2 わたしの可哀想なお父様と、アラン様の可哀想なお母様
アラン様のお父様とわたしのお母様が恋人同士。
アラン様のお父様は、カドガン伯爵家のご嫡男。
わたしのお母様は裕福なウォールデン商家の娘で、跡継ぎの弟がいた。
アラン様のお父様が、婚約者への贈り物を選びにわたしのお母様の実家である商店へ足を運び、そこで売り子をしていたわたくしのお母様を見初めたのがきっかけだそう。
婚約者の贈り物を見繕いに行ったはずが、浮気相手を見繕うだなんて、本当に下衆だわ。
二人は身分違いで、アラン様のお父様のお父様、つまりアラン様のお祖父様は、二人の恋をお許しにならなかった。
駆け落ちでもしかねない二人に、アラン様のお祖父様はアラン様のお父様と、その婚約者だった子爵家のご令嬢、アラン様のお母様との婚姻を早めた。
そうしてアラン様のお父様とアラン様のお母様は、貴族としてごく普通の政略結婚をした。
わたしのお母様といえば、欲しいものは何でも与えられ、蝶よ花よと甘やかされて育ったものだから、アラン様のお父様の結婚に納得がいかなかった。
だから当然お母様のお父様、つまりわたしのお祖父様に抗議した。
これまでお母様が望むものは宝石でもドレスでも、見目麗しい男女の友人でも、何でも与えてきたお祖父様だったけれど、今回ばかりはさすがに頷けなかった。
アラン様のご実家であるカドガン伯爵家は、わたしのお祖父様が経営するウォールデン商店のお得意様で、絶対に怒らせてはいけない顧客の一人だった。
それにも関わらず、お母様はお祖父様にアラン様のお父様を伴侶にと強請る。
お祖父様はお母様に甘すぎて、なかなか現実を受け入れろと切り捨てられないものの、お祖母様と叔父様は、きちんと現状を把握していらした。
ここでようやく、お祖母様と叔父様が、お祖父様とお母様に反撃に出られたのだ。
お祖父様は目に入れても痛くないほど可愛がっていたお母様に、お祖父様が信頼の置く、優秀な番頭を婿に宛てがった。
婿といえども、お母様が商家を継ぐわけでもなく。我が商家を継ぐのは叔父様で、お父様は店先を守る番頭のまま。そして我儘なお母様のお目付け役を増やされただけ。
本当に損な役回り。
わたしは父を心から尊敬しているし、父がウォールデンを抜け出したいと望むのなら、その活路を誰より応援しようと思っていた。
「お帰りなさいませ、お父様」
家令と共にお父様を出迎えると、お父様は柔和な笑みを湛えて、わたしの頬を撫でた。
「ただいま、メアリー。今日はよい日だったかい?」
わたしは笑顔で応じる。
「はい。今日はカドガン伯爵令息との定例お茶会でしたの。大変有意義な時間でしたわ」
お父様は眉根を寄せると、気遣わしげにわたしの手を取る。
「僕達の負の遺産を、君が受け継ぐことはないんだよ」
お父様のお言葉に、わたしはとても幸せを感じる。
下衆なお母様の胎から生まれた、取るに足らない女のわたしを、お父様は憐れんでくださる。これ以上の幸せを、どうして望めよう?
わたしは微笑んで、お父様に包まれた手の上、さらに重ねる。
「お父様。わたしはお父様の子に生まれて幸せです」
それでもお父様は、未だ辛そうに口を結んでいらっしゃる。
わたしは苦笑して、お父様の背に手を回した。まるで幼子のように、お父様に抱き着く。
「わたしは幸せです、お父様。わたしはお父様から、『真実の愛』を注いでいただきましたもの」
わたしは愛されて育てられた。
少なくともお父様から、憐憫の情を受けて育った。
だからわたしは、お父様に幸せになってほしい。
そしてわたしは、不幸ではなかった。
◇
「カドガン伯爵夫人、ご機嫌よう」
カーテシーをすると、お粉だらけの真っ白なドレスをお召しになったアラン様のお母様は、戸惑ったようなお顔でわたしを見た。
「メアリーさん、ごめんなさいね。アランは伯爵と領地に出向いているの。あと数日もしたら帰ってくると思うのだけど……」
伯爵と領地代官から領地経営について学んでいるのですよね。アラン様から聞いています。
昨年、成人を迎えたのを機に、本格的に領地経営に携わっているのですよね。
伯爵はこれまで通り豪遊に専念して、領地代官に任せきりだった領地経営をアラン様が取って代わられる。そのご準備。
「はい、本日は夫人とお話ししたいことがございましたの。先触れも出さず、無礼をお許しください」
「私に? ええ、それはいいのだけど……」
アラン様のお母様は、眉尻を下げてオロオロとますます困ったご様子だ。
受け入れがたい現実から目を背け続ける、アラン様のお父様。彼はご自身の奥方を檻の中に閉じ込め続けている。
夜会のような社交にすら出さず。茶会を開くことも許さず。
アラン様のお母さまは、ずっと王都のタウンハウスに閉じ込められて、空想の中で生きてきた。
可憐な少女のまま年を重ねた、可哀想な方。
それでも、相変わらずアラン様のお母様はアラン様のお父様のことを伯爵と言う。
夫と言うこともないし、名前で呼ぶこともない。それが夫人の矜持なのだろう。
わたしはにっこりと微笑んで、アラン様のお母様に告げた。
「この度、アラン様との婚約を解消することになりました」
アラン様のお母様は目を見開いて、けれども静かに「そうなのね」と納得されたご様子で頷かれた。
「カドガン伯爵夫人には長らく大変なご心労とご迷惑をおかけしましたこと、メアリー・ウォールデン最後の挨拶に代えて、心よりお詫び申し上げます」
「あらいいのよ。メアリーさんがいてくださったから、私もアランも道を外すことなくここまで辿り着けたのよ」
「それはわたしもです、カドガン伯爵夫人」
お粉で白くなった手を頬にやり、アラン様のお母さまが、しみじみとこれまでのことを振り返る。
「長かったようにも思えるけれど、メアリーさん達の奮闘を考えると、とても短い期間で成し遂げたのよね。凄いわ」
「いえ。わたしはほとんど何もしておりません」
「そんなことないわ。あなたが小さな泣き虫お嬢さんだった頃から知っているのよ。頼りないけれど、これでもメアリーさんの親代わりでいるつもりだったの」
カドガン伯爵夫人が悪戯っぽく、それでいて可憐に微笑みかけてくれる。
「……わたしも、カドガン伯爵夫人のことを、本当のお母様のように慕っております」
わたしの本当のお母様はクズだから。
「メアリーさんにお義母さまと呼んでもらいたかったわ」
カドガン伯爵夫人の目の端が微かに光る。いつまでも少女のような方。
わたしは首を振り、アラン様のお母様の頬についたお粉をハンカチで拭う。
「近い未来、アラン様が本当のお嫁さんを連れてきてくださいますわ」
「……そうね」
アラン様のお母様は眉尻を下げ、潤んだ瞳を瞬かせた。