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マゼンダは高い鉱山で隔てた隣国の名前。
140年前に領土問題で争いが起こり、停戦はしたものの冷戦状態になっている敵国。でも140年前なんて16歳の私には大きな数字すぎて実感がないのも事実だ。
国交断絶が長すぎて、フォルミには他国を介してしかマゼンダの情報が入ってこないし、王宮図書館にもその資料はほとんどない。少ない資料からわかっているのは、宗教が同じで食べ物も言語も慣習もほとんど変わらないらしいこと。
図書館のテーブルで地図を広げ、指先でフォルミとマゼンダの位置をなぞる。
「そこまで同じだと、マゼンダってまるで。」
「まるで……?」
「!!!!」
図書館には私しかいないと思っていたのに、私の独り言に対して問いかける声が急に背後からかけられ、思わず叫んでしまいそうになった。それをその誰かによって口元を押さえられ、声にならない空気だけが漏れる。
口元を軽く手で押さえられたままの状態で瞬時に振り向くと、悪戯っぽい笑みを浮かべた男がそこにいた。その正体にほっと胸をなでおろすと共に、口元に当てられた手を振り払う。
「お兄様……急に話しかけるから驚いたじゃないですか!」
考えに集中していたからか、兄が近寄ってきていたことにまったく気づかなかった。それが余所から侵入した不審者だったとしたら、私の命は無かっただろう。それくらい、私は油断しきっていたことに気付かされた。
気を引き締めると共に、気が緩んでいた恥ずかしさもあって八つ当たりも込めて、立ち上がって興奮気味に詰め寄ると、私の兄、アッシャー・アンバー・フォルミは、まぁまぁと私を落ち着かせるように肩を叩き、再び椅子に座らせた。
驚かされた分、ちくりと兄に返す。
「ルイシャに外遊に行かれていた筈ですけど、お早いお戻りですのね。もうしばらくあちらに滞在されているかと思っておりました。帰国の連絡もございませんでしたし?」
そのままジト目で兄を見上げる。
その言葉に、兄はそのミドルネームの通りの琥珀色の目を細め、肩を竦め私の隣の席に座った。
この国フォルミは敵国であるマゼンダと、友好国ルイシャという2つの国に挟まれている。兄はルイシャの第二王女との婚約が決まっており、外遊とは名ばかりに、その婚約者に会いに行っていた。
「帰国を伝える手紙を送ったけれど、送ってすぐに帰国したから入れ違いになったみたいだ。さっき挨拶はしてきたけれど、父にもレイラと同じ様な小言を言われたよ。」
と、首を縮める仕草をする兄。そのまま釈明は続く。
「もうすぐお祖母様の慰霊祭だから、その準備の為に早く帰国しようとは思っていたんだ。それに……例のことがあるから父がピリピリしているらしくて、宰相からなるべく早く帰国してもらえないかと要請もあった。」
それが無ければもうしばらくルイシャに滞在していたかったと言いたげな口ぶりだった。でも兄の気持ちはわかる。最近の父は少し苛立っているのが感じられて、共にする食事の席の空気も最悪だった。私だって逃げ出したいくらいに。
兄の言う例のことに心当たりがあった。
「マゼンダとの会談ですね。」
兄が少し渋い顔をして頷く。
商会長の息子ドミニクが言っていた、国交正常化に向けての会談だ。
「特に父はマゼンダと国交を結び直すのは、抵抗が強いだろうからね。」
ため息交じりに告げる兄の言葉に、あの父を説得しないといけない外交官の気持ちを思うと、私の心まで重くなる。
140年前の戦争の結果、今は停戦状態ではあるけれど、この国にマゼンダを敵国と認識している者は多い。特に戦争を経験した高祖父母達から歴々と続く教育を受けた世代の者達は、それが顕著だ。貴族であろうと、平民であろうと。もちろん、父もその影響を受けている。
「でも、フォルミと海を挟んだ大陸にある軍事大国が、様々な国に戦争を仕掛け、国を大きくしていると聞きました。近隣諸国で平和協定を結び、対抗する力をつけるのは急務でしょう?」
父世代の教育を受け、兄も私もマゼンダは敵国だという教育は受けてきた。けれど今の世界情勢を考えると、悠長にそんなこと言っていられない状況にある。
海を挟んでいるとはいえ、海の向こうの大国がいつこちらに火の粉が降りかけてくるかなんてわからないのだ。
「そういう理由があったとしても、根強い忌避感を取り除くのは大変だと思う。理性ではわかっていても、感情はどうしようもない。だから……。」
そのまま兄は私が広げていた世界地図をトントンと指先でつつく。
「誰が聞いているかもわからない場所で不用意に、もしかしたらマゼンダとフォルミは、元は1つの国だったんじゃないか……なんてことは口にしない方がいい。ね?」
そのまま地図をつついていた人差し指を、兄が口元で立ててみせた。
兄の言葉にどこかただならぬ圧を感じて、私は頷くことしかできなかった。
誰に何を聞かれるかわからない場から私の私室に場所を変え、トレマにお茶を用意してもらうと、人払いしてその場を兄と2人の二人きりにしてもらった。
しばらくは兄がルイシャであったことを話してもらっていたが、突然、兄が思い出したように唐突に質問をしてきた。
「そういえば、俺は婚約者と仲が良いと自負しているが、レイラは婚約者とは仲良くしているのか?」
「仲良く……それなりに、ですね。」
兄の質問に曖昧に答えを濁す。定期的に会ってはいるし、互いの誕生日にプレゼントを送ったり、夜会やお茶会ではエスコートを頼むとか、最低限の付き合いはしている。あくまで最低限の。
「それなりに……か。実はレイラの婚約者のラルフから、わざわざ外遊先のルイシャにまで手紙が来たんだ。レイラが自分に冷たい気がするとな。」
「そんな手紙が?」
私自身に直接言わずに周囲の人間を巻き込むやり方に、心の奥底でモヤモヤしたものが産まれる。それが表情にもでていたようで、困った顔をした兄に宥めるように頭を撫でられた。
「そう邪険にしてやるな。一生付き合っていくことになるんだぞ。」
そんなことをされたところで、気持ちのモヤモヤは晴れることはない。
私と私の婚約者ラルフ・モーガン公爵子息との婚約が整ったのは、私が5歳になった時だ。
兄は外交として他国との繋がりを強化する為に、ルイシャの姫との婚約を。私は臣籍降嫁をし、臣下として兄を支える為に国内の貴族であるラルフとの婚約が決まった。
「だって……気持ち悪いんですもの。」
小声でボソリというと、兄は苦笑した。
ラルフと初めて会ったのは、婚約が整った後に催されたモーガン公爵家主催の茶会だった。
公爵家の広大な庭で催されたガーデンティーパーティーは、礼儀作法がきちんと身につくまでは城の外に容易に出ることが出来なかった私にとって、初めての外出だった。
美しい色彩の花々、どこまでも続く青々とした緑の生垣、芝生の上にたくさん並べられた猫足のテーブル、それらにかけられた真っ白でシミ一つないテーブルクロス。城の庭園でいくらでも見られる光景だったけれど、初めての外出、初めての城の外での茶会というだけで、すべてが新鮮に見えた。
「レイラ、彼が君の婚約者のラルフだ。仲良くしなさい。」
ティーパーティーは、体調を崩していた母は参加せず、王族からは父と兄と私の3人だけが参加していた。
父に背を押されラルフの前に立つと、ラルフは仰々しく頭を下げてみせた。
少し演技がかったようなその振る舞いに困惑しながらも、挨拶をしようと一歩前に出る。
そのままラルフが顔を上げると、その明るいコーラルレッドの瞳と目が合った。
その瞬間、その視線に得体のしれないものを感じて背筋が粟立ち、後ろに退いてしまった。後ろにいた父の脚に背がぶつかってしまったことでハッとし、慌てて作り笑顔を浮かべる。
「レイラ・アメトリン・フォルミよ。今後、よろしくお願いいたしますね、ラルフ。」
動揺を隠してようやく声を絞り出すと、ラルフは笑顔でそれに応じる。
「はじめまして、ラルフ・モーガンと申します。美しいレイラ様の婚約者という栄誉ある地位を得られたこと、心から感謝します。」
そう言って、ラルフは私が差し出す手の甲に恭しく口づけた。
手の甲に口づけながらこちらを見る瞳は、まるで私を心酔しきった、女神を崇めているようにすら感じられた。理由もわからぬそれがとても気味が悪く感じて、必要以上に接触するのが嫌になったのだ。
「ラルフのあのまとわりつくような視線が、正直、あまり……。」
熱がこもった視線というにはあまりにもねっとりと絡みつくようなもので、その視線を向けられるとゾワゾワとして居ても立っても居られなくなるのだ。
それを幾度となく兄に相談しており、茶会でのラルフの様子を見て、今では兄も私の気持ちを理解してくれている。
「いくらレイラがラルフに対して苦手意識を持っていたとしても、父が決めたことだ。余程のことがない限り、ラルフとの婚約解消は難しいだろう。」
兄がううんと腕組みして唸る。
「フォルミとルイシャとマゼンダの三国で同盟を結ぶために、マゼンダの王族に嫁げと言い出さない限りはな。」
マゼンダ…敵国
ルイシャ…友好国