セシル・オルグレンの回顧録 6
「……みんな綺麗だったわね……」
姉さんは膝を抱えてポツリと言った。
つい先程までカドガン伯爵パワーハウスの庭園で開かれていた茶会は、カドガン伯爵の不機嫌な一声によって終わりを告げていた。
僕と姉さんは今、こうして庭外れの木陰で茶会の後片付けをする使用人だけが忙しく動き回る茶会会場を眺めている。
次期カドガン伯爵と目される後継者ギルの婚約者である姉さんは、この茶会においてホスト側であるはずなのに、カドガン伯爵から資金援助を甘受する次期アスコット子爵として招待された僕と共に、客人であって客人でないような、曖昧な立場として扱われ、招待客への挨拶には参列していない。
沈痛な面持ちで自分の荒れた手を見つめる姉さん。
僕はなんにも考えていないような、軽薄な声色を作って応える。
「そうかなあ? 白く塗りたくってお化けみたいだったし、香水くさいし。同じような顔してるようにしか見えなかったけど」
「まあ……」
姉さんは顔をあげると、大きな瞳を何度かぱちぱちと瞬きさせた。そして首を振る。
「ううん、セシルったら私に気を遣わなくてもいいのよ。みんな美しい髪をしていたわ。艶があって豊かで……。肌だってとても白くて。私みたいに日に焼けてみすぼらしい令嬢なんていなかったもの」
卑屈な笑みを浮かべて自嘲する姉さんの視線の先にはギルがいた。
ギルはカドガン伯爵夫人の元で茶会の参席者を見送り挨拶を交わしている。
カドガン伯爵夫人とギルを一瞥すると、姉さんと視線を合わせるためにしゃがみこんだ。
草の蔓延る地にハンカチを敷き、そこに座り込んでいる姉さん。
僕は膝に手を置き、姉さんの顔を下から覗き込む。
「姉さんは僕のこと、みすぼらしいって思う?」
「そんなわけがないじゃないの! セシルは立派な貴公子だわ」
ばっと勢いよく顔をあげた姉さんは、まるで怒っているかのように目を吊り上げ、真剣な瞳で僕に反論した。
思わず笑ってしまいそうになるけど、ぐっと堪えて小首を傾げてみる。
「でも姉さんと僕はとても似ているよ。姉さんがみすぼらしいのなら、僕もみすぼらしいよね?」
「それは……」
姉さんは目を逸らすと俯いた。
「だって、セシルは男の子じゃないの。私は女なのよ。男の子なら手に剣ダコがあっても素敵だけど、女の子の手が水仕事で荒れているのはみっともないわ。日焼けだって……」
姉さんはドレスの裾をぎゅっと掴む。
「せっかくカドガン伯爵夫人が今日のために素敵なドレスを贈ってくださったけど、日焼けした肌ではちっても似合っていなくて……」
姉さんが身に纏っているのは淡いピンク色のドレス。
白いレースにフリル、ドレスのピンク色より少し濃いピンク色のサテンリボンが沢山ついた、お姫様のような愛らしくて甘いドレス。
華奢で妖精のように可憐な姉さんにきっと似合う、とカドガン伯爵夫人が嬉しそうに姉さんに押し付けたものだ。
陽の下で作業をすることの多い姉さんの、少し日焼けした肌には馴染まない、青みがかったピンク。過剰なレースにリボン。
善意を装った薄汚い悪意に、姉さんは気がついていない。
それはいい。姉さんがこれ以上傷つくのは見たくない。
だけど伯爵夫人の悪意に、こともあろうか婚約者のギルが気がついていない。
僕はハッと鼻で笑った。
「姉さんは、あのご令嬢達が本当に綺麗だと思うの? バカみたいに着飾ってクネクネべたべたして。喋ることといったらドレスがどうとか宝石がどうとか。頭が空っぽだって全身で訴えてて、あんなのが綺麗だなんて、姉さんって趣味が悪い」
「な……っ! セシル! 言葉が過ぎるわ。みんな、とても親切で優しい方達だったじゃないの」
姉さんは慌てたように僕を窘める。困ったように眉尻を下げて。
姉さんはあの令嬢達の底意地の悪さに気がついていないんだね。
親切なフリを装って、貧乏子爵令嬢である姉さんを遠回しに見下していたのに。
コールリッジ家次期当主であるギルバートの婚約者が姉さんだということに、コールリッジ家一族のギルバートとつりあう年頃のご令嬢とその親は不満やるかたないのだ。
アスコット子爵領で共に過ごす朴訥な領民達に、あんな底意地の悪く腹の底が真っ黒で、人の足を引っ張って嘲笑うようなヒトデナシはいない。
だから姉さんは、額面通りに受け取ってしまう。言葉も振る舞いも、姉さんへの親切で優しさだと。
その裏に潜む棘に姉さんは気がつかない。
素直で頭の弱い姉さん。
「親切で優しいねえ……。まあ、それがどうだろうと、あんなのと話していて楽しいなんて思う男はいないよ。ギルだって礼儀正しく応えていたけど、ちっとも楽しそうじゃなかったでしょ?」
コールリッジ家の夫人方とその夫人方に連れられた令嬢達は、カドガン伯爵夫人とギルに取り入ろうと必死だった。
その様子をカドガン伯爵夫人は満足気に眺めていたけど、ギルは愛想笑いを浮かべながらも、戸惑っていた。
婚約者である姉さんがいるのに、ベタベタと接触してこようとする令嬢。遠回しに己の娘を勧めてくるご婦人方。
皆コールリッジ家の親族達だから、そう無碍にするわけにもいかないギル。
それはまあ、気の毒かな、とも思ったけど。
「……ギルバートはまだ、異性に興味がないのよ」
それは多いにあるだろう。
生真面目なギルの頭にあるのは、いかにカドガン伯爵領に貢献できる領主となれるか。カドガン伯爵領の織物産業を発展させるには、この先どのように学び人脈を作っていくべきなのか。といった優等生じみたことしかない。
婚約者である姉さんが、カドガン伯爵夫人やコールリッジ家の親族達、パワーハウスの使用人どもに侮られていることに気がつきもしない。
ついさっき、ギルのお父上であるカドガン伯爵は一目でこの状況を把握したのに。
カドガン伯爵は茶会途中で顔見せにとお越しになった。
そしてご自身の奥方と親族、そのご令嬢に使用人達の振る舞い、表情を目に入れると、すぐさま異様な空気を察したのだ。
眉根をキツく寄せると、茶会の解散を命じた。
反論しようとするカドガン伯爵夫人に鋭い視線を向けると、「逆らうな」とただ一言だけ残して背を向けられ、屋敷へ戻っていかれた。
残された茶会参席者はポカンとしていたけれど、僕はカドガン伯爵に心から感謝した。
ギルも同様にポカンとしていたけど。
息子のお前が、なぜ気がつかないんだ?
「それに私のことも好きでもなんでもないんだわ」
「ギルは間抜けだからね。姉さんみたいに素敵な人が婚約者だなんて幸運に、まだ気がついていないだけだよ」
生真面目で間抜けなギル。
婚約者として礼儀正しく振る舞っている?
姉さんに興味の欠片も示さないくせに。無関心という、姉さんにとって最も残酷な態度を示しているギル。
姉さんがギルに惹かれていることは、見ればわかる。
婚約者としてギルなりに礼節をもって誠実に接しているのは知っている。
だけど。
領主一族じゃなかったら。貴族じゃなかったら。姉さんはもっと自由に恋も結婚もできたはずだ。ギルじゃなくたって、いつか姉さんを好いてくれる男と。今はギルに惹かれていても、姉さんを愛さない男じゃなくて、心から姉さんを愛して大事にしてくれる男がきっといる。
ギルはきっと、この先も姉さんに恋することはないだろう。
◇
「レティのことはギルバート坊っちゃんに任せるんだ。あの坊っちゃんならレティを大事にするだろう。悪いようにはしないさ」
唇を噛みしめ、イーサンの言葉を頭の中で反芻する。
わかってる。貴族としてそれが一番正しいことなんだって。
「……確かにギルは姉さんを大事にするでしょう。だけどきっと、それだけじゃギルに恋している姉さんの心は壊れてしまう」
イーサンは疲れたように、はあっと大きく溜息をつく。
むっとして睨みつけると、イーサンは憐れむように僕を見た。
「セシル。お前は頭は回るくせに、レティが絡むと、途端にバカになるな。わかってんのか? レティとギルバート坊っちゃんの婚約を壊すことは許されねえぞ。
だいたいなあ。レティはお前と違って馬鹿なんだ。お前みてえに面倒な思考回路はしてやしない。
妙な事に巻き込んでやるなよ。レティはカドガン伯爵夫人の座を与えてやれば、幸せになれるさ」
違うよ、イーサン。
姉さんは純粋で、ちょっぴり馬鹿だから。僕が守ってやらなくちゃいけないんだ。