第一章 『生涯忘れられない日』 その②
約束通り咲の家へと迎えに来た有希がチャイムを鳴らすと、それを待っていたかのように玄関扉を勢いよく開いた咲からは、昨夜のような弱々しい様子は見られず、妙に元気な様に違和感を抱きながらも有希は挨拶を返してから踵を返す様に背を向けると、咲は有希の腕を絡めとるよう抱き着いた。
そしてそのまま玄関前を後にし学校へと向かう道中、腕に抱き着いていた咲は少し震えているのか若干俯きがちに歩いている様に、有希は無言のまま咲の頭を撫でる。
何か声をかけてあげるべきだとは思うのだが、どうにもかける言葉が見つからずそんな自分に対し嫌気が指すが、咲の現状に比べればどうでもいいことこの上ないと、有希は他愛のない会話を広げては咲もそれに対し少なからず反応を返す。
(やっぱりちょっと無理してるのかな)
有希はそう思うも、咲自身の足は着実に学校へと向かっている。
咲の意思を尊重するため有希は敢えてその事には触れず、やはり他愛のない会話を続けることにした。
学校へ着くと校門に立っていた有希と咲のクラスの担任は、咲の姿を見るなりしきりに話しかけてきたが、咲の反応は薄く担任も「あまり無視するなよ」と声をかけ二人を校舎へと見送った。
「咲、ほんとに大丈夫?」
体調が悪い時でもこれほどまでに愛想を振りまかないことがなかっただけに、より一層違和感を抱いた有希はずっとかけまいと思っていた言葉を口にする。
「うん、私は大丈夫だよ。ただ、ちょっとどう返せばいいのかわからなくて」
そう微笑む咲の顔にはいつもと違う、それどころかまるで目の前にいる咲が別人の様にも思え、有希は「そっか」とつい無意識に突き放した様な言い方をしてしまったと気付き、逸らしてしまっていた視線を咲へと向けると、そこには有希よりも取り乱した様子の咲が少し青ざめた表情で瞳は少し濡れていた。
「有希ごめんなさい、ごめんなさい!違うの、さっきのはそうじゃなくて、そういうつもりじゃなかったの!お願い、信じて!」
そう大きな声を上げ、周りの視線が二人へと注がれる。
だが、その事を気に留めることなく咲は有希へと「ごめんなさい」と繰り返し続ける。
「わかった、わかったから咲落ち着いて」
そういってから黙らせるように咲を抱きしめた有希は、周りから注がれる視線に嫌気が指し咲の手を取ってから保健室へと足を向かわせる。
「すみません、ちょっと落ち着くまでここにいてもいいですか?」
「花垣さん、それに七瀬さん?…まあいいわ、ホームルームまでには戻りなさいよ」
そういってから机へと向かい直した保健室の先生はどうやら咲の様子を見て何かを察したようで、そのことについては有希に一任する事に決めたようだった。
「ありがとうございます」
他の教師に比べ、際立って生徒と深く関りを持とうとしないと有名な保健室の先生だが、今回に限ってはありがたいと、有希は咲を連れベッドへと腰かける。
いくらか落ち着きを取り戻したのか咲は有希の胸に顔を埋め、時折すんっと鼻を鳴らすだけで先程の取り乱した様子が嘘のように思え、有希はことさらに頭を悩ませる。
程なくして保健室の扉が開かれ部屋の中へと一人の男子生徒が入ってきた。
「失礼します、といたいた」
そう視線を有希と咲へ向けてから扉を閉め二人の元へと近づいた男子生徒に対し、保健室の先生は一度視線を向けただけで特に気にするわけでもなく再度机へ向き直す。
「おはよう二人とも、なんか下駄箱の方であったって聞いたけど大丈夫か?」
「おはよう倉原くん、多分もう大丈夫だと思うけどもう少しだけここで休んでく」
そう有希は返事をしてから咲の頭を優しく撫で、視線を向けることはなかったが咲も有希に同意するかのように一度頷くと、その様子に男子生徒―倉原は「そっか」と短く言葉を返す。
「じゃあ俺は先に教室に戻るよ、また後で」
「うん、また後で」
それから数十分経った頃ホームルームの予鈴が鳴り、保健室から追い出されるように教室へと向かった有希と咲は、それぞれの席へと着く―はずだったが有希の隣の席の生徒は少し遅れているのか、誰も座らず空いていたその席に咲は着席する。
「…咲そこ夢莉の席だけど」
「でも今は空いてるよ?だったら私が座ってもいいでしょ?」
さもそれが普通だといわんばかりの咲の発言に、面を食らったかのように言葉を失った有希だったが、咲はさして気にもせず机を有希の机へと付けると人懐っこい笑顔を浮かべた。
「それにここだったらずっと有希といられる」
そういって有希の腕へと手を絡ませた咲。
そこで有希の抱いていた違和感は確信へと変わる。
―これは咲じゃない。
だが、そんな有希を置いて事態は悪化する。
教室のドアが勢いよく開かれ、そこには今まさに咲が座っている席の主である『新西 夢莉』が息を切らしながら教室へと入ってきた。
「ふぅーあっぶねぇもう少しで遅刻だったわ。…って何この妙な空気」
そう近くいる生徒へと問いかけた夢莉に対し、その生徒は視線を夢莉の席―咲が座っている場所へと移すことで答えを返し、それ追うようにして視線を向けた夢莉はえ、それだけ?と言いたげな表情を浮かべてから「まあいいか」と自分の席へと向け歩き始める。
さしたる距離もないため、異常を察したクラスメイトが止めに入る前に自分の席の前に着いた夢莉は、自分を無視してしきりに有希へと話しかけ続ける咲へと「おい」と声をかける。
「もう先生着ちまうから自分の席戻れよ」
若干のイラつきを滲ませた口調でそういった夢莉だったが、まるで意味が分からないといいたげな表情で「なんで?」と咲は首を捻る。
特に大きな声で会話してるわけではなかったが、周りのクラスメイトは誰一人言葉を発していなかった為か、嫌に強調された二人の声は次第に荒々しい感情が混じり始める。
「咲の席はあそこだろうが。いいからどけよ」
「嫌だよ。私、今日ここに座るから新西さんは私の席に座ってよ」
「何意味わかんねぇこといってんの?それがまかり通るなら元々席順なんて決められてねぇよ。いいからどけよ、ほら早く」
「だからあそこ座っててっていってるじゃん。あれもしかして言葉わかんない?」
明らかに挑発的なその言葉に、夢莉は咲の胸倉を掴みあげ今にも殴りかかりそうなほど表情を凄ませるが、咲は無表情で「何?」と短く問う。
そのままの状態で一体どれくらいの時間が経ったかはわからなかったが、このままではダメだ―と思い至った有希は咲へと諭すように声をかける。
「咲、そこは夢莉の席だし、咲は咲の席に戻ろ?先生に怒られちゃうよ?」
だが、咲の反応は有希が返ってくると思っていたものとは大きく異なり、今にも泣き出しそうな表情で「なんで…そんなこというの?」と小さく溢す。
あまりにも唐突に変化した咲の様子に夢莉は掴んでいた咲の胸倉を無意識に離し、解放された咲は有希に縋りつくように身を寄せる。
「なんで?なんで?…なんでそんなこというの?有希は私の味方だよね?そうだよね?」
そう早口にいった咲の目には光がなく、吸い込まれるような黒い瞳を見た有希の意識は次第に遠のき始め―
『捕まえた』
―そう、聞き覚えのない言葉が確かに聞こえ有希の意識は途切れてしまった。
「おい有希、大丈夫か!?」
そう強く声をかけられ身体を揺さぶられた有希の意識は戻り、目を開くとそこには安心した表情を浮かべる夢莉の姿があった。
「よかった…ていうよりどうしたんだよお前ら、なんか変だぞ」
視線を立ち尽くしている咲へと向け、支えていた有希の肩を力強く抱きしめるように身を寄せた夢莉は尚も語り続けた。
「最近あいつに何があったかは知ってる。だけど、あれはどう見ても別件だろ。少なくともああはならないぞ」
夢莉のいう「ああはならない」という言葉に引っかかりを覚えた有希だったが、今はこの状況をどうにかするのが先だと思い至り、ゆっくりと立ち上がり咲へと語り掛ける。
「ねぇ咲どうしちゃったの?そんな怖い顔やめてさ、席に戻ろうよ。先生来ちゃうよ?」
辛うじて発せられた有希の言葉は、震えて弱々しいもので間近にいる夢莉にさえ正確には聞き取れなかった。
だが、そんな声を聴きとれたのか咲の表情は明るい笑顔へと変わり、手を伸ばしながらゆっくりと有希のほうへと歩き始める。
「咲!それ以上近づくな!」
そう声を上げた夢莉の表情は青ざめており、何かを察知したのか有希を守る様にして咲へと立ちふさがるが、その肩は小刻みに震えていた。
だが、咲は歩みを止めることなく夢莉へと近づき手を伸ばすと、不意にその手を掴まれ視線を向けるとそこには難しそうな表情をした倉原がいた。
「やっぱりまだ調子が良くないみたいだな咲。先生には俺から言っておくからさ、今日はもう帰った方がいいと思うぞ」
咲に睨まれながらも臆することなくそう告げた倉原は、次いで視線を有希へと向けにっこりと笑顔を浮かべる。
「有希も体調が悪いなら保健室行くか、帰った方がいいだろうな」
「そう…だね。咲」
やや間を空けてからそう返事をした有希は咲へと呼びかけ「帰ろっか」と笑顔を向ける。
すると、先程まで倉原へと向けていた視線が嘘のように明るい表情を浮かべた咲は「うん!」と短く返事をして、有希の腕へとしがみつく。
有希は夢莉、倉原へと視線を向けてから咲と共に教室を後にした。