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4 婚約解消を前提とした婚約

「……俺の我儘でメアリーの人生を棒に振らせることはできない。俺が爵位を継ぐまで待っていたら、メアリーは行き遅れてしまう」

「そうね」


 本当のところ、行き遅れてもいいのだけど。

 アラン様のお父様(クズ)わたしのお母様(クズ)を見てしまったあとでは、結婚に夢など持てない。


「今の段階で破棄すれば、次の婚約者もすぐ見つけられるし、メアリーの瑕疵にならない。勿論俺の責での婚約破棄にする」


 アラン様の悲痛な決意を表すかのように、握りしめられた拳が震えている。

 まだ十一歳の子供なのに、まるで大人の男性のように眉間に深い皺を刻んで、お顔は真っ青。唇を血が出そうなくらい噛みしめている。

 わたしは扇子をぱたりと鼻先に倒すと、小さく嘆息した。


「そんなこと出来るわけないでしょう」

「俺が放蕩を繰り返せば、あの二人も諦めるんじゃないか。病に伏しているが、今ならまだ、前伯爵のお祖父様に書面を用意してもらえるだろうし、俺がロクデナシだと分かれば、ウォールデン氏だって黙っていまい」


 前伯爵はアラン様が生まれる前に、病に倒れられていた。

 アラン様のお祖父様さえ、健やかであられたなら、きっとこの婚約は結ばれなかった。

 いえ、それ以前にアラン様のお父様(クズ)わたしのお母様(クズ)は徹底的に離されていたに違いない。


 アラン様の言うウォールデン氏とは、わたしのお祖父様のことで、お母様(クズ)をクズたらしめた元凶でもある。

 そして真珠姫と呼ばれたお母様(クズ)によく似た孫のわたしを溺愛している人だ。

 わたしは反吐が出そうなくらい、嫌いなのだけど。


「無理ね。アラン様が放蕩息子だなんて、演じることだってできやしないわ。あなた、そんなにご自分が器用だと思っていらして? 生真面目なお顔を崩すことだってできないくせに」


 アラン様がむっとしたお顔になる。


「あの男の真似をすればいいんだろう。それくらいできる」

「大嫌いな方の真似をなさるの? お顔に出ますわよ、本意ではないって。そもそもどんな放蕩をなさるおつもり?」


 アラン様は口を開いて、すぐに閉じた。おそらく思いつかないのだろう。


「たとえば女性と遊び歩くとか? 色町に繰り出すとか? 賭場場に入り浸るとか? 怪しい人たちとお付き合いなさるの? あらあら、アラン様は御父上と同じように女性を傷つけて楽しむのね? コールリッジ=カドガン家のお金に手を付けて、危険な遊びに興じる息子に胸を痛める御母堂の心労を増やすのね?」

「そんなことはしない!」


 立ち上がって吠えるアラン様に、わたしは目を細める。


「ではアラン様の仰る放蕩とはなんです?」

「……勉学や剣術に勤しまない……」

「それは放蕩ではなく、無能だとか怠惰だとか言うのよ。そもそも自己研鑽を怠って、伯爵位を継げるとお思いなの? 伯爵領に住まう民への責務は?」


 再び席に着き、押し黙ってしまったアラン様に、嘆息する。


「アラン様には無理だわ。それに……もし仮にアラン様が手の付けられない、どうしようもないロクデナシになったとしたって」


 わたしは扇子を膝の上におろした。


「あの二人には関係ないもの。前伯爵にしたって、これ以上ご心労をかけるのは忍びないわ。前伯爵はわたし達の婚約だって、ご存知ないのでしょう?」


 アラン様が唇を噛む。

 お祖父様を尊敬しているアラン様が、そのお祖父様の病状が悪化するようなこと――クズ二人が自分達の自己満足のためだけに、それぞれの子供を婚約させたこと――を知らせているわけがないのだ。

 それなのに、実はアラン様とわたしが既に婚約していて、そしてその婚約を破棄しようとしているだなんて。それを病床の前伯爵に伝えようだなんて。

 無理に決まっている。


「わたしのお祖父様はね、わたしのことを可愛がってはいるけれど、それはお母様に似ているからなのよ。だからお母様がどうしても、ということをわたしが何を言ったところで覆りはしないわ」


 孫を溺愛している、なんて言ったって、所詮はその程度だ。そのくせ、わたしがお祖父様をお慕いしているよう振る舞うことを強要する。

 愛だなんだと、本当にうんざりだ。


「ですから婚約破棄など無理。諦めなさい」

「……メアリーは、このままあいつらの思うまま、結婚して悔しくないのか?」


 沈痛な面持ちのアラン様に、わたしはパチパチと目を瞬いた。

 どうやらアラン様は、わたしもこの婚約に納得していないと思われていたらしい。なぜかしら。


「わたし、結婚に夢など見ていないの」

「それはそうだろうけど……」

「ですからね、わたし、婚約破棄を受け入れますわ」

「は? だって今、そんなことはできないって……」

「ええ、今は無理ですわね。ですがアラン様が成人なされて伯爵位を継がれた後でしたら、もう口出しされることはないでしょう」

「だから! それだとメアリーが行き遅れるだろう!」


 アラン様が力強くテーブルを叩くようにして立ち上がったせいで、ティーカップとソーサーがガチャリと音を立てた。零れた紅茶がテーブルクロスを濡らす。


「ですから結婚に夢など見ていないの。結婚などしなくていいわ」


 ――アラン様がお相手でないのなら。

 心の中で呟くと、アラン様が眉根を寄せて怪訝そうにこちらを見る。


「そういうわけにはいかないだろう。結婚もせず、どうやって暮らしていくんだ?」


 ぴくりと片眉が上がる。

 やはりアラン様も貴族なのね。女が働くなど、思いつきもしないってことかしら。


「わたしは商家の娘。いくらでも身の立てようがあります。貴族のご令嬢はお屋敷の差配だったり社交だったりで、御家の繁栄に助力するのでしょうけれど、商人が家に籠っていては何の商売もできないの」

「職業婦人になるのか?」

「ええ。そもそもアラン様と結婚したとしても、わたしは働くつもりでした」


 アラン様が眉根を寄せる。


「……それは無理だ。貴族は体面を気にする。妻を働かせるなど、カドガン伯爵家の名誉に関わる」

「そうでしょうね。ですからこの時限爆弾はわたしにとっても都合がよいのです」


 わたしはにんまりと笑って見せる。底意地が悪そうに口角を上げる。


「わたしは真珠姫になどならないわ」


 お母様(クズ)の社交場裏での綽名(あだな)は、昔と変わらず真珠姫。

 でも意味は違う。

 真珠は手入れが面倒な上に、劣化が早い。そして劣化した真珠に価値はない。


「アラン様、これはお互いにとって利のあることです。アラン様が伯爵位を継ぐまで、わたしが虫よけを致します。そしてアラン様は、わたしが女だてらに学問をすることの盾になってください」


 こうしてアラン様とわたしは、婚約解消を前提とした婚約を互いに了承し合った。

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