8 アンジェリカ女史の恋愛指南
「ふうむ。やはり事実は小説より奇なり、じゃな!」
殿下は訳知り顔で頷かれた。
右手に殿下、左手にエインズワース。四人掛けのふかふかとしたソファに腰掛け、二人に挟まれた俺は、先程までのメアリーとの茶会でのやり取りや、俺がメアリーに求愛するつもりであることなど、洗い浚い吐かされていた。
「というより、アンジーの小説が先走り過ぎていたんじゃないかな……」
エインズワースの視線の先、テーブルの上には例の臙脂色の分厚い本が載っている。
エインズワースに手渡された際には固辞していたものの、殿下に目を通すよう勧められれば、断ることは出来ず、読み始めて早々、心を無にするよう努めて、なんとか最後まで目を通した。開いた頁の最初の文字と最後の文字を拾っては頁を捲るといった流し読みだったが、多大なるダメージを受けた。
破滅に向かう類の、耽美で退廃的な恋物語。このモデルが俺とメアリーなのかと思うと、床の上をのた打ち回って髪を掻き毟って大声で叫んで…、とにかく恥ずかしい。
「それでカドガンの。おぬしはメアリー嬢に疎まれていると。そう考えておるのだな?」
「はい」
キラキラとした好奇心旺盛な瞳で覗きこまれ、無邪気に問われた言葉が心を抉る。既に身に染みてわかっていることだが、他人の口から聞かされると憂愁に沈む。
殿下のお言葉が胸に刺さり、思わず俯くと、頭上から「あーあ、僕は知らないよ」というエインズワースの恍けた声が間延びして聞こえた。
なんだ?
顔を上げてエインズワースを見ると、なぜかエインズワースは耳を塞いでいる。なぜ耳を塞いでいるんだ。
怪訝な視線を向けると、エインズワースと目が合った。エインズワースは瞑目し、首を横に振る。一体なんなんだ。
エインズワースは耳を塞いだまま顎をしゃくる。どうやら殿下を示しているようだ。いくら殿下とエインズワースが気心の知れた幼馴染といえど、その動作はさすがに不敬に過ぎる。
それはないだろう、とエインズワースの腕を掴み、「おい」と頑なに塞いだ手を外さないエインズワースの耳元に声をかけた。その時。
「ぶわあぁぁぁぁぁぁっくわぁもぉぉんんんんんん!!!!」
殿下の御声が応接室に響き渡った。
その華奢で小さな御身体から、どのようにすればそこまでの大声が出せるのか。床や置物、窓ガラスがビリビリと殿下の御声に共鳴し、天井のシャンデリアは揺れている。怖い。落ちてこないだろうか。しかしその前に耳が痛い。キーンとする。
眉間に皺が寄り、痛む耳を摩ると、目の前で殿下が猫のように毛を逆立てていた。ように見えた。
殿下の大声が耳に直撃してから、蹲っていたエインズワースは、どうやら復活したようで、恨めし気にこちらを睨んできた。
「コールリッジ……。君のタイミングの悪さと状況の読めなさに視野の狭さ。最悪だな」
吐き捨てるように罵られたが、これは俺が悪いのだろうか。
だが殿下がお怒りになられているのは、どうやら俺が不甲斐無いためのようではある。謝罪すべきだろう。
「申し訳ございません、殿下。婚約者の心を引き留めらず、情けない私をお許しください」
「だから違うわ!!!!」
なぜか殿下は御髪を掻き毟り、ソファに並べられたクッションを手にしてぶん投げた。そのクッションはエインズワースの顔面に見事ヒットした。
「この男……! 唐変木もいいところじゃ! じれじれ胸キュンすれ違い、カッコはーと、どころではない!」
殿下が何を仰せなのか、さっぱりわからない。しかしご期待に沿えなかったようだ。
「殿下のご期待に沿えず、力不足で不甲斐ない限りです」
「だから違うと言っとるじゃろうがぁぁぁぁぁぁぁぁあ!」
殿下はキィィィィっと奇声を上げると、クッションを抱えたエインズワースの腹にパンチを繰り出した。エインズワースは殿下と阿吽の呼吸で、殿下の殴打を腹へ直に喰らう前に、クッションをサッと腹の前におろし、防御した。華奢な女性である殿下の殴打に、防御の必要などないのではないか。そんなことをチラリとでも考えた己を叱責する。
クッションは破れ、羽毛が周囲に飛び散り、エインズワースは「ゴフ……ッ」と腹を抱えて蹲った。とてつもなく痛そう。俺が以前、エインズワースから喰らった渾身の一撃より重そうな殴打だ。殿下はお強いらしい。
殿下は拳を握りしめたまま、キッと俺を睨み上げてきた。俺も殴られるのだろうか。歯を食いしばって腹に力をこめる。
「いいか、カドガンの! すれ違ってキュンキュンしている時期はもう過ぎたのじゃ! 妾がおぬしに現実と理想とトキメキを教えてやろう! まずはその堅苦しい口調から変えていくぞ!」
そして俺はその日以来、連日のように殿下から恋愛指南を受けることになった。
殿下は耽美な方向へ流れがちで、妄想に走りすぎるときは、エインズワースが間に入り、経験談を交えて訂正してくれた。その度に殿下が「さすがスケコマシは違うのう」とジトッとした目でエインズワースを睨むのを、エインズワースは慌てて否定していたが、次第に嬉しそうに頬を緩めるようになった。
好いた相手に疎まれて喜ぶなど、こいつは変態だったのか、と後ずさると、エインズワースは半目になって俺を鼻で笑った。
「君が何を考えているかわかるけど、それは違うからな? アンジーは嫉妬してくれているんだよ。僕のことが好きだから。それがわかるから、僕は嬉しいんだ。コールリッジ、君、いい加減に女性の気持ちを察しろ」
そうなのか、と頷くと、鼻高々といった様子のエインズワースの顎下に殿下のアッパーが綺麗に決まった。
「ルド!!!!! 貴様!!!! 貴様もわかっとらん!!」
殿下のご尊顔は真っ赤だった。
エインズワースは「ごめんよ」と呻きながらも、その顔はだらしなく緩んでいた。
しかしこの二人はいつの間に、こんな仲になっていたんだ?あれほどエインズワースはこの恋に絶望していたのに。どうにも腑に落ちない。
にやけ顔で殿下を宥めるエインズワースをモヤモヤしながら横目で見ていると、俺の胡乱な視線に気が付いたのか、エインズワースが片眉を挙げた。
「アンジーと僕は、君達のキューピッドをするつもりだけど、その前に君達が僕達のキューピッドになってくれたんだ」
真っ赤なご尊顔の殿下と、にやけ顔のエインズワースの視線の先には、臙脂色の表紙の、あのこっぱずかしい恋物語があった。