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『ごめん!緊張して疲れていたのか寝てしまったんだ!』
慌てたイーサンがそんなことを言いながら焦った様子で寝室に飛び込んでくるのを期待して、眠い目をこすりながらベッドから立ち上がると、部屋に入ってきたのは本邸の侍女頭と、それに続いて朝の準備物を手にしている複数の侍女達だった。
「おはようございます。朝の準備の時間でございます。」
侍女頭が無感情に告げる。全員の顔を見て私は頭が真っ白になった。
眼の前にいる侍女は、全員、私の初夜の準備を手伝ってくれた者達だったからだ。
ベッドの乱れも、私自身の衣服にも髪にも一切の乱れもなく、昨日の夜に何もなかったのが彼女たちに明白だろう。
この侍女達の中には、本邸でのイーサンとのお茶の際に給仕してくれた者もいる。茶会で私が何度もイーサンに愛を囁かれているのを見た者も多いだろうに、そんな私が初夜をすっぽかされたのを知って、さぞ滑稽だろう。
恥ずかしさと居たたまれなさで顔が真っ赤になりながらも、貴族令嬢としての矜持で何事もないようなフリで朝の準備を手伝ってもらう。ベッド脇にあるサイドテーブルに目覚めのお茶が給仕されると、そこでやっと、黙って私の朝の準備に従事していた侍女頭が唐突に口を開いた。
「イーサン様は、昨夜は本当に愛する女性と夜をお過ごしになられました。」
眼の前の侍女頭は、先程の無感情な顔とは違って、わかりやすく薄ら笑いを浮かべていた。
息が止まり、声も絶え絶えに聞き返す。
「愛する女性……?どういう……こと?」
声がわなわなと震えているのが自分でもわかる。
理解が追いつかないのか、理解するのを拒否しているのか。冷静に物が考えられない。
「イーサンから直接話を聞きたいわ!イーサンを呼んで!」
焦りから口調が荒れる。イーサンから話を聞かないと話にならない。
私が今にも掴みかからん勢いで侍女頭に告げると、侍女頭は気持ち悪い薄ら笑いを浮かべたまま動かない。侍女頭の気持ちと同じなのか、他の侍女達も失笑している。明らかにバカにされていた。
「何故動かないの?イーサンが公爵家を継げば、私は公爵夫人となるのよ?」
怒りのあまり私が叫ぶように言うと、侍女頭は頭を振った。
「次期当主となられるイーサン様が妻と認めていない方を、私は主と認めません。他の侍女達も同じです。」
ただ婚姻届を書いただけの、初夜を共に過ごすつもりもない、愛されてもいない紙面上の夫人など、仕えるに値しないということだ。
冷静になる為、給仕された紅茶を飲み干す。紅茶は一体いつ淹れたのか冷え切っており、それが逆に熱くなっていた私の頭を冷やす結果となった。
醒めた目で侍女頭を見つめる。
脳裏に今までのイーサンとの思い出や、公爵夫人との会話が思い出され、様々なことを察した。
点が線となって繋がったようにさえ思えた。
「イーサンが愛している女性、もしかしたらお腹に子どもがいるのでは?」
私の問いかけに、それが正解だというように侍女頭の口角の両端が更にあがる。それを見て、更に続ける。
「そして、それがわかったのは1か月前では?」
イーサンが結婚を早めたいと言ったこと、そして公爵夫人が仄めかした令嬢の存在。それですべて説明がつくのだ。
私の言葉に侍女頭はどこか得意げに告げた。
「イーサン様の最愛の方は、私の友人が乳母を務めたバークレー侯爵家の令嬢ロレンシア様です。大変侍女に優しく接してくださる方で、私どもも何度もお会いしたことがございます。その方がイーサン様と夫婦になることを待ち望んでおりましたのに………ただ派閥が違えたというだけで無理矢理別れさせれられた上、どこの馬の骨ともわからぬ下級貴族の娘が主となるなど、言語道断です。」
侍女頭はついに笑顔を消し去り、私を睨みつけてきた。
私との結婚は王命なので、いくら子どもができたという理由をつけても覆すことができないと悟り、侯爵令嬢が産んだ子を私が産んだ子として育てるために、結婚を急いだのだろう。
そしてイーサンが私との結婚を喜んで受け入れたのも、相手が下級貴族なら対応をいくら無碍にしても、身分を盾にして黙らせることができるから。
最初から相手になどされておらず、馬鹿にされていたのだ。
公爵子息という地位の者が、本来なら立場が違いすぎてありえない子爵令嬢との結婚を、それも王命で受け入れさせられた意味を、その理由を、イーサンは考えたことはあるだろうか。
いや、何も考えていないから、侍女がこのような暴挙に走ろうと、気にもとめないのだろう。
そして侍女すらも、この結婚の意味を理解していない。
すべてはイーサンが愛する人を迎え入れる為に。
私はイーサンを心から愛していた分、何も見えていなかった自分の馬鹿さ加減に呆れた。
つくづくその辺りは、愚かな母親と似てしまったのだろうと自分自身の血が憎らしい。
そしてふつふつと湧き上がる怒りに、心が燃え、煮えたぎる。
私はイーサンに復讐を誓った。
「もういい……私の眼の前から消えて!」
怒りにより興奮して頭は冴えていたけれど、一晩眠らずに過ごした今の私は休息が必要だった。少しでも休まなければ、復讐の方法も思いつかない。
私が侍女達全員に怒鳴りつけると、侍女頭が口の片端だけあげて微笑った。
嫌な笑い方だ。
「貴方が自らこの屋敷から出ていきたくなるようにしてさしあげますから、そのつもりでいらしてください。」
その侍女頭の言葉に同調するように、この場にいるほぼ全員の侍女が笑んでみせた。それは心底馬鹿にした笑みだった。
全員が部屋を出ていき1人になると、貴族令嬢としては品位に欠けるが、ベットの上ではしたなく大の字で寝転がり、私はぼうっとした頭で考えた。
本来なら、初夜の翌日は気を使って朝の準備も少し遅めに部屋に訪れるものだと聞く。
彼女達は、初夜にイーサンが来ないとわかっていて、わざと朝早くに部屋を訪ねて私に事実を教えて嘲笑いに来たのだろう。
「嗚呼、もう少し早く……夜のうちにを教えてくれれば、ゆっくり寝られたのに。」
そう独りごちると、イーサン用にと一応用意されていたらしき枕を掴んで、八つ当たりで彼女達が出ていった扉に向かって投げつけると、そのまま目を閉じた。
思いのほか疲れていたらしい。
ひと眠りして目覚めたのは、太陽が中天に差し掛かる少し前だった。
よく眠れたので頭の中がすっきりしている。ベッドの中でウーンと大きく伸びをすると、サイドテーブルにトレーが無造作に置かれているのが目に入った。
トレーにはスープとパンのみ。小さな器に入ったスープは冷え切って、ほとんど具らしいものが浮いていない。
初夜翌日の公爵家の食事がそれでは、深窓の令嬢ならそれだけで絶望するかもしれない。
それでもろうそくのささやかな灯りしかない底冷えする石畳の部屋で、ほとんど味のないスープを啜り、カビの生えたパンをかじっていた時よりはマシだった。
冷たいスープは具がなくとも野菜の味が染みていて、温かければもっと美味しいだろうと想像できた。パンはカビは生えていないものの何日か置かれたもののようでカチカチだったけれど、スープにつけてふやかして少しづつ食べた。
少しでも食べてお腹を膨らませ、良い復讐方法を考えるためには、気にしてなんていられなかった。
後で気付いたが、私が投げた枕だけはご丁寧に拾い上げられ、部屋の隅に置かれていた。
ベットに腰掛けたまま食事を終えて一息ついていると、入口の扉がノックされた。
私が身構えながらも「どうぞ」と返事すると、1人の侍女がカートと共に部屋に入り、深々と頭を下げた。
「食後のお茶をお持ちしました。」
まるで今しがた食事を終えたのを見ていたようなタイミングだった。
食事を終えた皿の乗ったトレーがカートの二段目に片付けられ、代わりに美しい幾何学模様の入ったティーカップがサイドテーブルに置かれる。ティーカップには、温かな甘い匂いの立ち上る紅茶が注がれた。
その独特な幾何学模様は隣国フォルミでは有名なブランドの磁器だった。
私が紅茶に手を付けずに侍女を見上げると、侍女は微笑んで見せた。その笑顔に悪意は感じられない。
「毒見が必要でしょうか?」
私は侍女の意図に気づくと、微笑み返して頭を振り紅茶を口に運んだ。
そのお茶は、フォルミ特産のフレーバーティー。
紅茶を一口飲むと、私はベッドから立ち上がり、ベッドルームの窓際に置かれた書机へと向かった。
「少し待ちなさい。」
私が侍女に命令しても彼女は反論することもなく、私の指示に素直に従い、手をおヘソのあたりでそっと重ねた状態でその場に立っていた。
その上品な立ち姿は、高位貴族の屋敷できちんと教育を受けているのが伺えた。
書机で手紙を書いて封筒に入れると、侍女に差し出した。あえて封蝋はせずに。それは相手を信用しているというよりは、試す目論見があった。
眼の前の彼女は、朝に部屋を訪れた侍女達の一番後ろにいた。
鉄のサビのような赤茶色の髪をシニヨンして、公爵家の侍女の制服を身にまとった、一見したら実に平凡な女性。雑踏に紛れれば、すぐに見失ってしまいそうな。
唯一その彼女だけが侍女頭の言葉に同調して馬鹿にしたように笑うことなく、一番後ろで無表情で佇んでいた。それは違った意味で目立っていた。
「貴女の雇い主に渡しなさい。」
冷たい紅茶と冷たいスープや硬いパン程度しか用意するつもりがない人達とわかりやすく違う動きをする彼女には、背後に指示をする誰かがいるのは明確だった。
優しくして信用させて裏切る可能性もあるので、まだ完全には信用するつもりはないけれど、それなら利用してしまえばいい。
イーサンへの復讐に。