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第十話 キムチ牛丼

腹が空いていた。

それだけは、はっきりしていた。


だが、それは単なる空腹とは少し違う。

胃の中が空っぽだという感覚よりも、

胸の奥に、何かが溜まっているような重さがあった。


この国に来て、もう一年になる。

遠い南の国から、仕事を求めて渡ってきた。


言葉は通じる。

働き口もある。

寝る場所も、雨風はしのげる。


それでも、

夜になると、どうしても思い出してしまう。


故郷のことを。

そして、家族のことを。


母は、料理が得意な人だった。

特別な料理じゃない。

ただ、いつも赤かった。


鍋の中には唐辛子。

油の跳ねる音。

香辛料の匂いが、家中に広がる。


「辛いから、たくさん食べなさい」


そう言って笑う母の顔を、

今でも、はっきりと思い出せる。


辛い料理は、身体を温める。

同時に、心も温めるのだと、

あの頃は、当たり前のように思っていた。


この国に来てから、

その当たり前が、なくなった。


料理はどれも優しく、丁寧だ。

だが、どこか物足りない。


腹は満ちても、

心が追いつかない。


今日も仕事を終え、

夜の通りを歩いていた。


人影はほとんどなく、

店の灯りも、まばらだ。


夜が早い国。

それはもう、分かっている。


そんな暗がりの中で、

赤と黄色の灯りが目に入った。


派手なのに、不思議と落ち着く光。

まるで、呼ばれているようだった。


気づけば、扉を押していた。


「いらっしゃいませ」


静かな声。

油と肉の匂いが、鼻をくすぐる。


席に着くと、すぐに飲み物が出てきた。

茶色っぽいコップで、中身はよく分からない。


喉が渇いていた。

迷わず、一気に飲む。


冷たい。

それだけで、少しだけ息がしやすくなる。


壁に貼られた料理の写真を眺めていると、

赤い料理が目に留まった。


肉の上に、刻まれた赤いもの。

見ただけで、舌が反応する。


――辛そうだ。


思わず、店主を見る。


「これは……辛い料理ですか」


「はい。キムチ牛丼です」


キムチ。

聞いたことのない言葉だ。


だが、辛いという説明だけで、

胸の奥が、わずかに熱くなった。


「それを、ください」


「並盛でよろしいですか」


量の違いはよく分からなかったが、

今は、それでいいと思えた。


ほどなくして、丼が運ばれてくる。


「お待たせしました。キムチ牛丼です」


近づいた瞬間、分かる。

これは、ちゃんと辛い。


酸味と香辛料の匂いが、

記憶を直接、刺激してくる。


スプーンで一口すくい、口に運ぶ。


――辛い。


だが、それだけじゃない。

肉の旨味、発酵した酸味、

舌の奥に残る熱。


思わず、息を吸った。


二口目、三口目。

額に汗が滲む。


久しぶりだった。

食事で、こんなふうに汗をかくのは。


辛さが、身体を通り抜けるたび、

母の料理が、頭に浮かぶ。


鍋をかき混ぜる背中。

味見をして、少し首を傾げる癖。

「まだ足りないわね」と言って、

香辛料を足す手。


胸の奥が、きゅっと締め付けられる。


また、あの料理が食べたい。

母の作った、赤い料理を。


この国では、もう無理だと思っていた。

だが――


この丼は、確かに、そこに繋がっていた。


気づけば、夢中で食べ進め、

最後の一口を迎える。


名残惜しくて、

ゆっくりと口に運んだ。


「……ごちそうさまでした」


声に出した瞬間、

胸の奥に溜まっていたものが、少し軽くなる。


「ありがとうございます」


「お会計、六百六十イェンです」


硬貨を置き、立ち上がる。


外に出ると、夜は静かだった。

それでも、寒さは気にならない。


この国にも、

故郷を思い出させてくれる味がある。


それだけで、

もう少し、ここで頑張ってみようと思えた。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


私は母の作る豚キムチが今でも大好きです。


この人と故郷にいる家族がまた会えるといいですね。


また、読んでいただけたら嬉しいです。


※毎日7時/19時投稿予定です✨

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