ギルバートの悔恨 1
幼馴染がいた。
まるで神話やおとぎ話から抜け出てきたような。そんな妖精のような、美しい姉弟だった。
「セシル、手合わせしよう!」
弟の名をセシル。年は私と同じ。
成人してからも女性と見紛うような、中性的な美貌を誇る彼は、幼少時はさらに可憐だった。
「いやだよ。僕の細腕でギルの相手になるわけがないだろ」
太い木の幹に背を凭れかけ、読書をしていたセシル。
白い頬には木漏れ日が落ち、赤みがかった金髪はキラキラと光る。
美しい幼馴染は私の誘いに対し、眉間にシワを寄せ、口をへの字に曲げた。
その露骨な嫌悪すら愛らしく。どこか人間離れしていて、神秘的な妖精のよう。
詩作にも通じていたセシルならば、もっと繊細で抒情的な表現をするのだろう。
美しさを言葉や絵、音楽で伝える術を、私は持たない。ただ己の瞳に映ったものを、記憶に焼き付けるだけだ。
私は彼からあまり好まれていないと、知っていた。
神経質なセシル。
心を透かして見ているのかというくらい、人の機微を読むのに長けたセシルに比べると、ウスノロである自覚は多分にあったが、彼からの拒絶には感づいていた。
「謙遜はやめてくれ。セシルが見かけによらず力があることくらい、とっくに知っている。剣術指南の先生には黙っていてやるから」
「見かけによらず、は余計だよ」
はあ、とため息をつくと、セシルは膝に手をついて立ち上がる。
億劫そうに、憂鬱そうに。そして優美に。
若草色のブリーチズを、手に持った本でぱんぱんと払う。
「あっ。しまった」
セシルの声が上がるのと同時に、ブリーチズの裾に縫い付けられたクルミボタンが、ぷつっと千切れる。
砂埃を払うのに使った本。表紙のちりが引っ掛かったのだ。
「あーあ。せっかく姉さんが縫い付けてくれたのに……」
セシルはかがみこみ、草の根を分けてボタンを捜す。
私も手伝おうと足を一歩踏み出したところで、「来るな!」と鋭い叱責が飛んだ。思わず身がすくむ。
「ギルが動くことで、思わぬ方向に転がったら困るんだ」
その声色はひどく冷たく響き、私は「そうか。悪かった」とうなだれた。
ボタンを探すのに、セシルが木の根に置いた本。小花柄の布カバーで覆われている。
おそらくそれも、セシルの姉手製のもの。
そして本の中身は、国が禁書指定している啓蒙思想について記述されたものだ。
どこで手に入れたのか。それは私の父だ。
『あらゆる学問、人々に触れ、様々な思考思想を知り、それらをご自身に取り込まれ咀嚼し、自身の解を出すこと』
セシルとともに教えを乞うている教師に言われたこと。
そして父もまた、私に「視野を広く持て」と言う。
次期アスコット子爵であるセシルが、領主一族としての立場でありながらも、王政と神を否定する理由について、私は本当のところでは、理解できなかった。
◇
「ごきげんよう、ギルバート」
「ようこそ、レティ」
姉の名をスカーレット。年は私の二つ上。
そして私の婚約者。
氷の精のように、常に冷え冷えと無表情を貫く。
彼女は生まれ落ちたときから、祖父同士の交わした約束により、私の元に嫁ぐことが定められていた。
その相手が、どれほど気に食わない男であっても。
酷なことだと思う。
美しい少女が、未来に夢を見ることもできず。
「今日はダンスの授業だそうだ」
「知っているわ」
つんと澄ましたレティ。
王家の血筋を引く、矜持の高い人。
もう少し親しくなれれば、と。
愛称はその近道かと思い、『ギル』と呼んでほしい、と申し出たことは、幾度かある。呼んでもらえたことはない。
だが、『レティ』と愛称で呼ぶことに、拒絶されことはない。どうでもよかったのかもしれない。
それでもレティと呼ぶことを認める程度には、近くあることを許されているのではないか。
ならば、彼女を敬い、望みにできうる限り応え、婚約者として真摯にあり続けるのならば。
そうすれば、いつか距離は近しくなるかもしれない。
男女の愛を育てようなど、そのような高望みはしない。
だが友となれたら。
カドガン伯爵領を担う領主として、互いに尊重し合えたら。そうなれたら、どんなにか素晴らしいことだろう。
「では失礼するわ。カドガン伯爵夫人に呼ばれているの」
「足止めしてすまなかった」
「いいえ」
くるりと背を向け、レティは足早に去っていく。
母の用とは、レティのダンス用のドレスのことだろう。
彼らの領地は貧しく、頻繁にドレスを新調することは難しい。
今日のレティが身に着けているドレスには、見覚えがある。確か、コールリッジ家のいずれかの娘が着ていたはずだ。
女性のドレスについて、それほど記憶に自信があるわけではない。
だがあのドレスは、以前茶会で話題となったから覚えている。
このマナーハウスに、親族のみを客として招いた。
母と私とレティがホスト。客人は傍系の者で、私やレティと年の近しい子息令嬢、そしてその母親だった。
その席で、どのドレスが最も流行りを取り入れ、美しいのかという話になった。
我が領の特性として、生地そのものはもちろん、流行のデザインに疎くてはいけない。
それだから、私もそれなりにご令嬢の話には相槌を挟んだり、意見を求められれば答えたりもした。
だが、この茶会において、どのドレスが最も美しいか。と問われると、答えに窮した。
レティ以外の令嬢はみな、最新の流行ドレスに身を包んでいる。
だが私の婚約者はレティなのだ。
「あら。ギルバート様。ごめんなさい。わたくし考えなしでしたわ。このように尋ねるのでは、きっとお答えすることが難しかったでしょうね」
コールリッジ家に縁のある家。その婦人が慌てたように謝罪した。
「わたくし、ギルバート様がスカーレット様に、ドレスをお贈りになられたらよろしいのじゃないかと。そう思いましたのよ。ギルバート様のお好みのドレス。スカーレット様がお召しになられたら、きっと素敵でしょう?
ですからね。こうして流行りのドレスを身に着けた娘さん達が勢ぞろいしているのですもの。スカーレット様のドレスを注文なさるときの、参考になされたらいかがかしら」
そういうことなら、と若草色のドレスだと答えた。
レティとセシルはよく似ている。
だからきっと、セシルが身に着けている若草色は、レテイにもよく似合うだろうと思ったのだ。
母がレティに着せたがるドレスはいつも、レティの美しさをあまり惹き立てないものばかりだった。
「あら。でしたらこのドレス、スカーレット様に差し上げますわ」
若草色のドレスを着たご令嬢は、にっこりと微笑んだ。
「わたしよりもスカーレット様の方が、ずっとお似合いになるわ。お古で申し訳ないけれど、どうか受け取ってくださいな」
これには参った。
だがレティが目を輝かせて「ありがとうございます」と感謝の意を口にするので、止めることはできなかった。
ここでようやく、コールリッジ家の親族の者達が、レティを侮っていることに気が付いた。
そして、おそらく母もまた、レティに優しく接しているようで、その実、違っていたのだろう。
私はレティに誠実であろうとしていた。
だが、レティがコールリッジ家の人間の、その悪意に晒されていることに気がつかずにいた。
レティが私を厭うのは当然だった。
守らなくてはならない。
レティの意思を確認し、尊重し。彼女の少しでも居心地のよい場所を作り出さなければ。
今日、母がレティのために用意したドレスは、事前にレティから望みを聞き出していた品。
母の悪意は入り込んでいないはずだ。
回廊を抜け、広いダンスホールにたどり着くと、そこにはダンス講師がすでに待ち構えていた。