2 貴族でよかった
婚約を破棄したい、と言うと、メアリーは思ってもみなかった様子で目を瞬いた。
その無邪気な様子に思わず心臓が跳ねる。
婚約してから三年。最近ではメアリーを前に、冷静な態度を保つことが難しい。普通の婚約関係だって、婚約者らしく節度を持って、礼儀正しい距離を保たなければならないのに。それどころかメアリーと俺の婚約は祝福されないもので、そして何よりメアリーが疎んじている。
「アラン様はわたしが嫌いなの?」
きょとん、と目を丸くして問いかけるメアリーに、口元がだらしなく緩んでしまいそうになる。意識して引き締めた。
メアリーを嫌うなんて、そんなことは天と地がひっくり返ってもありえない。
だけど俺のメアリーへの想いを知ったら、優しいメアリーは俺との婚約破棄に了承しないだろう。
いつでも自分の願いや気持ちに蓋をして、周囲の人間を優先するメアリー。そうすることでようやく、愛してもらえると思っている。そんなことはないのに。そんなことをしなくていいのに。
メアリーの思うがまま、やりたいようにやればいいのに。
だけど俺にそんなことを言う資格はない。
俺はメアリーに望まれていない人間だから。裏切りの象徴である俺が側にいれば、メアリーの傷を一層抉ってしまう。
「そうじゃない。俺は、あいつらの思う通りになることを許せない」
無理やり言葉を返す。
それに嘘ではない。
あいつらの思う通りになって、メアリーをこれ以上傷つけるなど。そんなことを自分に許すことはできない。
メアリーが気に病まぬよう、そしてそれらしい理由に見えるであろう母のことを持ち出し、メアリーによりよい条件で婚約を破棄しようと提案するが、メアリーはなかなか承諾しようとしなかった。
なぜだろう。
もしかしてこの三年の婚約期間で、メアリーも俺のことを大事に思うようになってくれたのか。隠れていた期待が顔を出し始める。
内心そわそわと浮かれ出した心を静め、緩みそうになる顔を引き締めた。
この婚約が嫌ではないのか、思い切ってメアリーに確認することにした。
「メアリーは、このままあいつらの思うまま、結婚して悔しくないのか?」
メアリーがまた無邪気な様子でパチパチと目を瞬く。これはもしかして、自惚れてもいいのだろうか。急速に体中が熱くなってくる。
しかしメアリーはどこか諦めたような、投げやりな様子で言葉を口にした。
「わたし、結婚に夢など見ていないの」
そうか。それはそうだろうな。
当然だ。あいつらを見ていれば、夢など見られるはずもなかった。
俺はメアリーを愛しているが、メアリーはそうではない。好きな男相手ならともかく、裏切りの象徴たる俺が婚約者なのだ。結婚を夢見るはずがない。
一瞬でも自惚れた自分に反吐が出る。メアリーの幸せを願っているだと?
結局俺も、自分のことばかりだ。
「ですからね、わたし、婚約破棄を受け入れますわ」
そうだな。だけど、婚約破棄が現状できないと俺に説き伏せたのはメアリーだ。それを問うと、メアリーはとんでもないことを言い出した。
「ええ、今は無理ですわね。ですがアラン様が成人なされて伯爵位を継がれた後でしたら、もう口出しされることはないでしょう」
「だから! それだとメアリーが行き遅れるだろう!」
思わずテーブルを叩きつけてしまう。
そんなことは許せない。メアリーが幸せにならなければ意味がない。
「ですから結婚に夢など見ていないの。結婚などしなくていいわ」
結婚をしない? この国で結婚をせずに女性が一人で生きていくのは難しい。それがたとえ平民であっても。それにメアリーはウォールデン家を厭うているはずだ。ウォールデン家に留まり、暮らしていくのは、つらいのではないか。
「そういうわけにはいかないだろう。結婚もせず、どうやって暮らしていくんだ?」
そう問うと、メアリーは片眉をぴくりと上げた。
どうやらメアリーの矜持を傷つけたらしい。メアリーが能力のない者だと、俺が断じたと思われたのだろうか。
「わたしは商家の娘。いくらでも身の立てようがあります。貴族のご令嬢はお屋敷の差配だったり社交だったりで、御家の繁栄に助力するのでしょうけれど、商人が家に籠っていては何の商売もできないの」
やはりそうか。
メアリーが商売人として、能がないなどと思ったことはない。誰より才があり、力がある女性だと尊敬している。
しかし、それでもウォールデン家はやや旧い考えを持つ商家だ。
貴族に阿る性質で、女性が前面に出ることを快く思わないだろう。特にメアリーの祖父のウォールデン氏はその傾向が強い。
代替わりすれば、多少その風向きは変わるかもしれない。だが、代替わりしてしまえば、ますますメアリーの立場は弱くなる。
メアリーのご尊父は入り婿な上、店を継ぐわけではないし、メアリーの母親の所業を、次期ウォールデン当主であるメアリーの御令叔は苦々しく思われている。
メアリーのウォールデン家での居場所は、おそらくない。
「ええ。そもそもアラン様と結婚したとしても、わたしは働くつもりでした」
「……それは無理だ。貴族は体面を気にする。妻を働かせるなど、カドガン伯爵家の名誉に関わる」
針の筵だとわかっているのに、メアリーをウォールデン家で働かせることなどできるはずがない。
「そうでしょうね。ですからこの時限爆弾はわたしにとっても都合がよいのです」
メアリーがこれまでになく妖艶に微笑む。無邪気で可憐な少女は、美しい淑女へと羽化していく。
「わたしは真珠姫になどならないわ」
そうだな。メアリーはそんなものに収まらない。
「アラン様、これはお互いにとって利のあることです。アラン様が伯爵位を継ぐまで、わたしが虫よけを致します。そしてアラン様は、わたしが女だてらに学問をすることの盾になってください」
メアリーが望むなら、俺がそれを叶えよう。いくらでも学べばいい。
確かに女性が学問を為すには、未だ世間の反発は強い。俺が盾になる。
そしてメアリーにとってウォールデンが居心地のよい場所となるよう、尽力しよう。
いや、ウォールデンの他に、メアリーの新たな居場所を見つけてもいい。
メアリーの才を見縊らず正しく評価し伸ばすような、そんな場所をウォールデンでも、その他でも、必ず俺が作ってやる。
カドガン伯爵嫡男としての力をここで使わず、どこで使う。
貴族でよかったと、コールリッジ=カドガン家がそれなりに権威のある家でよかったと、初めて思った。