7 もう誰にも譲らない
恥ずかしい趣味を打ち明けることとなったエインズワースは、開き直ってメアリーとのあれこれを聞いてくるようになった。これまで情けない俺の姿を見かねたエインズワースが、持ち前の気立てのよさから相談にのってくれていたのだと思っていたが、こうなるとそれも怪しい。ただの野次馬だったのではないだろうか。
しかし助けられているのも事実だ。
「コールリッジ、君。メアリー嬢の気持ちを全くわかっていないな」
呆れたように俺に説教をかます姿は、エインズワースが俺に向ける常となっている。しかし今、そのエインズワースの手にある書籍が気になる。何やら深い臙脂色に薔薇の蔦が金箔押しされた、きらびやかな装丁なのだが、その中央に箔押しされた紋に見覚えがあり過ぎる。
「エインズワース。まさかとは思うが、それは……」
エインズワースの右手にある、兇器になりそうなくらい分厚く重そうなそれを指差すと、エインズワースは口の端をニンマリと吊り上げた。
「ああ、これ? これはアンジェリカ女史の新作恋物語だよ。誰をモデルにしたとは言わないが」
聞かなければよかった。
「女史から頼まれているんだよね。くれぐれもコールリッジをメアリー嬢から引き離すなと。どんな手段を取ってもいいから、ともかく焚き付けろだってさ」
殿下。お会いしたことはございませんが、今後もお会いしたくありません。
はあっと溜息をついて眉間を揉む。エインズワースは爽やかな笑顔を浮かべている。憎たらしい。
「……俺はメアリーの側にいたい。どんな形でも。それはもう、認めることにした。足掻くのはやめた。だが、メアリーがどう思っているかは別だ」
「本当に面倒な男だな、コールリッジ」
エインズワースは臙脂色の本をパカッと開いて、パラパラと頁を捲った。途中でその手を止め、開いた頁に目を走らせると、「じらしているのか、なるほど」と頷いた。何を考えているのか知らないが、おそらく違うからな。
殿下、本当にそれはなんですか。いやしかし知りたくない。
「それならそれで、メアリー嬢に聞け。君の納得のいく答えを返してくれるまで、しつこく」
果たしてそれでいいのだろうか。
◇
「婚約解消して、メアリーは結婚しないのか? 恋愛は? そもそもお前の好む男とはなんだ?」
その日の茶会で、メアリーはこれまで濁してきた質問に、ようやく答えた。かなり嫌嫌、渋々といった様子だったが。
「以前も申した通り、結婚はするつもりはございませんの。ですからアラン様がお気になさる必要はございません。そして恋愛ですか。それも特別、必要なものとは思えませんが…」
やはり結婚願望はないのか。
どこかホッと安心している自分がいる。だが、それは俺がメアリーの相手になることもないということだ。
「万が一火遊びを楽しむとして、その時は軽薄なお方を選びますわ。後腐れなく愉しんで、その場限りで別れる。まさに貴族的でしょう?まぁ、わたしは平民ですが。恋愛の真似事をするならば、それで十分ですわ」
ツンと顔を背け、まるでエインズワースのようなことを嘯くメアリーは気まぐれな猫のようだった。そんなことができるはずもないのに、強がる姿もまた可愛らしい。だが否定はしておかなければなるまい。
「それで都合がいいのは男だけだ。お前は傷つくだけだぞ」
だいたいメアリーは自分の魅力を知らなすぎる。美しいその容姿だけではない。高い教養に洗練された所作。不断の努力を重ねる生命力溢れる、力強さ。芯の通った姿勢に、弱者に寄り添う優しさ。人を労り気遣う細やかな心。
メアリーを知って惚れない男がいるだろうか。
男を誘うような真似はしないだろうが、美しく魅力的な女性にふらふらと吸い寄せられる毒蛾はそこらじゅうに溢れている。いるだけで人を惹きつけてやまないメアリーが、なんの構えもなく蛆虫・毒蛾に集られて、その柔らかな心を喰まれてはたまらない。
「傷つくなど、アラン様こそわたしを軽視しすぎていますわ。男女のやり取りはある程度知識にございます。実践するかは別として、知識を蓄えるのは商人として必要不可欠。文字を追う知識だけで、足らぬようであれば、この身を晒すまでのこと」
「メアリー……! お前、自分が何を言っているか、わかっているのか!」
その身を飢えた獣達の中に無防備に晒すというのか。
メアリーの白い肢体が投げ出され、薄汚い輩に蹂躪される様が脳裏に浮かぶ。絶望に染まった人形のような顔に、力なく伸ばされる細い手。
俺への当て付けで気まぐれに言葉にしただけだとしても。
あまりのことに目から火が出るかのように熱く燃え、視界はちかちかと点滅した。
薄桃色の扇で隠された口から繰り出される、メアリー自身を傷つける残酷な言葉。
メアリーは目を眇めた。
「勿論存じております。けれど、婚約解消後、アラン様が咎める筋合いがございまして?わたし達の婚約は、いずれ解消するものです。婚約解消後にわたしがどのように生きようと、アラン様には関わりのないことですわ」
挑むような好戦的な眼差しは、明らかに俺を責めていた。
俺を恨んでいるのだ。
何を口にすれば、何をすれば、俺が傷つくのか、俺が怒り狂い絶望するのか。
メアリーはよく知っている。
俺がメアリーを大事にしてきたことを、メアリーは知っているはずだ。
メアリーは許せないのだ。あの男の息子である俺と、そしてあいつらに押し付けられたこの婚約を。
婚約を解消するだけで足りるはずもなかった。
これまでメアリーの人生は奪われ続けてきたのだから。
それなのに婚約を解消することで、そこで全て精算されたと無責任に放逐しようとする俺を恨んでいる。
だがきっと情も抱いている。
長らく婚約を続け、築いてきた信頼関係もある。これは自惚れではない。メアリーの真心に触れてきた。
「わたしは、アラン様に軽薄だと罵られようが、恋愛の上澄みだけを楽しみたいだけです。あの二人のように、周囲を巻き込んで悲劇の大恋愛に興じるなんて、真っ平なの。女性は貞淑であるべきなんて、そんなのはそれこそ殿方の都合のいい幻想だわ」
吐き捨てられた言葉は、メアリーの悲鳴だった。
強い口調で言い放ち、細い眉を顰めて俺を睨みながら、扇を持つ指先は微かに震えていた。
白く細い指は要と親骨にそっと沿わされ、扇面の天が揺らぐ瞳を隠すように、上へと持ち上げられる。
エインズワースの言うことを聞いてよかったと痛感した。
俺は本当にメアリーのことをわかっていなかった。救いようのない大馬鹿者だ。
まさかメアリーが、これほどまで自暴自棄になっているとは知らなかった。
メアリーが今、俺を好いていなくてもいい。憎まれているのだとしても構わない。メアリーの同情に賭けることにしよう。
相手が誰でもいいのなら、俺がメアリーの隣に立つ。もう誰にも譲らない。
押し付けられた婚約は解消してやる。俺が俺の意志で婚姻を申し込もう。メアリーの心を奪ってやる。俺がメアリーを幸せにする。
◇
「エインズワース! いるか!」
先触れもなくファルマス公爵邸に駆け込んだ俺に、エインズワース=ファルマス家の家令や執事が慌てて待つようにと追い縋ってきていたが、それらを無視してズンズンと廊下を進んだ。
エインズワースから、気軽に訪ねてよいと許可をもらっていたからだ。
宰相を務められるファルマス公爵は勿論、ご令兄のお二方も領地代行に城仕えと、ファルマス公爵邸のタウンハウスには不在がちで、公爵夫人もまた、社交に忙しく家に留まらないらしい。基本的にエインズワースと使用人しか在宅しないから、先触れなど不要だと。格式ばったことが大好きなエインズワース=ファルマス家の使用人達は、いい顔をしないかもしれないが、気にするな、何かあればすぐに来いと言われていた。
「お待ち下さい! コールリッジ卿! そちらへはご遠慮ください! ルドウィック様は今…」
俺の進路を遮ろうとする使用人の動きから、エインズワースの居場所に見当をつける。エインズワースの名はルドウィックというのか。初めて知った。
しかし使用人達のこの慌てよう。エインズワースは気にするなと言っていたが、本当にいいのだろうか。
懸念が頭をもたげ始めたとき、応接室かと思われる部屋の、開け放たれていた豪奢な扉から、ひょっこりとストロベリーブロンドの頭が飛び出した。
「おや。ルド、話題の人物が現れたようだぞ」
輝き波打つストロベリーブロンドに、鮮やかに澄んだピジョンブラッドの大きな瞳。白皙の肌に薔薇色の頬。すっと通った鼻梁に品よく尖った鼻尖。
ふっくらと柔かそうな唇はさくらんぼのように赤く艷やかで、細く小さな顎先は、まろやかな頬から麗しいラインを繋ぐ。
真珠姫と評される繊細で楚々としたメアリーとはまた異なる美しさ。
絶世の美女と呼ぶに相応しいその人は、この国の第二王女、アンジェリカ殿下だった。
そういえば愛馬を繋いだとき、馬車置き場に一頭曳の騎馭式馬車があったな、と思い返す。
紋もなく、公爵家の馬車にしては質素だな、と違和感があったが、殿下のお忍びだったとは。
己のしでかしたらしい不始末に、慌てて膝をつこうとする。しかし殿下は朗らかに仰せになった。
「カドガンの。礼はよいぞ。なぜならお主は今日より妾の友となるのだからな!」
殿下は細い御腰に手を当て、華奢な御体をめいいっぱい大きく見せようと胸を張っている。
無邪気にキラキラと輝く瞳は、子供のようだ。
なかなか勇ましい御仁らしい。
どうしたものかと視線を泳がせると、殿下の背後から現れたエインズワースがニヤリと笑った。おいエルフ。お前、最近底意地の悪さが顔に透けているぞ。
「飛んで火にいる夏の虫、だね」
女の口説き方を教えてくれなどとと言い出せば、どうなるのだろうか。
思わず遠い目になった俺の手を引き、似たような含み笑いを浮かべた殿下とエインズワースが、「さぁさぁ」と急き立てるように応接室へと引き摺り込んでいった。