第一章 『生涯忘れられない日』 その⑤
咲の部屋へとついたミョルエルはノックもせずに扉を開くと、ミョルエルを睨みつけるように目を細めていた咲がベッドに腰かけており、ベッドの上や足元には誰かの写真が散りばめられていた。
「さ、咲?」
少し控えめにミョルエルの後ろから顔を出した有希がそう名前を呼ぶと、咲の表情は打って変わって明るい笑顔を浮かべ陽気に言葉を発した。
「こんな時間にどうしたの有希?確かに私は『いつでも』っていったけど、こんな夜遅くに来られたら色々困っちゃうよ」
言葉とは裏腹にその表情には困った様子などは見られなかった。
「でも有希が来てくれたのはすっごく嬉しいんだ私。お父さんとお母さんが死んじゃって、もう私は独りなんだなって実感が沸いてきて寂しかったんだ。だから来てくれてありがとう有希。だけどさ」
刹那、ベッドに腰かけていた咲は無動作でミョルエルへと距離を詰める。
油断せずに身構えていたおかげか、ミョルエルはすぐ後ろに立っていた有希を壁へと押しのけてから、貫かんと放たれた咲の手刀の手首を掴み自身の身体へと届く前に受け止めた。
だが、咲は受け止められるのを見越していたのか手首を掴まれた際、流れるように手のひらをミョルエルへと向けると、悪魔や魔神が持つ特有の魔力―『魔素』と呼ばれる物を手のひらに集中させてミョルエルに放つ。
ほぼゼロ距離で放たれた魔素の塊は、ミョルエルを後方へと吹き飛ばし廊下の突き当りで爆発を起こした。
有希は恐る恐る廊下の突き当りへと視線を向けると、その先では壁に大きな穴が空き外気が廊下へと流れ込む。
「あいつはダメだよ有希、あんなやつと一緒に居ちゃダメ」
そう頭上から声をかけられゆっくりと顔を向けると、そこには顔の右半分が黒く変色し一本の捻じれた角を生やした咲がおり、その背中には悪魔のような翼をゆっくりと羽ばたかせていた。
「でも、もう大丈夫だよ。これからさきはずーっと私と一緒。ご飯を食べるときも、寝るときも。そうだ、お風呂も一緒に入っちゃおうか」
ふふふ、と口の中で笑い声を転がしてから、有希の前で咲は腰を下ろす。
「ずーっとずーっと一緒にいようね有希」
そう笑顔でいった咲はスッと有希へと黒く変色した手を伸ばすが、その手は有希に触れることなく―
「随分とまあ素敵なあいさつではないですか咲さん。それでどういう気分ですか、お望みの身体を手に入れて?」
―剣を携えて姿を現したミョルエルによって腕ごと宙へと舞った。
腕を切られたことで取り乱した咲は、次いで放たれたミョルエルの蹴りで自室の中へと吹き飛ばされ、勢いよく壁にぶつかってからその下にあったベッドへと倒れこむ。
「無事だったんですね!それでその刀は一体どこから…」
「あぁこれですか?これは私たち天使が持つ『変転我身』という能力で錬成したものです。これにより私たち天使はいつでも武器を錬成して戦えるんです。まあコスパは悪いのですが」
そう有希へと笑いかけてから、ミョルエルは咲の部屋へと視線を向けると、ベッドから身体を起こした咲の様子が変わっていた。
佇まいは先程までの柔らかい姿勢ではなくどこか凛としたものへと変わり、顔は右半分だけでなく全体が黒く変色し二本の捻じれた角を生やし、身体には魔素を身に纏っていた。
「全く、お前のおかげで主が意識を失って俺が表に出る羽目になったじゃねぇーか」
そう笑みを浮かべながら嬉々とした口調で言った咲―ではなく咲に取り憑いていた存在である魔神は、ミョルエルに切り落とされた腕を魔素で引き寄せてから切り口を合わせると見る見るうちに切り口が消え、平然と腕を上下に振ってから指先がしっかりと動くのを確認する。
「さて、とりあえず死ねやクソ天使」
そういってからスッと指先をミョルエルへと向け魔素を集中させると―
「魔珖破閃」
―放つ瞬間、指先を有希へと向けてから禍々しい光の光線を放った。
「え、」
そう声を短く上げた有希だったが、迫りくる光線を遮る様にして間に入ったミョルエルは剣を床に突き立て両手を前へとかざす。
「創造主たる神々よ、この世ならざる悪しき者から我らを守る絶対なる盾を-天界術守衛ノ弐『戦乙女の盾』!」
ミョルエルが紡ぐ言葉により、悪魔や魔神が持つ魔素と同じく、天使が持つ特有の魔力―『マナ』が円型の盾へと形を変え、眼前に迫った魔珖破閃を四方八方へと散らすと、それらは壁や床、天井を貫き抜け野外へ飛び出ては程なくして霧散する。
「おいおいまじかよ、これを防げるとかそれの性能バグってるだろ」
そう呆れるような口調でいった魔神は、床に刺した剣を抜き迫ってきたミョルエルの剣閃を軽く躱し指先に魔素を集中させ、先程とは違い銃弾のような細かい塊―魔弾をいくつか放つが、それらはミョルエルの身体に触れることなく剣に弾かれ霧散していく。
「まあそら当たらねぇよな。てことで」
そう呟いてから指先を再度有希へと向け魔弾を連射する。
だが、先程のこともあり魔神の指先へと意識を裂いていたミョルエルは、魔弾が有希へと到達する前に有希の目の前へと一瞬で移動し、そのすべてを弾き霧散させてから、一瞬で魔神の背後へと移動し、剣を大槌へと変化させて振り下ろし魔神を床へと叩きつけた。
「さて、そろそろ名前を教えていただけますか?それとも存在がちっぽけ過ぎて名前すらありませんか?」
「てめえらのところと一緒にするな。ていうより名前を聞くときは自分から名乗るが礼儀だろが」
大槌を魔素を集中させた両手で受け止め魔神は鼻で笑いながらに言い、ミョルエルもまたそれに鼻で笑う。
「あなた達に向ける礼儀があると思っているのですか?ですが、まあいいでしょう。私は現界守衛隊第八隊隊長・ミョルエル」
そう予想外に名乗りを上げたミョルエルに対し笑い声を上げてから名乗りを返す。
「俺はソロモン72柱ヶ一柱、第16柱・情欲のゼパル。よく覚えておけミョルエル」
魔神―ゼパルは両手に集中させていた魔素を爆発させ、大槌を浮かせてからその場を退くと有希の方へと駆け出し、後方へと魔素を変化させた煙幕を発生させる。
「…!悪知恵ばかり思いつきますねほんと!」
そういってから大槌を大きな芭蕉扇へと変えマナを纏わせる。程なくしてマナは緑色の淡い光を放ち始め、力任せにミョルエルが芭蕉扇を振るうとマナを帯びた風が煙幕を霧散させた。
「一手遅かったなミョルエル」
そう言葉を残し有希を抱きかかえたゼパルは、廊下の突き当り―穴の開いた壁へと手をかけ外へと飛び出し逃げることを選択したが、その姿を追うミョルエルは勝利を確信し笑みを浮かべた。
刹那、ゼパルを取り囲むようにして出現したいくつもの術式から金色の天槍が放たれゼパルの四肢を貫いた。
「があぁぁぁぁあ!!」
そう叫び声を上げ痛みによって開かれた手から宙へと放たれ、重量に従って落下し始めた有希は迫りくる地面に向かい悲鳴を上げるが、寸での所でミョルエルに抱きかかえられ事なきを得る。
有希の無事を確認してゆっくりと地面へと降り立ったミョルエルは、有希を下ろしてから金色の天槍に貫かれ空中で動きを止めているゼパルへと笑みを浮かべた。
「天界術攻衛ノ捌『時間神の天槍』…天槍で貫いた対象の時間を操作する、今は時を止めるようにしているので貴方は首から下を動かすことは出来ませんよ」
そう声をかけられる前から思いつく限りの事を試していたゼパルは、現状ではどうあがいても抜け出せないと悟りミョルエルへと顔を向け嫌味たらっしく口元を歪ませる。
「あの時既に仕掛けていたのか大したものだな。それに先程の身のこなし、攻守両面での正確な判断の速さ、ミョルエルお前階級いくつだよ」
「そうですね、まあ『上位天使』であるという情報だけは明かしておきましょう」
白翼を羽ばたかせゼパルより少しだけ高い目線の位置でそう答えたミョルエルに対し、ゼパルはハッと一度言葉を吐く。
「つまり大公爵の魔神である俺では上位天使にすら届かないということか嫌になるな全く」
「あなたが全力を出せてさえいれば結果は変わっていたかもしれませんけどね。それでも私は負ける気などさらさらありませんが」
「なんだ気付いていたのか。かかか、面白い奴だなお前は」
そういってカクッと頭を下げたゼパルだったが、程なくして身体は地面へと向け落下する。
寸でのところで咲を身体を受け止めたミョルエルは、天槍に貫かれたままのゼパル本体へと視線を向けるとゼパルは愉快そうに笑い声を上げていたが、その体は徐々に崩れ落ちていた。
「今回のところは退くとしよう。元々遊び半分で応じたが思いもよらない収穫があって満足だ」
「全く面倒極まりないですね、それ。いい加減全員核を持って現界に来てくれませんかね、恥ずかしくないんですか?」
「死ぬのが嫌で保険を掛けるのが恥ずかしい事であってたまるか。俺たちからすればお前たち天使のほうが異常だからな」
ゼパルの四肢を貫いていた天槍は、その部位が崩れ落ちた際に共に消え、遂には首から上だけとなったゼパルは尚もミョルエルへと笑いかける。
「ただまあ次は全力で殺し合おう。それまで死ぬなよミョルエル」
そう言葉を放ってから完全に消え失せたゼパルへと、聞こえるはずもないと知りながらミョルエルは悪態をつくように言葉を吐く。
「そんなのごめんですよ、バーカ」
咲を抱え家の中へと入っていたミョルエルに続き、家の中へと入ろうとした有希はどこからか聞こえるはずのない笑い声が聞こえた気がした。
咲の部屋をマナで修復し、ベッドの上にへと咲を寝かせてから両手をかざしたミョルエルは、両手にマナを集中させた。
「天界術支援ノ漆『ヒュギエイアの診療録』」
ミョルエルがそう唱えると寝ている咲の上空に薄いガラスのような物が出現し、今現在の咲の身体状態を事細やかに表し始める。
ミョルエルの傍らにいた有希もその内容へと目を向けたが、綴られている文字はギリシア文字(ギリシャ文字)であったために読み解くことができず視線を咲へと戻した。
寝ている咲の静かな寝息と、ガラスの様な物と共に出現していたキーボードのような物をミョルエルが流れるように打つ音だけが響いてた部屋の中、有希はぽつりと言葉を零す。
「咲、大丈夫だよね」
咲の手を握り、誰に聞かせる訳でもなかった有希だったが、沈黙を嫌ったのかミョルエルは「大丈夫ですよ」と有希へと言葉を投げかける。
「見た目の外傷も特になく、私が切り落とした腕に関してはゼパルが完治させていました。あと残る問題があるとすれば、残留している魔素による悪影響と…心の問題ですかね。まあ後者に関しては私の専門外なので、有希さんにお任せします」
そう淡々と語ったミョルエルはキーボードから手を離し、咲へと手をかざすし再度マナを集中させ咲の体に残留している魔素を体外へと放りだす。
ややあって一息吐いてから立ち上がったミョルエルは有希へと顔を向ける。
「では私は修復作業に入ります。その間はちょっと危ないのでここで咲さんの様子を見ておいてください」
こくりと頷きを返した有希へと笑みを浮かべてから部屋を後にしたミョルエルは、まず手始めに廊下の突き当りの壁に空いた穴を塞ぐため、マナを練り辺りに散らばっている壁の破片へと飛ばすと、まるで時が戻るかのように壁の穴が塞がり始め程なくして元の状態へと戻る。
次いで階段を降りたミョルエルは、荒れ果てていた惨状を見てから一度ため息をつく。
「まあ乗りかかった船です。サービスしておいてあげますよ」
そう誰に聞かせるわけでもなく言葉を吐いてから、壁を直した要領で作業へと取りかかった。
次で『第一話』が終了です