表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/25

第十一話 夜で終わる国で

夜の帳が下りると、この国は急に静かになる。


通りから人の気配が消え、家々の灯りも、ひとつ、またひとつと落ちていく。

日が沈めば一日は終わり。

それが、この国の当たり前だ。


すっかり常連となった兵士が、そんな話をしてくれた。


夜は「暮らしの続き」じゃない。

腹を満たすのは日中のうち。

夜は体を休め、明日に備える時間だ。


夜に外で食事をするという発想自体が、ほとんどない。

夜に腹を空かせるのは段取りが悪い証拠で、

夜に店を開けるのは、無駄が多く、計画性のない行い。


灯りにも金がかかる。

火を起こすにも油がいる。

わずかな食事のために夜通し灯りを灯す意味はない。


「だったら、さっさと寝た方が安い」


兵士は、そう言って笑った。


だから夜になると、街は眠る。

店は扉を閉ざし、通りに残るのは、家へ急ぐ人影だけだ。


そんな国で、夜に灯りをつけているこの店は、どう考えても浮いている。


店内には、今も誰もいない。

鍋の中で出汁が静かに温まる音だけが、夜の静けさに溶けていた。


――と思った、その時だった。


扉が開き、見慣れない客が入ってくる。

歩き方が少しぎこちなく、視線が落ち着かない。


この街の人間じゃない。

そう思わせる何かがあった。


席に着いた客は、しばらく壁を見ていた。

料理の写真が並ぶその一角で、視線が止まる。


キムチ牛丼だ。


写真越しでも分かる刺激の強さに、俺は内心で頷いた。


――あれか。


案の定、客は一度写真を見てから、こちらに視線を向けた。


「これは……辛い料理ですか」


言葉は通じるが、この店によく来る客達とは、発音が少し違う。

慎重に選んでいる感じが伝わってくる。


「はい。キムチ牛丼です」


キムチ、という言葉を口にした瞬間、客の眉がわずかに動いた。

聞き覚えのない言葉だったのだろう。

だが――説明する前に、客の表情が少し変わる。


辛い、という一点だけで、何かを思い出したような顔。


「それを、ください」


「並盛でよろしいですか」


量の説明はしない。

この世界では、サイズ感を言葉で説明しても伝わらないことが多い。


客は一瞬だけ迷い、それから頷いた。


「……それで」


調理に取りかかりながら、俺は思う。

辛さを求める客は、この街では珍しい。


ほどなくして、丼を差し出す。


「お待たせしました。キムチ牛丼です」


湯気が立ち、赤い色味がはっきりと見える。


客は静かにそれを受け取り、黙々と食べ進めた。

途中、何度か手が止まる。

だが、顔を上げることはなかった。


やがて丼は空になる。


「……ごちそうさまでした」


「ありがとうございます」


「六百六十イェンです」


客は少しだけ指先をもたつかせながら、硬貨を選び、静かに置いた。

数を確かめる仕草は慎重で、慣れていない様子がはっきりと分かる。


「……確かに、お預かりしました」


客は小さく息をつき、軽く頭を下げてから、夜の通りへ消えていった。


扉が閉まり、店内に静けさが戻る。


キムチの香りだけが、まだ空気の中に残っている。


辛さを求めて、この店に辿り着く人間がいる。

それは腹を満たすためだけじゃない。


俺自身も、思い出の味を持っている。


両親が亡くなったのは、十年前だ。

忙しさを言い訳に、最後の数年は、ろくに顔も見せなかった。


それでも、ふとした瞬間に思い出す料理がある。

特別なものじゃない。

ただ、家で当たり前に出てきた味。


ここでは、もう作れない味だ。


だからなのかもしれない。

夜にこの店を訪れる客を見ると、胸の奥が少しざわつく。


効率は悪い。

無駄も多い。


それでも、夜にしか来られない人間がいる。


この灯りが、誰かの区切りになれば、それでいい。


俺は鍋の火を落とし、静かな店内を見回した。


夜は、まだ終わっていない。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


また読んでくれたら嬉しいです。


※毎日7時/19時投稿予定です✨

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ