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23 災難の幕開け

 壁に取り付けられたクリスタルの燭台がいくつも並ぶ廊下は、柔らかな炎に照らされている。

 磨き上げられた大理石の床の上をゆっくりと進む。足を滑らせないように殊更ゆっくりと。

 たまにすれ違う方に略式の礼をし、相手が立ち去ってから再び足を進める。

 すれ違い別れる度に後頭部に視線を感じるが、今宵はおそらく直接声をかけられはしないだろう。


 ――あの方々以外からは。


 化粧室が見えるかというところで、待っていた方の声が背後からかかった。


「メアリーさん、よろしいかしら」


 わたしはくるりと振り返り微笑みを浮かべる。


「ええ、勿論ですわ。お母様」


 エインズワース様の髪色より僅かに赤みがかった淡い金髪に、アラン様と同じ銀色の瞳。

 お母様はいつまでも少女のように可憐で妖精のように麗しい方だ。

 そのお母さまのお顔は青ざめて真っ白で、常ならばよく似合うマゼンダのリップが浮いて見える。


「姉は体調が悪いようでね。そこの休憩室で休みながら話をしたいんだ」


 お母様と同じ色彩の柔和な紳士は、今にも倒れそうな儚げなお母様の背を支え。左手側にある休憩室を示した。


「僕も同席するが、構わないね?」


 優しげな微笑を口元に浮かべられながらも、その銀色の瞳は冷たく値踏みするかのように細められている。

 露骨な牽制に、先ほどのアラン様とエインズワース様のお言葉が脳裏に浮かんだ。


 わたしという存在が気に食わないだけなら、高貴な御血を引かれるアスコット子爵のお立場を考えれば当然のこと。

 平民だというだけでも受け入れがたいだろうに、わたしはお母様を長年苦しめてきた元凶の娘。顔もよく似ている。

 アスコット子爵には不快極まりない存在だろう。


 さらにウォールデンの血がいかに薄汚れているかも知らされた。

 これほど下賤な者を、親族に迎え入れたくはないだろう。


 だからアラン様の元を去れと言われることは覚悟している。

 もちろん去るつもりなどないのだから、言葉を尽くして互いの妥協点を探りたい。


「はい。わたしもアスコット子爵とお話ししたいと考えておりました」


 弱弱しく引き下がるつもりはない。

 目に力を入れて見上げると、アスコット子爵は不快感露わに眉を顰められた。


「……ではこちらへ」


 優しく労るようにそっとお母様の背にお手を添えると、アスコット子爵。

 くるりと背を向けられ、休憩室の扉に手をかけられた。


 既に話を通してあるのか休憩室の前に使用人の類は見られない。

 アスコット子爵はそのままお母様を促し入室される。

 わたしは目の前でぱたんと扉が閉まるのを見送り、刹那考えを巡らせる。

 偶然近くを通りかかった使用人を目の端に捉えた。


「もし。よろしいでしょうか?」

「はい、レディ」


 他の休憩室を使う客からグラスを下げるよう言いつけられていたのか。

 呼び止めた使用人の片手には、空になったシャンパンの瓶と、美しいカッティングの施されたクープ型のグラスが二つ。トレイに載せられていた。

 ルージュの痕がべったりとついたグラスに、透明な淡黄色の泡が内壁を伝うグラスの二つ。

 それだけで男女の逢引なのだと見て取れる。


 気まずいタイミングで声をかけてしまったかと思うものの、これを逃すといつ使用人がここを通りかかるかわからない。

 夜会会場での男女の密会に加えて、これから起こるかもしれない対立。

 厄介事に巻き込んでしまい、こちらの彼には申し訳ないけれど、今は頼るしかない。


「会場にいる方への言付けをお願いしたいのです。よろしいでしょうか?」

「もちろんでございます。なんなりとお申し付けください」


 儀礼的な微笑を浮かべる使用人は美しく背筋が伸び、トレイを支える手は少しも揺るがない。

 様々な経験を積んでいそうな壮年の使用人。

 口堅いかどうかはわからないけれど、小娘相手だと侮って、無意味に伝言を握りつぶすことはなさそうだ。


「ありがとう。カドガン伯爵に伝えてほしいの」


 使用人が頷くのを確認して、目の前の休憩室を示す。


「メアリー・ウォールデンはこちらで休憩していると。アスコット子爵とオルグレン婦人も共にいるから、心配はいらないと伝えて」

「かしこまりました。そのようにお伝えいたします」


 少し思案して言葉を付け足す。


「もしカドガン伯爵がお一人でなければ、貴方はどうするの?」

「お一人になられる機を伺って、お呼び止めするつもりでおりましたが……不都合がございますか?」


 わたしの問いかけに戸惑ったのか、返答する口を開く前に、小さく唇を引き結ぶのがわかった。


「いえ、それでいいのだけど、もしカドガン伯爵のご一緒されている方が第二王女殿下とエインズワース卿のお二人のどちらか、もしくはお二人揃ってでいらしたら、そのまま伝言をしてちょうだい」

「全てそのように取り計らい致します。どうぞご安心ください」

「ありがとう。任せたわ」


 笑顔で頷いた使用人は休憩室の扉に手をかける。


「どうぞ、レディ」

「ありがとう。でも結構よ。自分で開くわ」

「大変失礼致しました」

「いいのよ。お気遣い感謝するわ。さあ貴方にはグラスを片付け会場へ戻り、言付けをするという大切なお仕事が任されているわ。行ってちょうだい」

「承りました。御前失礼いたします」


 美しい礼で下がる使用人を見送り、わたしは扉に手をかける。


 この間、扉が内側から開かれる気配はなかった。

 つまりアスコット子爵はわたしをレディ扱いする気は毛頭ないということ。


 瞼を下ろしゆっくりと息を吐き出す。

 わたしは負けない。

 これからもずっとアラン様の隣に立つのは、わたしだけ。


 格子模様にアカンサスの葉、ゴブレットのリレーフが優美な曲線を描く真鍮のドアノブ。

 手の重みをゆっくりとのせ前方に押し出し、音を立てずに扉を開く。

 部屋から零れる橙色の光がわたしの白いドレスに広がっていった。


 正面には二人掛けのソファーに体を預けたお母様がいらして、額に手を当てぐったりとされている。

 アスコット子爵は一人掛けソファに腰かけ、使用人にワインを注がせていた。


「言付けは終わったかい?」


 アスコット子爵はこちらを見ることなく、注がれたワインを手にされた。

 わたしが使用人を捕まえていたことは予測済みだったらしい。


「メアリー嬢も飲むかな?」

「ええ。ご相伴に預かります」


 アスコット子爵は頷くと、使用人にもう一つグラスを用意させた。


「メアリー嬢のグラスはそちらに」


 グラスの位置を示すと、扉の前で立ったままのわたしにアスコット子爵が首を傾げる。


「何をしているんだい?さあ座って」

「失礼いたします」


 促されるまま、アスコット子爵の対面のソファに腰掛ける。お母様は縋るような目でわたしを見た。


「君はもう行っていいよ」

「畏まりました」


 退室を促された使用人は礼をし、そのまま廊下へ出て行ってしまう。

 未練がましくその背中を目で追っていると、アスコット子爵は「我がオルグレン家に連なる新たな家族に」とグラスを掲げられた。

 オルグレン一族の一員として認めてくださるらしい。


 けれどお母様は既に前カドガン伯爵とは離縁され、アラン様のお取り成しがなければコールリッジ家との縁は途絶える可能性がある。

 だからきっとそれこそが交渉材料なのだろう。


 杯を掲げてからワインを一口含む。

 舌を湿らせて微笑みを浮かべるアスコット子爵と向かい合う。


 使用人を追い出されたということ。予測はしていた。

 だから予め言付けを頼んだ。

 けれどこうして対峙してみて、やはり迂闊だったかと苦い思いに捕らわれる。


 アスコット子爵の銀色の瞳が怪しく光る。


「今夜は災難だったね?」


 ええ、災難の幕開けかもしれません。

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