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30 愛してるなど、なぜ

 真珠姫がグラスに手を伸ばすのを見計らったかのように、アスコット子爵が声を発した。


「僕がギルに、姉さんとの婚約解消を願い出たとき」


 真珠姫の白く細い指が、ぴくりと震える。ハンカチで顔を覆った状態のオルグレン婦人からは、小さなうめき声が漏れた。


「おまえが頷かなかったのは、なぜだ」


 真珠姫はグラスのステムをつまむ。


「あの時点でギルが了承していれば!」


 薔薇色の唇がグラスに触れ、琥珀色の液体がとろりとグラスの内側を滑った。

 一口含み、離れていくグラスを見れば、残るルージュの痕。それを見て気がつく。

 この部屋に入る直前で呼び止めた使用人。彼が手にしていた、シャンパンの空き瓶と使用済みのグラス二つ。

 あれらは前カドガン伯爵と真珠姫の部屋から下げられたものだったのだろう。


 あの使用人はなにがしか、こちらの内情を把握していたのか。

 道理で、わたしの言付けをすんなりと聞き入れたわけだ。


 貴族、それから力や金を持つ者達の醜聞は、使用人の間で即座に共有されるものだ。

 なぜなら素早く状況を判断できなければ、彼等は自身の前途が潰えかねないからだ。

 行き先が崖下だと決まった主人と、仲良く一緒に心中してやるかどうか。それくらいのことは自分で選びたいだろう。

 それにまた、仕える主人にとって益となるか害となるか。把握しておくが好ましい。

 それにも関わらず、わたしはアボット侯爵邸の使用人から無碍にされなかった。醜聞まみれの、蔑まれて当然のメアリー・ウォールデンを。


 アスコット子爵に視線を戻せば、子爵は強大な憎悪に、自身も苦しんでいるようだった。


「愛してるなど……なぜ?」


 なんの関心もなさそうにアスコット子爵の様子を眺めていた真珠姫。その瞳が揺らぐ。

 アスコット子爵が前カドガン伯爵へ、さらに詰め寄った。


「なぜあんなことを言った? 今ならギル、おまえだってわかるだろう。おまえは姉さんを愛してなどいなかった!」


 血がほとばしるかと錯覚するほどの、アスコット子爵の叫び。手負いの獣の咆哮のような。


「私は、今でもあのときの言葉を否定はしない」

「なんだと……!」


 ほとんど掴みがからんばかりのアスコット子爵に対し、前カドガン伯爵は動じない。

 真珠姫はふたたびコニャックを口に含んだ。


「確かに愛していた。レティも、セシルも、オルグレン=アスコット家も、アスコット子爵領の民も」


 前カドガン伯爵の言葉に、アスコット子爵の顔色が変わる。


「それは……」

 何かに気がついたかのように、アスコット子爵の目が見開かれた。


「私がレティに向ける愛は、セシルが望む愛ではなかったのかもしれない。だが私は、私の愛に偽りがあったとは思わない」


 前カドガン伯爵はオルグレン婦人にまなざしを向けた。

 オルグレン婦人がびくりと肩を揺らす。婦人は絹のハンカチを取り去り、ゆっくりと身を起こした。

 血の気の失せた、蒼白な顔。アラン様がオルグレン婦人の手を握る。


 前カドガン伯爵は眉間を寄せ、その様を痛ましげに見た。


「――とはいえ、男女の愛を知った今となっては、私の愛は冷淡であったと理解している。レティ。もしあなたが――」


 前カドガン伯爵は言いよどみ、助けを求めるように真珠姫を見る。オルグレン婦人が唇を噛みしめ、アラン様が震える婦人の肩に、腕を回した。

 真珠姫は前カドガン伯爵を見つめ返すのみ。


「――私を男として求めていたのならば」

「ですから、そうだと言っておりますでしょ」


 呆れたように眉をひそめる真珠姫に、前カドガン伯爵は「だが」と困ったように眉尻を下げた。


「レティは私を疎んじていたのだろうと――」

「もうっ! いい加減になさいませ。あたくしがさんざん、女心の複雑さを教えてさしあげましたのに」

「いや。ポリーは率直すぎるほどに率直だからな」

「なにかおっしゃって?」


 真珠姫の睥睨(へいげい)に、前カドガン伯爵がたじたじとしている。

 これまで想像していたような爛れた関係ではなく。穏やかな空気の漂う二人に、目が釘付けになってしまう。


「は……はは!」


 そこへアスコット子爵の乾いた笑い声が、場の空気を一転させた。

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