第二章 『氷の大地』 その⑦
南極点に新たな魔族の気配が現れた事はミョルエルもコキュートスも気付いており、その場にいるウリエルの足止めを担ってくれる事を望みながらコキュートスは戦闘態勢を整える。
「さて、私の見立てではあれ程の気配の相手でもお二人にかかればそう時間は掛からないでしょう」
「お二人だと?」
「はい、つい先程私に飛ばされたお姉様はお兄様の所に行ってます。南極点にある魔界と繋がる穴を確実に塞ぐ為にはお二人の力が必要ですからね。そして私の役割は、あなたの足止めですが可能であればお二人と合流する前に討ってもいいとの事なので―」
そこまで言ってからミョルエルはとびっきりの笑顔を浮かべた。
「遠慮なく私一人で討たせていただきますね」
その言葉を聞きコキュートスは自らの手に氷斧を生成してからミョルエルへと向き直し―
「調子に乗るなよ羽虫が…お前を殺した後、すぐにあの二人も同じ所へ送ってやる」
―そう言い放ってからミョルエルの後ろへと回り込み氷斧を勢いよく振るうが、ミョルエルの残像を両断するだけで捉える事ができないばかりか、その隙を逃すことなく黄色の炎を纏った拳から放たれる重い一撃がコキュートスを襲った。
本来感じるはずのない痛みが腹部から込み上がり、息を吐き出す様な動作を取ってからミョルエルの拳を掴みかかるが、そこにはミョルエルの姿はなく背後からの一撃にまた息を吐き出す動作をする。
「カハッ…な、なんだ。なんだこの動作は…なぜこのような必要のない動作を取るのだ私の身体は」
自身のその不可解な動作に困惑するコキュートスだが、それでも尚幾度となく氷斧を振りかぶるがミョルエルを捉えることもなく空を切り続ける。
哀れにも見えるコキュートスの様子を、攻撃を避けながら観察し続けるミョルエルはコキュートスが抱いている違和感の正体に気付き始めていた。
半世紀程前、かつて神々が創造し人々を幾度となく救ってきた『神代の物質』を収集していた時に遭遇した魔神もまた、コキュートス同様に人型へと姿を変え自身の力を増幅させていた。
その魔神は汚染された土から生れた魔族であり、土故に痛覚もなく破損した部位をすぐさま修復させていたが、姿を変えた後は凝縮された魔素はその魔神を大幅に強くさせたが、本人には想定していなかった変化をもたらした。
それは凝縮された魔素による感覚の創造及び強化だった。
強化されたありとあらゆる感覚は、大気中に流れるマナ及び魔素をより敏感に察知し尋常ではないほどの反射神経でミョルエルを驚かせたが、それでも尚上を行くミョルエルの速さから繰り出された一撃による初めての痛みから、次第にその土の魔神の感性を鈍らせ程なくして決着は付いた。
その戦いの中で、強化されたはずの土の魔神の不調の正体に終ぞ気付くことが出来なかったが、土の魔神と重なるコキュートスの様子を見てようやっと気付くことが出来た。
「やはりそうなのですね」
「…何がおかしい。私を…私を見て何を笑っているー!」
不敵な笑みを浮かべるミョルエルを見て感情を爆発させたコキュートスは、感情のままにミョルエルへと猛進するが不意に背後から突き刺さったミョルグレスの痛みに、らしくもない悲鳴を上げた。
「手元を離れた神器は、召喚者のマナ及び魔力によりどれだけ離れていようとその手に引き寄せることが可能です。なので、神器が手元から離れたとしても油断してはいけませんよ?」
そういってからコキュートスの身体を切り裂くようにミョルグレスを振り抜いたミョルエルは息をつかせる間もなく、紫電を纏わせたミョルグレスでコキュートスの身体を切り刻む。
凝縮された魔素により生み出された痛覚を迸る紫電は、絶え間なくその身体を崩壊へと向かわせていた。
ミョルグレスによる刀傷は魔素を以てしても塞がることはなく、それどころか刀傷は少しづつ連鎖するように広がり氷の体は灰のように黒ずんでからボロボロと崩れ始めていた。
そして、コキュートスはミョルエルに対する見解を改め決意する。
「―お前は今ここで確実に殺す」
そういってから出現させた氷柱は、コキュートス自身の体を貫きながらミョルエルへと襲い掛かる。
無数ともいえる氷柱を躱しながら、その場を退いたミョルエルは氷柱が届かない位置で足を止めるたと同時に氷柱の出現が止むとそこには氷柱の山が築かれていた。
程なくして氷柱の中心からコキュートスの魔素反応が消失し、辺りは静寂に包まれる。
やがて、氷柱の中心からは鼓動が鳴り響き次々と氷柱の魔素が抜けては砕け、氷柱から抜けた魔素は中心へと集まり始める。
その魔素を以て砕けていく氷柱の山から姿を現したコキュートスの身体には、受けた傷がなく魔素は先程よりも純度を高め明らかに身に纏っている量が増えていた。
コキュートスは自身の魔素で作り出した氷柱で、体中にあった刀傷の部位を自ら破壊し再構築する苦肉の策だったが、紫電による身体の崩壊を食い止めることに成功した。
だがその苦肉の策も周辺の魔素を全て集めたため二度目がないことはコキュートス自身も重々承知だ。
(今ここで死力を尽くす!)
身に宿す魔素を放ち小規模ではあるがその空間を支配する。
目で追いきれない、速さでは敵わないことをもはや隠す事もせず、辺りを漂う魔素は終ぞミョルエルの動きを捉え続けコキュートスへと伝え続ける。
そのため、魔素を解き放った刹那にできた隙を逃すことなく仕掛けてきたミョルエルの攻撃を受け止め、瞬時に退路を断つように氷壁を生成し中に閉じ込めたミョルエルへ向け氷塊を放つ。
放たれた氷塊は氷壁を破壊し音を立てながら崩れ落ちていく。
「…まあそう簡単には死なないよな」
そういってコキュートスが振り返った先には、腕から血を流すミョルエルが立っていた。
「それは…お互いさまですね」
痛みで顔を歪ませたミョルエルは、氷塊が放たれる直前にコキュートスの背後に映る氷の地へと『テレポート』を使用し直撃は免れたものの、移動する瞬間に氷塊を腕に掠めていた。
「これほどの血を流すのはいつぶりでしょうか、これ一つでも私がどれだけたるんでいたのか…お兄様達に見つかったら怒られてしまいますね」
「そのクソ生意気な態度も、もう見られないと思うと寂しくなるな。だが、安心しろ。そのお兄様達も同じ場所に送ってやる」
氷剣を作り出し切先をミョルエルへと向けたコキュートスだったが、そんなコキュートスに対しミョルエルは不敵な笑みを返した。
「残念ながらそれは叶いません。あなたはここで―」
ミョルエルの身体には紫電が纏わり始め、程なくしてミョルエルがマナを解放すると全身が可視化できるほどの『雷のマナ』に包まれ、金色の髪は薄紫色の輝きを放ち始める。
「私に負けるのですから」
ミョルエルの全身を迸る紫電は、バチバチと音を立てる度に空気中を漂う魔素を分解していき、コキュートスが放った魔素による『ミョルエルの行動把握』能力が薄れていく。
「どうやら時間はあまり掛けられないようだな。私にとっても、お前にとってもな」
だが、完全に習得しきれていない『神雷纏装』はあまりに不安定であり、纏っている雷のマナは徐々に空気へと溶けていく。
ミョルエルの内から溢れ出すマナは無論無尽蔵ではなく、『神雷纏装』が不安定故にその消費速度も尋常ではない。
万全の状態であっても10分程度が限度であり、今の状態であれば3分と持たないことをミョルエル自身が一番よくわかっているだろう。
それでも尚、自身に満ち溢れた表情で焦っていない様子のミョルエルは両手にマナを纏わせ構えを取り、コキュートスも氷剣を構え直してからそれに気が付いた。
―ミョルエルの両手が空いていることに。
ニッと笑ってからミョルエルは先程と同じく手を開け神器を引き寄せる。
コキュートスの背後にある氷塊の残骸からミョルグレスが姿を現し、ミョルエルとの間にいるコキュートスに切先を向け動き始めた。
「二度も同じ手は喰わんぞ!」
視線を逸らさずに自身の背後に氷壁を作りだしたコキュートスだったが、氷壁にミョルグレスが弾かれる音と共に自身の身体に叩きこまれたミョルエルの強打に嘔吐する。
視界から外すことなく、ミョルエルの動きに細心の注意を払っていたにも拘わらず、捉えることができなかったその動きにコキュートスは狼狽する。
刹那、ミョルエルの背後に見える氷の大地には先程ミョルエルがいた場所から、自身の場所まで一直線に伸びている焦げ跡が氷の蒸発と共に消えるのを視界に捉えた。
あまりにも一瞬の出来事に思考が纏まらないコキュートスだったが―
「神雷怒涛―神撃雷連―」
―ミョルエルのその声が届き、瞬時に思考を切り替えるがその最中も止まることのない雷の如き連打は、先程と非にならないレベルでコキュートスの身体を砕いていく。
魔力で作り出した氷で砕かれていく身体を再生させるも、それを上回る速度で砕かれる個所は増える一方。
「く、そがぁぁぁぁ!!」
そう叫びながら氷剣を振り下ろすも、その氷刃がミョルエルに届くことなく叩き砕かれる。
幾度となく作り出した氷剣を振り下ろすも、その度に叩き砕かれ続けざまにその身に神雷を纏う連撃で身体を砕かれる。
(何故だ…何故ここまで敵わない。こいつはただの”天使”だぞ?!私の命を脅かす”神”ではない!なのに―)
「お前は一体何者だぁぁぁ!」
魔波を放ちミョルエルを宙へと浮かせ距離を離してから複数の氷の重槍を生成しミョルエルへと放つが、ミョルエルは何食わぬ顔で全てを躱す。
だが、躱しても軌道を変え追尾してくる氷の重槍を、ミョルエルは躱しざまに砕こうとその小さな拳で殴り付け氷の大地に叩きつけるが、すぐさまその鋭利な先端を向けミョルエルへと襲い掛かる。
一瞬反応が遅れ氷の重槍が頬を掠め後方へと飛んでいくが、その瞬間を逃すことなくコキュートスは氷の大剣をミョルエルへと振り下ろす。
纏っている魔力から砕けない事を悟ったミョルエルはすぐさま距離を取りその場を離れるが、躱されることを承知で振るったコキュートスの氷の大剣は氷の大地を割ってから、ミョルエルが移動した場所に氷柱を出現させミョルエルの身を抉る。
この短い時間の中、直感で『神雷纏装』の弱点に気が付いたコキュートスは、ミョルエルに考える時間を与えない為に攻撃を仕掛け続け、絶え間なく襲い来る氷の重槍とコキュートス本体の攻撃に、先程と変わって防戦一方となったミョルエルは何とか回路を敷くために思考を巡らせていたが、ふと視界に入ったその姿に一瞬目を閉じてから感覚のまま攻撃を躱し右手にマナを集中させた。
その様子に懲りずにミョルグレスを差し向けて来ると誤認したコキュートスは自身の死角を氷壁で補うが、ミョルグレスは弧を描きながらコキュートスを避けミョルエルの左手へと収まり、右手のマナは形を為していく。
それは小さな手鏡だった。
だが、刹那輝きを放つとそれはミョルエルの左手に握られているミョルグレスと同じ姿へと変わった。
「な、なんだと?!」
それは見て取れる質感や纏っているマナの量、何よりも神器特有の気配と全く同じ物で、二つとして存在しないはずの神器が今、ミョルエルの右手と左手にそれぞれ握られていた。
「―交差するはずのない神閃」
驚きのあまり動きを止めてしまったコキュートスの身体を、神速の剣筋がコアを中心に切り裂き、首より下は程なくして砕け散っていく。
首だけとなったコキュートスは薄れていく意識の中、ミョルエルの小さな背中を見つめながら昔の戦いの事を思い出す。
有象無象の天使が飛び交う中、一際存在感を纏い「自身を脅かす存在」と感じ取った当時四大天使と呼ばれていたウリエル達の傍にいた二体の天使の内の一人が、他でもないミョルエルだった事を思い出した。
「なるほどな…あの時感じた焦燥はあ奴らだけではなかった…というわけか」
あの時あの場にいた6体の天使に抱いた物だと理解したコキュートスだったが、振り返ったミョルエルの愁いを帯びる表情に―
「全く、生意気だ」
―小さくそう呟いてから生命活動を終え、残った首すらも砕け散り自然へとその魔素を溶かしていく。
存在消失―そうなったものは二度とこの世に生れることができず、魂の循環から外される。
それは命がある全ての”もの”に適用される世界のルールであり、神々さえもその『循環の理』の内におり、『終焉戦争』にて多くの神々や魔神、神代の怪物たちがこの世から存在消失した中、ミョルエルの主神である『雷神・トール』を含む複数の神々は、今も尚『エデンの園』で深い眠りについており、多くの天使達や人々がその帰りを待っている。
(トール様…そして、ルミエル…成し遂げましたよ)
そう心の内に秘め、ミョルエルは気を失うように倒れるが寸での所でウリエルに抱きかかえられ、「よくやった」とたった一言優しく呟いたウリエルへと精一杯の笑顔を作って見せた。
前回が短かったからってわけではないです
区切りですよ区切り 二章はもうちょっとだけ続きます