の王都は静かで、この店だけが時間から切り離されているようだった。
「ごちそうさまでした。」
「ありがとうございます。」
少し間を置いて、私は尋ねる。
「……いくらだ?」
「五百四十イェンです。」
思わず、目を瞬いた。
城の食卓より、はるかに満足感がある。
それで、この値段。
「……安いな。」
正直な感想だった。
扉を開ける前、私は一度だけ振り返った。
理由は、自分でも分からない。
だが――
また来るだろう。
それだけは、確信していた。
夜の通りは静かだ。
腹は、満たされている。
そして、怒りは――
また少しだけ、形を変えていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
海外に行くと、日本の生卵の安全性に驚かされます、
この王子がこの国の食文化を変えていってくれるといいですね。
また読んでいただけると嬉しいです、
※毎日7時/19時投稿予定です✨




