32 ひそかに成立しかけた、政略的婚約
悔恨と懺悔と憤怒。目まぐるしく変わるオルグレン夫人の表情。
夫人の青ざめた顔に、真珠姫が冷めた眼差しを向ける。真珠姫に寄り添う前カドガン伯爵は、腕に絡ませられた真珠姫の手を、自身の大きな手で覆った。
真珠姫がぴくりと身じろぎし、前カドガン伯爵を見上げる。
前カドガン伯爵が窘めるように一言、「ポリー」と呼びかけると、真珠姫は不満そうに唇を尖らせた。
だが気を取り直したかのように立ち上がり、わたしを見た。そして微笑む。
「あたくしとアスコット子爵――セシルと呼んでよろしいですわね?」
振り返りもせず、真珠姫がアスコット子爵に了承を強要する。アスコット子爵は床にうずくまったまま、「お好きにどうぞ」と切口上で答えた。
それを受け、真珠姫は「失礼致しますわ」と、再びわたしの正面のソファーに腰掛けた。
「セシルとは、ほとんど婚約直前までの関係でしたの。ウォールデンは王家の血筋を引く、由緒正しい名家と縁付くことができますでしょう。そしてオルグレン=アスコット家は、ウォールデンの巨額の支援を受ける」
オルグレン婦人は息を飲むと、信じがたい裏切りに胸が痛むかのように、胸の中央を手でおさえた。
婦人の後ろに立つアラン様を見上げれば、アラン様もまた婦人同様、目を丸くし、驚いたような顔つきをしていた。
アラン様も初めて聞く話なのかもしれない。
「個人としての利点もございましてよ。あたくしはウォールデンから逃げ出すことができ、セシルは、ギルと前カドガン伯爵元婦人との婚約解消に向けて、足がかりを手に入れる」
「純然たる利害の一致だよ」
吐き捨てるように言葉を足すアスコット子爵。真珠姫は愉快げに片眉を上げた。
「あら。セシル、随分つれない口ぶりですけれど。あなたが持ち込んでこられたお話だったと、あたくし、そう記憶しておりましてよ」
前カドガン伯爵は、やれやれといったように首を振ると、アスコット子爵の肩に手を置いた。励ますように二度叩くと、立ち上がり離れていく。そしてアボット候爵の横に並んだ。
アボット候爵は下唇を突き出し、眉間を寄せて目玉をぐるりと回して見せた。
候爵のひょうきんな表情が示す「どういうことだ」という疑問に、前カドガン伯爵は肩をすくめる。
「きみが、彼女を奈落の底に引き摺り落とすまでの話だ」
今にも誰かを殴りかかりたくてたまらないという唸り声。しぶしぶ抑えてどうにかこうにか宥めすかしている様子のアスコット子爵なのに、真珠姫は歌うように尋ね返す。まるで燃え盛る炎、その火に油を注ぐように。
「彼女って、セシル。あなたの大事な『彼女』はどなた? あなた、あまりに女性関係が派手でいらしたから、あたくし、どなたのことだかわかりかねますのよ。それとも昔から疑っておりましたけれど、やはり禁断の愛という麗しくも穢らわしい恋慕でも抱いてらしたのかしら。あなたの大事なお姉様――」
「僕の妻のことだ!」
顔を上げ、拳を床に叩きつけるアスコット子爵に、真珠姫は首を傾げる。
「あの方がどうかなさって? 女学校在学時は、ずいぶんとあたくし、あの方を助けて差し上げたように思いますけれど」
「ウォールデンが彼女を娼婦の身に落としたじゃないか!」
真珠姫は眉をひそめた。
「正確にはウォールデンの要望を飲んだ娼館が、彼女を身請けしたのですわ。ウォールデン自ら手を下したわけではございませんことよ」
真珠姫の訂正にアスコット子爵が怒気を増し、口を開こうとしたところで「まぁ、どちらでもよろしいですわ」と遮った。
「ウォールデンのすることと、あたくしとを同一視されるのは不愉快です」
アスコット子爵がゆらりと立ち上がる。
ありったけの憎悪を集めたかのような子爵の様子は、前カドガン伯爵に対峙していたとき以上におそろしげだ。
銀色の目は少しも笑っていないのに、ニヤリと子爵の口角が吊り上がり、笑みを形作った。
「白々しい……まったく白々しい」