9 何度だって言う
殿下とエインズワースの特訓の成果を見せるときがきた。
バシッと頬を叩き、気合を入れる。それから口角を上げ――吊り上げすぎてはならない、柔らかく――、歯がきらっと光るのをイメージし、馬車から降り立とうとするメアリーに手を差し伸べた。
「やあ、メアリー。今日もまた一段と可愛いな」
メアリーは思い切り眉を顰めて、頭を後ろに引いた。おかしいな。殿下とエインズワースは顔を合わせたら、まず褒めろ、笑顔でいけ、と言っていたのだが。何か間違っているのだろうか。
「……その気色の悪い口調はなんなのです? 何か悪いものでもお口にされました?」
扇をバシッと力強く開き、口元を覆うメアリー。完全に不審者を見る目だ。しかしその怪訝そうな眼差しの中に、どこか明るい色が見える。これが殿下とエインズワースの言っていた『乙女の瞳』だろうか。
嬉しくて、胸の奥から温かな笑いがこみ上げる。
「はは!酷い言われようだな。ただ俺は、メアリーが可愛いと思ったから、それを素直に口にしただけだ」
ああ、本当に。なんて可愛いんだ。それに、正直に気持ちを伝えることの出来る気持ちよさ。もう隠す必要はないんだ。
しかしメアリーは扇で顔を全て覆い隠してしまった。
エインズワースによれば、こういうときの女性は照れているのだから、紳士的に見守り、落ち着くのを待ってエスコートすべきだと言っていたが、判断がつかない。もしかすると具合が悪いのかもしれない。
メアリーの手を取り、扇を顔から下げ、頬に手を当てる。熱は…いや、あるか?顔が赤い。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
当惑したメアリーと目が合う。メアリーは目を泳がせて、「ううっ」と小さく呻くと、頬に当てていた手を引き剥がし、後ずさった。残念。メアリーの柔らかな頬にまだ触れていたかったのだが。
とはいえ。これはどうも、手応えを感じる。腿の脇におろした拳をぐっと握る。嫌われては、いない。
メアリーは再び口元を扇で覆うと、か弱い声を絞り出すかのように口にした。
「なんでもございません。ただ、もう少し離れてください。距離が近すぎます」
俺を睨んではいるが、目元は赤く、少し潤んでいる。可愛い。
それにしても距離が近い、か。これまで俺は、メアリーに遠慮して一歩引いていたからな。もう遠慮などするものか。
「なぜ? 俺達は婚約者だろう?」
エインズワースに聞いたように、何も気が付かなかったかのように、無垢を装い目を丸くしてみる。
「そうですわね。時限爆弾付きですけど」
メアリーは悲しそうに細い眉根を寄せ、そっと瞼を閉じた。長い睫毛が影を落とし、震えている。
声はどこか寂し気だ。
これは、いやもしかすると。やはりそうなのか?
あれほど殿下とエインズワースに気づけ!と怒鳴られ続けていたが、二人の言う通り、俺は勘違いしていたのだろうか。
メアリーが俺を疎んじていると。この婚約を一刻も早く解消したいのだろうと。
ただ勉学をするためだけに、学園に入学するためだけに、不本意な婚約関係を甘んじて受け入れているだけで、その必要がなければ、俺の元から解放されたがっているのだと。
それらは全て、俺の自信の無さやあの男への憎悪、そしてそこからくるメアリーへの罪悪感で、俺の目を曇らせていただけなのだろうか。
メアリーも、意地を張っているだけなのだろうか。
だめだ。口元が緩む。
抑えようともどうしても浮かれあがる。
メアリー、素直になれないのなら。俺がそうであったように、二人の未来が許されるのだと信じられないなら。
それならば、ゲームをしよう。
天邪鬼なメアリーが素直に聞き入れる言葉で、少しずつ。
目を細めてニヤリと笑う。
「恋愛の上澄みだけを楽しみたいんだろう?それなら、まずは俺で試してみろ」
俺以外とさせるつもりなんてないけどな。
「それは婚約を解消したあとのお話です」
解消したあとは俺が求婚するけどな。
「婚約解消後に市場に躍り出る前に、俺と恋愛してみろ。いい練習相手になってやる」
「必要ありません」
バッサリだな。だからといって諦めないが。
つん、と顎を反らすメアリーは、こちらを試して翻弄する優雅な猫のよう。飼い慣らされるメアリーじゃないよな。俺も飼い馴らしたいわけじゃない。
商売人なら駆け引きは得意だろう?俺は苦手だが、このゲームに負けるつもりはない。全力でいく。
「何事も市場調査が必要だろ? それに俺にとっては、最後の自由恋愛だ」
「……婚約解消後にいくらでもすればいいでしょう」
誰がするものか。解消したらすぐにでも式を挙げるんだ。
「貴族に自由恋愛など許されるとでも?」
「ご結婚された後で、皆様いくらでも恋愛されているでしょう」
そうだな。それが貴族流の洗練された上等な恋愛ってやつだ。伴侶に恋愛を求めるのはマナー違反。恋愛は外で。不倫こそが崇高な愛。
そんなもの、糞くらえだ。泥臭かろうがなんだろうが、俺はたった一人でいい。メアリー一人がいい。
「あいつらを見て育った俺が、不倫なんかするわけないだろ?俺は伴侶を尊重するし、大事にするつもりだ」
メアリーだけを大事にする。今はまだ、俺が追うだけでいい。メアリーの俺に向ける情が、まだ恋心ではなくてもいいから。
「だからメアリー。俺の最後の恋愛に付き合ってくれ。だめか?」
最初で最後だ。これまでもこれからもずっと。メアリーしかいらない。
じっとメアリーの瞳を見つめる。とろけるように甘く、それでいて幻想的な美しく澄んだ琥珀色の瞳。
メアリーはパチパチと何度か瞬くと、扇で口元を隠し、諦めたように嘆息した。
「……婚姻前の婚約者として、距離を守っていただけるのなら、お付き合いします」
どこか呆れたようで温かい優しさの滲んだ声色に、温かなものがこみ上げる。目頭が熱くなる。笑みが零れる。
寂し気に笑うメアリーの心に今はまだ、諦念があるのだとしても、全部塗り替えてやる。
「ありがとう。勿論、節度は守る。メアリーを傷つけることはしないし、不名誉な噂が流れるようなこともしない。だが、恋人だからな?他の男と遊ぶなよ?」
「何を仰っているの。恋人だろうがなかろうが、婚約者のいる身で、他の男性と遊ぶなどありえません」
「まぁ、そうなんだが……。そういうことじゃなくて……」
どう言えば伝わるだろう。
恋人なんだ。ただの婚約者じゃない。
俺は跪き、メアリーの手を取った。
メアリーがびくりと肩を揺らす。嫌悪を浮かべていないか覗き込むと、水蜜桃のような頬は紅潮し、眦も赤く潤んでいた。
口づけてもいいだろうか? いいよな?
少しでも力を込めれば壊れそうなほど華奢な、白いその手に口付けを落とし、そのまま軽く握った。
見上げると、真っ赤に染まりきった顔のメアリーがいた。こちらを見たかと思うと息を呑み、助けを求めるように目を彷徨わせる。そして俺へとまた視線が戻ってくる。
そこには微かに、『恋人』への期待が覗いて見えた。
自惚れてもいいだろう?
愛しくてたまらない。
「愛してるよ、メアリー。俺には君だけだ。メアリー、君も俺だけを見てくれ」
なあ、メアリー。何度だって言うよ。俺は君を愛してる。
初めて会ったときから、これまでもずっと、君だけを愛してる。
メアリー、君が俺を信じてくれるまで。信じてくれたあともずっと。
何度だって言う。
君を愛してる。
(閑話 「愛してると何度でも」 了)