カタカナ不要論に異を唱えたい
海外の方の意見でよくあるのが、「日本語に漢字はいらない。ひらがなだけで良い。だからカタカナもいらない」と言うもの。親の下の名前より聞いた意見です。所謂3つの文字を使ってる日本人はおかしいと言う意見ですね。
漢字なんかは擁護の書き込みが多いのですが、カタカナに関してはそうではありません。大抵の場合、「カタカナは外来語を表す為にある」と言う形で擁護されます。が、当方はそれだけでは無い、日本人にしかわからない意味をカタカナは内包していると考えています。
まずは〝漢字撤廃論〟に反論していきましょう。
漢字というのは現存する唯一の“表意文字”です。「アルファベット」も「アラビア文字」も「ハングル」も「ひらがな」も全て“表音文字”です。何故表意文字が各文明から消えて漢字だけ残ったのか。それは諸説ありますが、よく言われるのは“意味の数だけ文字を作り、それを普及させる教育制度や統治制度が発達しなかったから”が有力です。
動作だけならまだしも、感情、指示、状況、物質を表す文字を必要に応じて組み合わせ、或いは1から生み出す必要がある表意文字は手間と時間が掛かります。それならば音を組み合わせて意味を作る表音文字が残ったのは納得です。が、漢字だからこそ、表意文字には出来ない優位性があります。
漢字は文字数を圧倒的に省略でき、漢字さえ知っていれば知らない言葉であっても漢字から意味を推測できます。
続いては〝ひらがな依存論〟です。
よくありますよね、ひらがなだけで十分だと。空白を用いれば見づらさは無いと。いやいや、そんなわけが無いです。
日本語に於いてひらがなはあくまでも漢字の“補佐”でしかありません。日本語に存在する八百万と言って良いほどの“語彙”を表す為に、漢字に付け加える形で表してきました。
そして何より、ひらがなだけにすると面倒な事は他にあります。それは、“同音異義語”の問題です。
これは海外の書き込みでよく挙げられる反論です。最も多い同音異義語で「こうしょう」と言う言葉があり、漢字が無いと文脈ですら判らない・読み取れない単語も存在しています。
しかし、当方は別の角度から意見を唱えさせていただきます。それは、“綴りと発音は一緒だが、意味が違う”と言う“同音同記異義語”という意見です。アルファベットとひらがなが根底から違う理由、それはひらがなを組み替えて文字を作っても、それは別の意味を無数に含む組み合わせ方であると言う点です。これは強烈な罠と言えるでしょう。
例を挙げます。
「きのう、まちにいったんだよ」
この文を漢字にしましょう。
「昨日、街/町に行ったんだよ」
街であれば大都市の印象が、町であれば郊外の住宅街の印象を持ちます。
或いはこのように漢字にした場合。
「昨日、真千(人名)に言ったんだよ」
人名になった場合、“いった”の部分が別の意味になってしまいました。
こんなの、日本語を意気揚々に学ぼうとした英語圏の方々に同情します。まぁ、表音文字とか言いながら“gh”とか言うふざけた綴りをしているアルファベットも大概ですけどね。Syzygyとか奇抜すぎる綴りしてますし。
話を戻して、「まち」「いった」の2つの単語でそれぞれ意味が分かれるのは、アルファベットでは中々起きない現象でしょう。これこそ、“ひらがな”だけにすると言うのが無茶苦茶な案である理由です。
そして本題である、〝カタカナ不要論〟に入りましょう。
カタカナは「外来語を表す」と言うのが役割で、唯一の役割と言う風に見られがちです。ですが、先程書いた通り、当方はカタカナには外来語を表す以外の役割があり、日本人でしか解らないような意味であると思っています。
例を挙げます。
「昨日、ヤッたんだよ」
この“ヤッた”と言う単語、これには「殺人などの罪を犯した」と言う意味や「性交渉をした」と言う意味が含まれています。単純にやらかしたと言う意味でも用いられる事もあり、ひらがな、或いは漢字では表せられない“絶妙な差異”が内包されています。他に例を挙げるならば、「薬」を「クスリ」と書くだけでその意味は処方箋や免疫物質から“違法薬物”へと変容します。これがカタカナが持つ最大の利点なのです。
ですが、上記の例はいかんせん世俗的、口語的です。ぶっちゃけ漢字に置き換えて用いることでその意味は表せます。しかし、次に例を挙げる言葉は漢字では表現できません。
それは、“モノ”です。
当方は、文章を書く際に「〜〜と言うもので、」等の文章が出てくれば、大凡必ず“モノ”と書き表し、漢字の“物”は当てません。何故ならば、その“もの”が表しているのは「物質的な、質量を持つ物」ではなく、「抽象的な、指し示す概念」を表しているからです。質量を持たない事象に「物」を付けるのは、少なくとも当方は違和を感じます。ひらがなでも漢字でも表せない意味を、カタカナに保有させる事が出来る為にそのような表し方をします。
同じような言葉に、「ソレ・アレ」もあります。カタカナで書かれた“アレ”は、ひらがなの“あれ”とは違い“特定物”を示しており、“ソレ”も同様に特定物を示します。“アレ”はどちらかと言うと口語的ですがね。
上記の“モノ・ソレ”を組み合わせ、文を作ります。
「カタカナの役割は、外来語を表すと言う“モノ”で、“ソレ”が唯一の役割です」
どうでしょう、当方の言いたい事が伝わったかと思います。これこそ、カタカナだからこそ内包出来る“絶妙な差異”なのです。
つまり、カタカナには、“特定物に集中して示す”と言う効果があります。そしてそれは、ひらがなの“全体をなぞるように示す”と言う効果と真反対でしょう。
ひらがなとカタカナの誕生理由や使用理由は上記のような事が理由ではありませんが、日本人が1000年以上使い続ける中で、このような特性が現れたと当方は感じます。
上記を纏めますと以下の3つです。
1.カタカナには外来語を表す他に「ひらがな」や「漢字」で表せない意味を持たせる事ができる。
2.「ひらがな」には同音同記異義語の罠がある。
3.やはり、3つの文字に加えて「空気」まで読める日本人は素晴らしい。
以上です。読んでいただきありがとうございました。
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