ギルバートの悔恨 3
「ギル、姉さんとの婚約を解消してもらえるよう、カドガン伯爵に取り計らってくれないか」
深刻そうな顔でセシルから切り出されたのは、その日最後の講義を終えた夕刻。
客として招き滞在している、オルグレン=アボット家出自の講師が退室するのを見計らって、セシルは切り出した。
「なぜ。君が私を気に入らないことは知っているが」
「そういうことじゃない」
セシルの目が逸らされる。
「ギルは姉さんを持て余しているだろう?」
「確かに私は、君ほど機転は利かないし、最高の紳士とは言えまい。だが、婚約者たるレティに、誠実であろうと常に留意している。レティが居心地あるよう、心を砕いていくつもりだ」
セシルは苛立ったように髪をかき上げた。
赤みがかった金の髪が、ぱらぱらと額に落ちていく。
「ギルが姉さんに誠実なのは知ってるよ」
「ならば、私の領地経営への先見の有無が不安か? それは今後、君に不安を抱かせぬよう、一層努力しよう。私自身、さほど無能であるとは思わないが、セシルの目から見て、不満が残るのは理解できる。君は優秀だからな」
セシルが凡庸を装っていることなど、父も私も把握している。
セシルの才は、とても隠し通せるものではない。
だがそうして偽ることが、セシルなりの処世術なのかと、黙認してきた。カドガン伯爵邸に滞在する彼の。
父も私も、セシルがどれほど優秀であろうと、それを疎むつもりはない。歓迎することはあれども。
だが、セシルが私達親子を信頼できるかは別の話だ。
信頼しろ、心を開けと強要できるものではない。
「そんなことは言ってない。ギルはいい領主になるさ」
セシルはますます苛立ちを深めたようで、低く呻いた。
「では、援助か? 家督を継いだ後もアスコット子爵へ、これまでより悪い待遇をするつもりもない。援助は惜しまないし、親交も深めていきたい」
家族になりたいと思っていた。
「レティは大事な人だ。そしてセシル、君も。オルグレン=アスコット家、アスコット子爵領の民も」
婚約者のレティはもちろん、セシル、それからオルグレン=アスコット家の面々と。子爵領の民と。
あの温かな家族団欒の中へ、迎え入れてもらえないかと。
「どうか婚約を解消する前に、セシルの抱く懸念について教えてくれないか」
焦りから、重ねる言葉に熱が入り、口が早くなる。
「努めて改善すると誓う」
「ギルに問題なんてないよ」
「では、なぜ」
セシルはグッと唇を引き結ぶと、それから、はぁっと溜息を漏らした。
疲れたように、胡乱な目を寄越される。
「逆に聞きたいよ。ギルはなぜ、姉さんとの婚約にこだわるんだ? 愛してもいない相手だろう。生まれる前から決められていただけの」
セシルの銀色の瞳は、ギラギラと獲物を狙い定めたように、鋭く光っていた。
「婚約解消は、ギルにとっても歓迎なんじゃないのか? ギルは自由になれるんだ。これからいくらだって、ギルの望む相手を選べる」
「私の望む相手は、レティだ」
「は?」
それまでセシルが私に示した苛立ちや怒り、嫌悪など、子供の戯れであったかのように。
目の前のセシルには、純粋な憎悪そのものがあった。
「なにを……なにを言っているんだ?」
戸惑った。私にはわからなかった。
なぜこれほどセシルが、憤怒に顔を歪めているのか。
私はレティを大事に想っている。
それがセシルに伝わっていなかったということだろうか?
「私の言動が、君やレティに不安を与えていたのだろうか。すまない。私はレティを――」
「うるさい! 愛してなんかいないだろ!」
華奢に見えるが、セシルはか弱くはない。
そしてまた、剛力でない分、効率的な力の使い方、攻撃をよく知っている。
胸ぐらを掴まれた、と思ったときには、壁に吹き飛ばされていた。
「いい加減なことを言うな!」
「いい加減ではない」
背中から腰にかけて、強かに打ったが、窓枠に手をかけて立ち上がる。
ここで引いては、セシルの理解を得られない。
「私はレティを愛している」
セシルも。オルグレン=アスコット家の面々も。子爵領の民も。
愛している。
家族になりたいと。
口腔内が切れたようで、鉄に似た味が広がる。
口の端に浮かんだ血を手の甲で拭った。
「……おまえのことは。好きじゃなかった。だけど、憎んではいなかった」
セシルは荒い息を吐き出しながら、声を絞り出した。かすれがちで苦しそうな声だった。
「たった今、おまえは世界で何より憎い存在になった。我が家を見捨てた、オルグレン当主より、一族の誰より」
そこまで言うと、セシルは目を瞑った。
「おまえが憎いよ、ギル」
そして微笑んだ。神秘的な、妖精のような微笑みだった。
ゾッとするような美しさだった。
◇
それからセシルは単独、私とレティとの婚約の解消を父に願い出たらしい。
アスコット子爵への援助も取り止めてよいと。また、これまでの恩については、少しずつではあるが、返済していくと。
セシルがアスコット子爵領へ帰省した日。
私は父の書斎へ呼ばれた。
「おまえはどうしたい」
「私は、婚約を継続させたいです」
「スカーレット嬢と、いずれ婚姻すると?」
「はい」
執務机の向こう、父は険しい表情で私に問い質す。
「おまえがスカーレット嬢との婚約を解消したとしても、アスコット子爵への援助は続けるつもりだ。それでもか?」
「はい。レティとセシルと、オルグレン=アスコット家は、私にとって大事な人達です。家族になりたいのです」
父は壁にかけられた、家族の肖像画を見た。
絵が傷まぬよう、日のあたらない場所にかけられている絵画。暗い色調で重々しい印象。
重厚で威厳を感じさせると、あちこちで持て囃された、流行の様式。
「そうか……」
それから父は、私を見た。
「そうか」
額に手を当て、父は疲れたように頷いた。
「ならば――」
私とレティとの婚約は、継続した。
私はレティを愛していた。
そしてセシルを。オルグレン=アスコット家の面々を。子爵領の民を。
愛していた。家族になりたかった。