8 様子の変わった婚約者
「やあ、メアリー。今日もまた一段と可愛いな」
歯の浮くような気障な台詞を口にしたのは、なんとアラン様だ。
あまりの変わりように、アラン様のそっくりさんなのかと疑ってしまう。
「……その気色の悪い口調はなんなのです? 何か悪いものでもお口にされました?」
胡乱な眼差しを向けると、アラン様は可笑しそうに声を上げて笑った。
「はは! 酷い言われようだな。ただ俺は、メアリーが可愛いと思ったから、それを素直に口にしただけだ」
……ウィンクまでされたわ。この方、本当にアラン様なのかしら。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
わたしの頬に手を当て、アラン様が顔を覗き込んでくる。
ええ、本当に具合が悪くなりそう。この方は一体どなたなの?
わたしはアラン様の手を引き剥がし、後ろにニ歩後ずさって、アラン様と距離を取る。
「なんでもございません。ただ、もう少し離れてください。距離が近すぎます」
扇子で口元を覆い、アラン様を睨みつけると、アラン様はきょとん、と目を丸くした。
「なぜ? 俺達は婚約者だろう?」
「そうですわね。時限爆弾付きですけど」
先日の意趣返しなの?
アラン様は目を細めて口の端を上げた。嫌だわ、その笑顔。なんだかとても、悪巧みをされているよう。
「恋愛の上澄みだけを楽しみたいんだろう? それなら、まずは俺で試してみろ」
「それは婚約を解消したあとのお話しです」
「婚約解消後に市場に躍り出る前に、俺と恋愛してみろ。いい練習相手になってやる」
「必要ありません」
「何事も市場調査が必要だろ? それに俺にとっては、最後の自由恋愛だ」
「……婚約解消後にいくらでもすればいいでしょう」
アラン様は片眉を上げた。
「貴族に自由恋愛など許されるとでも?」
「ご結婚された後で、皆様いくらでも恋愛されているでしょう」
「あいつらを見て育った俺が、不倫なんかするわけないだろ? 俺は伴侶を尊重するし、大事にするつもりだ」
チクリと胸が痛む。アラン様のお相手になる方は、その通り、きっと大切にされるだろう。
「まあ、相手が愛人を囲いたがるかは知らんが。それは許容するとして、俺は囲わない」
そうでしょうね。きっと、アラン様はお相手の方との距離を縮めようと、良い関係を築こうと真摯に努力なされるだろう。
アラン様は、温かな家庭に憧れていらっしゃるから。
きっとアラン様の誠実な姿は、お相手の頑なな心を次第に溶かしていくに違いない。
アラン様は幸せにならなくてはいけない。
「だからメアリー。俺の最後の恋愛に付き合ってくれ。だめか?」
捨てられた仔犬のような目で縋られてしまえば、断ることなんて出来ない。
だってアラン様の言う通り、アラン様の自由な時間は、爵位を継ぐ、あともう少しの間だけ。
わたしは扇子を口元に当て、溜息をついた。
「……婚姻前の婚約者として、距離を守っていただけるのなら、お付き合いします」
そう言うと、アラン様はパッと花が咲いたように笑った。
「ありがとう。勿論、節度は守る。メアリーを傷つけることはしないし、不名誉な噂が流れるようなこともしない。だが、恋人だからな? 他の男と遊ぶなよ?」
「何を仰っているの。恋人だろうがなかろうが、婚約者のいる身で、他の男性と遊ぶなどありえません」
「まぁ、そうなんだが……。そういうことじゃなくて……」
何か逡巡されたように顎に手を遣ると、アラン様は膝をついた。
まるで流れるようなその仕草は洗練されていて、まさに貴公子そのもの。
アラン様はわたしの手を取った。
「愛してるよ、メアリー。俺には君だけだ。メアリー、君も俺だけを見てくれ」
そしてアラン様は、わたしの手の甲に口づけを落とした。
アラン様はわたしを見上げ、まるで幸せそうに口元を緩め、頬はうっすら赤く染まっている。
その瞳は熱に浮かされたように潤んでいて、わたしの目を真っ直ぐに見つめてくる。
わたしは思わず扇子で顔を覆い隠した。
なんて酷い人なんだろう。
こんな恋愛ごっこは、耐えられそうにない。