29 きまり悪げな閣下
「そちらの――……くそ、なんて呼びゃーいいんだ」
首の後ろをかき悪態をつく様は、とても侯爵閣下とは思えず、親しみと安堵が胸に広がる。
真珠姫も同様に感じたのか、冷たい人形の仮面が外れ、くすりと笑った。
「あたくしにまでお気に留めくださり、ご厚情に感謝いたしますわ、閣下。どうぞポリーとお呼びくださいまし」
真珠姫の言を受け、困惑した様子で前カドガン伯爵に視線を投げるアボット侯爵。
真珠姫は、ますます楽しそうにコロコロと笑う。
「ギルなら気にしませんわ。あたくしを愛称で呼んでくださる男性が増えることについて、ギルは喜ぶことでしょう」
「そりゃあ、あなたはそうかもしれないが。男の身になってみれば――」
ちらちらと前カドガン伯爵を盗み見ながら、アボット侯爵は気まずそうに、口元に手をやる。
「いいえ。あたくしを『真珠姫』ではなく『ポリー』という、一人の人間として見てくださる方を、ギルが歓迎しないはずがございません」
きっぱりと断言する真珠姫に、アボット侯爵は虚を突かれたようだった。
「加えて申し上げるなら、先程のお声がけにつきましては、あたくしの名を呼ばずとも、『そちらのレイディ』でよろしかったかと存じますわ」
悪戯っぽくウィンクし、真珠姫は続ける。
「こんなあたくしをレイデイだと認めてくださるのであれば、ですけれど」
アボット侯爵は両手で顔を覆い、大きく息を吐きだした。
「はー……。確かに。俺もまだまだだな」
鈴を転がすような声で、真珠姫が朗らかに笑う。
「畏れながら、閣下は知性に優れた方と存じます。ですが、政戦に明け暮れていらしたのではなくて? セシルからは遊戯の指南をお受けにならなかったのですね」
「仮にも私は、セシルの師でしたからな」
きまり悪げに苦笑しながら、アボット侯爵は、真珠姫とわたしをソファーへと促した。
二人掛けのソファーには、オルグレン婦人が横臥している。もはや人前であると、取り繕うこともできないのだろう。
顔一面、絹のハンカチで覆い隠し、ちらりと覗く頬は血の気が失せ、蝋のように白かった。
わたしは婦人の顔側のソファーへ腰かけ、真珠姫はローテーブルを挟んで向かい側に。
わたしの目の前には、飲みかけのワインがあった。
アラン様が現れるまで、一口舐めただけのワイン。
泡黄色の液体はいまだに、シャンデリアのオレンジ色を垂らしこんでいる。
「あたくしも少し、飲みたい気分だわ」
真珠姫を見ると、わたしと同じ琥珀色の瞳を細めていた。
「ねぇ、メアリーさん。あたくしもいただいてよろしいかしら?」
首を傾げる真珠姫の視線の先には、ワインクーラーと、その中で冷えた白ワインのボトル。
どうぞ、と口を開く前に、真珠姫は「どちらでもよろしいけれど」と、コニャックをもまた一瞥した。
「そちらはセシルの好みね。ワインはきっと、メアリーさんのために用意させたのだわ。セシルは食事の席以外では、それほどワインを嗜まないから」
キャビネットからアボット侯爵がグラスを取り出す。
ワイングラスより一回り小さく、ボウルからリムに向けて内側にカーブした、チューリップに似たシルエットのグラス。
「あなたの好みも、こちらでしょうな。そうでしょう、ポリー」
アボット侯爵によって静かに置かれたグラス。
「ええ、ええ。閣下のご推察通りにございますわ。酒精の強いタイプを好みますの。セシルに教え込まれましたから」
そう言って、真珠姫は無垢な子供のように、無邪気に笑った。
アボット侯爵は目を瞑り、ぎゅっと力いっぱい眉間を寄せる。そして細く長く息を吐きだすと、妖精一族らしい、麗しい微笑みを浮かべた。
「どうぞ、レイデイ」
グラスには琥珀色の液体が、アボット侯爵によって注がれた。