私の中のドラゴン
夢を見た。安心できる巣で眠るドラゴンの夢だ。ドラゴンは夢現なのか、うつらうつらしていた。気持ちよく微睡んでいる。私は気づく。あのドラゴンは私だ。
そこで目が覚めた。
自分がドラゴンと重なった一瞬が忘れられない。
悩みも、コンプレックスも、妬みも怒りも羞恥心も焦燥感も自虐感もない。
ただ、“良い気持ちだな”って、ただそれだけでいた。
最近の自分は自分の感情を持て余していて、煮詰まっていただけに、すっきりとした気持ちの良さを再現したくて、夢を思い出そうとしてみる。
起きた瞬間なら、夢の続きを見ようと思えば見ることができるのは特技かもしれない。
自分の中では「夢のしっぽを捕まえる」というのだけど、最後に見た夢の欠片を丁寧に思い出そうとすると、すっと夢と繋がり、続きを得られる時がある。
そうやって二度寝を決め、夢のしっぽを捕まえたところ、ドラゴンは相変わらず寝ていた。巨大で黒っぽいドラゴンの安らかな寝顔だ。ドクンドクンと鼓動が響く。あのドラゴンは私だ。私はドラゴン。そう自覚した時、夢の中のドラゴンとパスが繋がった気がした。
「アストリッド様、またあなたのご婚約者様が例の方といらっしゃるわね。」
ああ、遠くに私の婚約者のラーシュ様が、小柄で可愛らしい例の彼女とくっつきそうな距離で一緒に歩いておられる。美しいラーシュ様と可愛らしい彼女が一緒に歩くと美男美女でぴったりお似合いという感じがする。
だからこそ、昨日までは、目にすると嫉妬と羞恥心、悲しさや苦しさが胸の中を渦巻いたけど、今日はすっきりしていて何の気持ちも湧き出してこない。平常心だ。
「ああ、ラーシュ様ですね。よろしいのではないですか。」
私が昨日までと違う反応を見せたからか、お友達と思っていたシェスティン様は驚かれている。
昨日まではあなたともお友達と思っていたけど、いつも私の婚約者の裏切りをいち早く見つけては私に報告されていたのは、私の動揺や悲しみを見たかっただけなのかと、ついそう勘ぐってしまった。見たくない物をわざわざ見せつけたがる理由がわからぬ。
「でも、アストリッド様、あんなにご婚約者様を愛しておいでだったじゃありませんか。」
「だからもうよろしいんですよ。お父様にご報告いたしますから。」
「あれだけ、ご自分だけが我慢をすれば良いのだとおっしゃっていたのに。」
私が淑女として抑えこんだとしても漏れ出す感情、苦悩する姿をさんざんあなたには見せてきて、あなたはいつも慰めてはくれていたけれど、それは優越感だったんだろうか。
シェスティン様はご婚約者様と仲が良い。それにシェスティン様は子爵家、私は伯爵家というのもあるのかもしれない。婚約者との仲は私に勝てるところだというのだろうか。
「私は伯爵家の嫡女、下に妹しかいませんので、私が家を継ぐことになります。子爵家の三男のラーシュ様は婿入りの予定でしたが、婿入りの候補者はたくさんいらっしゃいますから、ラーシュ様に拘る理由はないのです。」
シェスティン様はさらに驚いたお顔をされていた。まぁ昨日までラーシュ様に拘るだけ拘ってきたから、この変化が納得できないのかもしれない。
でも、ドラゴンと繋がった気がする私はラーシュ様に何の感情も湧かない。ドラゴンにとって人の容姿は関係ない。オスかメスか大きいか小さいかぐらいの区別しかつかない。それでいけば、ラーシュ様は未熟な不誠実なオスであり、憧れも拘りも消えてしまった。托卵されるのはごめんだわ。
「そうなのですね。アストリッド様がご婚約者様への執着を手放されるのであれば私は何も申し上げることはありません。心安らかになるのであればそれはそれでよろしいのですから。」
そういって、微笑まれると、シェスティン様は私に対して母親のような庇護欲もお持ちだったのかもしれないと思いなおす、人の心はまだまだよくわからない。
でも、長くお友達でいたのであれば、心に寄り添う様子を見せてくれたのであれば、ラーシュ様の裏切りを見せられていたのも、私のラーシュ様への妄執を捨てた方が良いという優しさだったのかもしれない。さっきは悪く思ってごめんなさい。
ドラゴンと繋がる前は、自分の感情に振り回されるだけで、他の人が何を考え何を思って発言しているかだなんて推測するようなことはなかった。
思考というのか感情も何もかもがドラゴンの分だけ増えた感じがする。
小さなビー玉の中で鬱々していたのが、大きな池の中にビー玉が落とされて、池の範囲全部自分になって、何、小さなところで鬱々していたんだろうって自分の視野が広がった感じがする。なんか不思議。
小さい頃から後継ぎ教育ばかりで頭は良かったけど、美人でもないし、可愛くもない。気の利いたことも言えないし、可愛いおねだりなんかできない私は、コンプレックスの塊で“私は跡取りである”ということが心の支えだった。
だから、ラーシュ様に疎まれても仕方がないんだとどこか諦めていた。
ラーシュ様にお会いしたのは10歳の時、お父様から婿入りの候補がいると教えられ、紹介されたのがラーシュ様だった。
キラキラの黄金色の髪、透き通るような青い瞳、女の子と見間違えるぐらい可愛く整った顔で、はにかむようにご挨拶してくださった。
一目惚れしても仕方がないと思う。
ラーシュ様は、最初は遠慮がちに、そのうち、大胆に物を要求されるようになった。
王都で有名な羽ペン、宝石のついたカフス、高級な夜会の衣装一式。ラーシュ様に喜んでいただきたくて、一生懸命に要望に応え続けた。
高級なレストラン、人気の観劇、希望されて一緒に行けば、面白くないような顔をされる。そのうち、夜会ではエスコートはされるが、入り口ですぐに友達のところへ行くと姿を消される。そしてそのエスコートもなくなり、例の彼女と一緒にいるところを見せつけられるようになってきた。
疲れた。
最初はこんな美しい人が私の旦那様になるなんてと有頂天だった。
後継ぎで良かったって心から思っていたのに。本当に。
「お父様、ラーシュ様との婚約をラーシュ様の有責で破棄して下さい。」
「良いのか、気に入っていたのではないのか。」
「もう良いのです。疲れました。」
「そうか、お前には小さい頃から領主の勉強ばかりさせていたから、婿ぐらいは気に入ったものをと思っていたが、ラーシュの悪い噂は聞いておる。最近うちに学びにも来ないようになったため、領主補佐の教育もほとんど進んでいない。すぐに処理しよう。」
「お忙しいお父様にはご面倒おかけいたしますが、よろしくお願いします。」
「次はどうする?」
「はい、顔は平凡でも良いので、誠実な方が良いです。」
「そうか。…すまなかったな。」
「いえ、ご縁がなかったのです。」
それから割とすぐにラーシュ様とそのお父様であるオルソン子爵を迎えての手続きとなった。
「ご無沙汰しております。オルソン子爵。単刀直入に申し上げましょう。アストリッドとラーシュとの間で結ばれている婚約の解消をしたい。」
「は?突然何故そんなお話に?」
「オルソン子爵は何も聞いておられないのか。ラーシュの素行を。」
「ラーシュ。おまえ何をしたんだ?」
「父上、俺は何もしていませんよ。」
「ほう。ラーシュは最近とても仲の良い女性ができたそうで、うちの娘はほぼ放置ですよ。誕生日プレゼントもなし、手紙のやり取りもない。エスコートもデートのお誘いも何もなし。婿入りだというのに、こちらに学びも来ない。最低限の伯爵家のことも学ぼうとしないものとは婚約を続けられない。」
「ラーシュ、おまえ、何も問題ないって言っていたじゃないか。」
「なぁ。アストリッドは俺のことが好きだから、婚約破棄なんて出来ないだろう!」
「いいえ。もう好きではありません。浮気をする方は無理です。」
「な、何いっているんだ。俺の顔が好きだろう。俺が何したって今まで文句ひとつ言わなかったじゃないか!」
「顔ねぇ、もう、どうでも良くなったんですよ。」
ご自分のご自慢の顔が私に役に立たないという事実に唖然としたのか、信じられないといった顔をされたが、信じられないのはこっちの方だ。あれだけのことをやらかしてきて、よくまだ好きでいてくれるはずだと思えていたなと思った後、ああ、そうか、ドラゴンと繋がる前は、それでもいつかラーシュ様と結婚できるのであれば我慢しようって思っていた。なんのとりえもない自分の心の支えが跡取りであることであり、だからこその美しい婚約者だったのだから。
今は、人は生きているか死んでいるかの違いだけ。生きているのであれば生き抜けばいいだけ。とってもシンプルなものだ。
「おわかりいただけたでしょうか。不勉強で浮気者の婿は必要無いのです。幸い二人はまだ17歳。人生のやり直しはできます。これ以上長引かせて取り返しがつかなくなる前に、書類にサインをお願いします。」
「どうか、もう一度お考え直して下さい。ラーシュは一時の気の迷い。若気の至りですよ、大目に見てくださいませんか。」
「この婚約はラーシュにしなければならない理由はアストリッドが気に入っているかどうかだけだったんです。今、アストリッドはラーシュに一片たりとも気持ちが残っていなので、継続は無理ですね。」
「アストリッド嬢、ラーシュも反省させて二度と浮気しないようにさせますからご慈悲をお願いします!」
「オルソン子爵様、婚約して7年。ラーシュ様が私を見て一緒に伯爵家を支えていこうと思ってくれたのは、ほんの1年ぐらいだけです。後の6年間足蹴にされてきました。6年間ラーシュ様は私を伯爵家をいいように使ってこられました。これからもいいように使われるのは耐えきれません。」
「は、6年間も?ラーシュは自分は上手く伯爵家で学んでいるって言っていたのに、嘘だったのか。」
「ラーシュ様は、うちでいかにお金を引き出せるのか、いかに自分が楽しまれるのか、そんなことは学ばれていたようですよ。」
「ラーシュ…。おまえを信じた私が馬鹿だったのか。わかりました。婚約破棄の書類にサインします。」
「父上!俺は婚約破棄しません!」
「これ以上ごねたら、慰謝料を要求するぞ。今回の婚約破棄で7年もこちらが縛り付けたことを考慮して慰謝料なしにしたのに、その配慮はいらないのか。」
「わ、わかりました。サインします。」
慰謝料と言われ、自分の行動に心当たりのあるラーシュ様はしぶしぶといった感じでサインされオルソン子爵ともども肩を落として帰られた。
やっと婚約破棄できた。私を縛っていた幸せと不幸が入り混じった因縁のようなものがパーンと割れて粉々になった気がした。壊れた因縁の入っていた場所が空いて隙間風がスースー吹いた気もするが、ラーシュ様との思い出が急速に色褪せていき、ラーシュ様と繋がっていた事実さえ遠い過去の単なる出来事のひとつのように雑多の中に消えていった。
あれから、ラーシュ様はあの時の可愛い彼女とは別れ、必死に婿入り先を探していると聞いた。可愛い彼女は男爵家の次女で家を継げないからだ。伯爵家当主になったら愛人としてやるとでも言っていたのだろうか。そんな日はもう来ない。
ラーシュ様の浮気の所業は知れ渡っており、婿を探している令嬢からは総スカンらしい。今から文官の勉強をした方が確実じゃないだろうかと思うが、ラーシュ様に堅実に勉強するという言葉は一番遠いと思うから、顔だけで勝負をするのであればマダムの愛人にでもなるのが一番ぴったりくる。時折切ない目でこちらを見ていることに気づくこともあるが、まぁもうどうでもいい。
私の方はといえば、ほどほど落ち着いた3歳年上の優秀な文官をされている男爵家の三男の方をお父様が探し出してこられた。堅実真面目正直者で少々損な役回りをされていたようだが、仕事はすこぶる出来るようだということで、今回の第一候補として顔合わせをした。
小さくまとまっていて大きな勝負には出ることのない人。その分穏やかに長生きできるだろう。そう最初の印象。何故、そんな感想が出てくるのかわからないけど、人の顔の美醜について拘りがなくなった今、着実に伯爵家を支えてくれるのであればそれだけで良い。
お相手の方は始終緊張されていたが、それでも会話の合間に時折笑う顔が自然で年上の方なのに可愛いなと思ったのは私の気持ちなのかドラゴンの感想なのか。
あれだけ、ラーシュ様に好かれたいと思い、尽くした日々が今では幻のようだ。
シェスティン様にも“アストリッド様の笑顔をまた見ることができて良かったです。”と微笑みかけられ、悪い印象は払拭された。婚約破棄する直前は笑うことも出来ていなかったようでご心配かけてごめんなさい。
新しい婚約者のニルス様と陽だまりで微睡むように穏やかで心温かい日々を過ごしている。
あれから私の中のドラゴンとは夢で時々会うことがある。いつでも気持ちよさげに微睡んでいる。ただ有事の際に目が覚めてブレスを吐かないかそれだけが今の心配事である。
世の中ずっと平和でありますように。
終