第十二話 キング牛丼
腹が、いっぱいだった。
いや、いっぱいという言葉では足りない。
胃の内側が限界まで押し広げられ、体を少し動かすだけで中身が揺れる。
呼吸をするたびに、腹の奥が遅れて上下する感覚があって、それがやけに生々しい。
満腹というより、詰め込まれすぎた、という表現の方が正しい。
息を吐くたび、胃が抗議する。
――完全に、やりすぎた。
椅子にもたれ、天井を見上げる。
視界ははっきりしているのに、体だけが重い。
特に腹だ。
さっきまで、あれほど空っぽだったはずなのに、今は一切の余白を許してくれない。
どうして、こうなった…。
―――――――――――――
今日は、ひどく腹が減る一日だった。
窃盗の通報は、日が傾き始めた頃だった。
軽い巡回で終わると思っていた。
だが犯人は予想以上にしぶとく、街の裏道を縫うように逃げ回った。
鎧の重さが、じわじわと足に溜まる。
息は荒れ、喉は焼けるように乾く。
視界の端が狭まり、意識が一点に集中していく。
それでも、止まれなかった。
仕事だから、ではない。
ここで逃せば、また誰かが困る。
それだけだった。
最後に犯人を取り押さえた時、腕は震え、指先の感覚が鈍くなっていた。
立ち上がろうとすると、腹の奥が、空洞みたいに鳴った。
――今日は、腹がはち切れるほど食べよう。
そう、心の中で決めていた。
いつも食べている並盛を二つ、いや三つは食えるかもしれない。
夜の通りで、毎日と言っていいほど通っているあの店(どうやら「すき乃家」という名前らいし)の灯りを見つけた時、迷いは消えた。
この国では珍しい、夜に開いている店。
静まり返った通りの中で、あの灯りだけが浮いて見えた。
席に着くなり、俺は言った。
「並盛を、二つ…いや、三つ!」
体は疲れていたが、今日の俺の腹は底なし沼だと感じていた。
だが、店主は一瞬だけ間を置き、少し声を落とした。
「裏メニューになりますが、キング牛丼があります」
聞き慣れない名前だった。
値段を聞き、思わず眉をひそめる。
「そのキング牛丼とやらは、並盛何個分なんだ?」
店長は少し考えてから言った。
「大体4個分くらいですかね。」
4個分…。
最初に食べようと思っていた量よりもかなり多い。
「あと、値段はちょっと高くて、千八百八十イェンですが、いかがしますか?」
千八百八十イェン。
安くはない。
だが今日は給料日後だ。
それに――今日くらいは、いいだろう。
追いかけ回した分だ。
そして今日の腹は人生で一番と言っていいほど空いている。
そう自分に言い聞かせ、頷いた。
注文してからいつもより時間がかかってそれはやってきた。
「お待たせしました。キング牛丼です。」
運ばれてきた丼を見た瞬間。
……でかい。
……でかすぎる。
言葉が出なかった。
反射的に視線を逸らし、もう一度見直す。
だが、錯覚ではない。
丼の縁まで盛られた飯。
その上を覆い尽くす肉。
量というより、質量だった。
額に、じわりと冷たい汗が滲む。
――選択を、間違えたかもしれない。
そんな考えが、遅れて湧き上がる。
だが、もう後には引けない。
スプーンを握り、一口目を運ぶ。
最初は、勢いだった。
味は知っている。
甘辛い肉と飯。
食べやすく、口に運ぶこと自体は難しくない。
半分までは、まだ余裕があった。
問題は、その先だ。
腹の中に、確実な重さが溜まっていく。
一口ごとに、胃が下へ引っ張られる感覚。
呼吸が浅くなり、動きが鈍る。
視線が、卓上の紅生姜に向いた。
以前、ここで見た光景が蘇る。
隣に座っていた職人の老人。
牛丼の上が完全に見えなくなるほど、紅生姜を山のように乗せていた。
――そんな食べ方が、あるのか。
驚いて見ていた俺に、店主は何も言わなかった。
止めるでもなく、咎めるでもない。
ただ、いつも通りそこに立っていた。
食い方は、人それぞれ。
そう言われた気がした。
俺は、少しだけ紅生姜を添える。
あくまで主役は牛丼だ。
紅生姜は、流れを変えるためのもの。
酸味が舌を刺激し、一瞬だけ胃が軽くなる。
だが、それも長くは続かない。
残り三分の一。
数字にすると、まだ多い。
腹は限界を訴え、手が止まる。
喉を通すたび、内側から拒まれる。
――食える。
――いや、無理だ。
意地と理性が、何度もぶつかる。
最後に、理性が勝った。
スプーンは、止まった。
「……すまない」
店主は、静かに頷いた。
「お持ち帰り、できますよ」
その言葉に、正直、救われた。
こうして今、腹は限界まで満たされている。
完食はできなかった。
だが、後悔はない。
「今回は、俺の負けだ」
「また、お待ちしてます」
「次は、勝ちに来る」
夜の通りは静かだった。
腹は重い。
それでも――
悪くない夜だった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
キング牛丼。他人が食べているところを見ると、意外と食べられそうに思いますが、いざ自分の前に来た時のあの圧迫感。
兵士さんのリベンジマッチに乞うご期待?
また、読んでいただけたら嬉しいです。
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