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ようやく、私の願いが叶う日がやってきた。私の復讐が、成就する日が……。
曇天の雲間から光が差し、次第に青空が広がっていくのが私室の窓から見える。まるで私の未来を祝福してくれているようだ。
今日ばかりは、教会のシスター見習いが着るような真っ黒なワンピースドレスはクローゼットの奥に。
いつもなら整髪料で髪一本の乱れもなく編み上げたシニヨンも、今日でサヨナラ。
鏡の前に移動して長い黒髪にブラシをかけると、艶艶として髪に光の輪が浮かぶ。
こんなに明るく浮き立つ気持ちで鏡の前に座るのは、2年前に自分が婚姻届けを書いた時以来だった。
夫であるイーサン・ディアス公爵子息と、私マリア・クロッカス子爵令嬢の婚約が整ったのは、イーサンが19、私が15になったばかりのこと。
王女が降嫁したこともある由緒正しいディアス公爵家と、下級貴族であり瑕疵のあるクロッカス子爵家では地位が違いすぎて通常はありえない婚約なのだが、それは王命によりなされたもの。
王命とはいえあまりに格差のある婚約にいい思いはしていないだろう……と考えていたが、私との顔合わせの時のイーサンの表情は、思いのほか明るかった。
「はじめまして。イーサンと申します。」
高位貴族だというのに気位の高さや傲慢さは感じられず、心から私を歓迎しているのが伺える笑みを浮かべると、イーサンは私の手を恭しく受取りその甲に口づけた。その慣れた仕草に私がかっと顔を赤らめて思わず手を引っ込めると、その様子を見てイーサンの父親のディアス公爵がたしなめた。
「イーサン、彼女のことを気に入ったのはよくわかったが、少し落ち着きなさい。すみません、私の息子が失礼を。」
「いえ、こちらこそ失礼を。私の娘も親族以外の男性とあまり親しくしたことがないので、少々驚きすぎてしまったようで。」
父親同士が謝罪し合う最中、イーサンは甘い笑みを浮かべて私を見つめてくる。その視線に耐えられず、私は更に顔を赤くして下を向くことしかできなかった。
イーサンのことは、この顔合わせ前から知っていた。
長年敵国として緊張状態にあった隣国フォルミとの間に和平条約が結ばれ、それを祝って催された宴。知人と談笑していた私は、少し離れたところに人だかりができているのに気づいた。その中心にいたのがイーサンだった。
ミルクティ色の髪に青い瞳、通った鼻筋。つり上がった瞳はともすれば冷たい印象を与えかねないが、彼の柔和な微笑みがそれを中和する。
なんて美しい男性なのだろうとひと目みて心が踊った。
ただ彼の周囲にいるのは、年頃の美しく着飾った可愛らしい女性ばかり。
黒い髪で黒目の地味な風体の私では容姿が釣り合わないと、密かに想い募らせながらも諦めていた相手だった。
「よっ……よろしくお願い申し上げます、イーサン様」
少しでも私に良い印象を持っていただきたい。それなら黙って下を向いたままでは失礼だわ……となんとか奮起し、緊張のあまりうわずった声で挨拶して顔をあげると、イーサンは優しく頭を振った。
「イーサン『様』じゃなくて、イーサンって呼んで欲しいな。これから長い人生を共に過ごすことになるんだし……ね?」
イーサンの言葉は、たとえ王命とはいえ、私との結婚を前向きに考えているのだと感じさせる言葉で、胸がジンとなった。それと共に、眼の前の男性が自分の夫になるのだと強く意識させるものでもあり、まともに彼の顔を直視することが出来なくなってしまった。
この時は、こんなことでドギマギしてしまっては彼と夫婦としてやっていけるのかと不安にかられたが、それはとても幸せなことでもあった。ただただ何も考えず、恋に溺れているだけの愚かな自分でいられたから。
婚約はつつがなく整い、私が翌年から3年間の貴族学校に通う予定があるので、その卒業を待ってから式をあげるという段取りで話が進められていた。
イーサンとは徐々に関係を深めていこうと月に2〜3度ディアス公爵家の本邸でお茶をしており、近いうちにディアス公爵家主催の夜会に参加して、婚約者としてお披露目をしようという手筈になっていた。
イーサンとのお茶会も、最初は緊張のあまり言葉がつっかえたり、お茶を零しそうになる粗相をしてしまったが、その姿を穏やかな笑顔で見守ってくれるイーサンの優しさに触れ、少しづつ落ち着いて話ができるようになっていた。
自分の義母になるディアス公爵夫人も優しい方で、イーサンとのお茶の後は、公爵夫人から直々に心構えや振る舞い、公爵家の領地の事など丁寧に教えてくださり、
「貴方の覚えが良いから、イーサンが公爵になった時の領地運営の手伝いも問題なさそうで安心したわ。社交の面でも、ディアス公爵家は他国との交流も盛んなのだけれど、周辺諸国の言語や文化にも明るいし。」
とお褒めいただき、私のことをどうやら気に入っていただけたようだった。
そんな穏やかな生活を送っていた中、状況が一変したのは、あの初々しい顔合わせから4か月ほど経った時だ。
「マリアが入学する前に結婚したい。学校には結婚してからでも通える。マリアが卒業するまでなんて、待てないんだ。」
突然、イーサンが結婚の日取りを早めたいと言い出した。
この日は珍しくイーサンとのお茶の席に公爵夫妻も同席しており、急な話に流石に公爵夫人が難色をしめした。
「まだ婚約発表もしていないし、普通は婚約してから結婚準備として、最低でも1年はかけるものなのよ?」
ドレスや靴やアクセサリー、招待客はどうするか、式の時の内装等、公爵家の威信をかけた結婚式になるのはわかりきっているので、決めることはたくさんあるし時間がかかるのだ。現状では結婚は3年も先のことなので、会場は公爵家本邸というくらいしか決まっていない。
それでも…と、イーサンは椅子から立ち上がって熱弁した。
「本格的な式は卒業してからすれば良い。簡単な式を身内だけでして、婚姻届をだして、戸籍上だけでも僕の妻にしてしまいたいんです。学校には僕より若い男はたくさんいる。他の男に少しでも目移りされたくないんです。」
自分の胸に手を当て、イーサンは眼の前にいる公爵と公爵夫人に熱く語る。その様子に私への激しい熱情を感じられて、私は舞い上がる気持ちで高鳴る胸の音が聞こえやしないかと、イーサンのように自分の胸元に手を当てた。
公爵夫人はあまりのことに呆気にとられたように目を見開き、口元に手を当てている。一瞬、公爵夫人は驚きのあまり私の存在を忘れてしまったようで、
「貴方がそこまでマリアのことを想っているなんて思わなかったわ。だって貴方、学生時代にはあの令嬢と……。」
と、気になることを言い出した。
公爵夫人がそこまで口を開いたところで、公爵が彼女の肩に手を置きそれを制す。そこで夫人はハッとしたように私の顔を見ると、少しバツが悪そうな表情を浮かべて誤魔化すようにティーカップ内の紅茶を飲み干して呟いた。
「どうやらおかわりが必要ね。」
話題を変えるべきだと暗に公爵夫人は言っていた。
「イーサン、少し落ち着きなさい。こちらで話しよう。」
公爵がイーサンを連れて行ってしまうと、少し離れた場所についていた侍女達が一斉に動き出し、使用していたカップが片付けられ、新しいお菓子とお茶が運ばれてくる。
私はどうにも公爵夫人の言葉が気になって仕方がなかったが、話題を変えようとした夫人の気持ちを考慮して何も聞けなかった。それを結婚後の初夜になって、後悔することになる。
イーサンがどうやって父親を説得したのかは不明だけれど、私が貴族学校に入学する前に婚姻届だけ出してしまうことになった。
恐らく私とイーサンの結婚が、王命であることも要因となり、後押しとなっていると思う。
流石に王命の結婚なので身内だけで簡素な式をしてしまうのは許されず、とりあえず届けをだすだけ。
式の予定は変わらず貴族学校を卒業してから、という話に落ち着いた。
婚姻届を出したら私は公爵家本邸と同じ敷地内にある別棟の屋敷でイーサンと二人で過ごすことになるとのことで、少しずつ実家である子爵邸から自分の荷物を運び入れた。
イーサンとの婚約の顔合わせから5か月が経ったその日、公爵夫妻と両親、証人として国から派遣された書記官の前で婚姻届を書き入れた。婚姻届は書記官が持ち帰り戸籍に登録してくれるので、書記官が書面を受け取った時点で、その届けは有効となる。
イーサンと名実共に夫婦となったのだ。
「イーサン、嬉しい……!」
「僕も嬉しいよ!」
イーサンは人前だというのにそれを憚らず、私を強く抱きしめた。その様子を微笑ましい表情で見つめる両家の家族。いつも悪態をついてくる兄ですら、今日ばかりは結婚を祝ってくれた。私はとても幸せで、この幸せがずっと続くものだと思いこんでいた。
その日の夜は、たとえ式をしていないとはいえ、初夜になる。
侍女が複数人で頭のてっぺんから足の爪先まで磨きあげてくれ、夜用の薄衣を着せられた。寝室には甘い匂いのする香が焚かれ、緊張のためか身体の熱があがり、少し頭がぼうっとする。
身を固くしてイーサンが来るのを今か今かと待ち望んでいた……が………イーサンは、寝室のカーテンの隙間から明るい陽が差し込む時間になっても訪れることはなかった。甘い香が燃え尽きた残り香だけが、部屋にうっすらと漂っている。
イーサンの身に何かあったのかもしれない。
いや、初日だし私を気遣って寝かせようとしてくれたのかもしれない。
でもそれなら何故、私に夜を思わせるの薄衣を着せたのか。
頭の中でイーサンの弁護をしてみたり、イーサンを疑ってみたり。
忙しく頭の中で思考がぐるぐる回る。
そんな時、寝室のドアがノックされた。