ニエブラの森
大陸北西部に位置する広大な森林地帯、通称ニエブラの森。
交通の要所でありながら、日常的に霧がかかる時間帯が多く道に迷いやすい、旅人泣かせの難所として古くから忌み嫌われていた。
森を安全に抜けるためには現地のガイドを付けるのが鉄則だが、出費を惜しむ個人旅行者などが単独で森を進み、遭難してしまうケースも少なくない。遭難者はそのまま森の奥深くに迷い込んだ挙句に飢え死に、ないしは森に生息する野犬や熊の餌食となってしまう場合がほとんどだが、運が良ければ近くの村の住人に発見され、保護してもらえることもあるという。
「もし、どうかされましたか?」
ニエブラの森を流れる川の岸辺で、素朴な顔立ちの女性が、地図と睨み合う青年に声をかけた。青年は三つ揃えのツイードスーツにハンチング帽を被り、腰には刀を携帯している。
青年の顔には見覚えがなく、足元には旅行鞄を置いている。紳士的な身なりと合わせて、都会からやってきた旅行者だと女性は思った。
「旅の途中で不覚にも道に迷ってしまったようだ。ニエブラの森を甘く見ていた」
「見たところお怪我もないようですし、運が良かったですね。道に迷って、そのまま野生動物に襲われてしまう旅人も少なくないですから」
「君は地元の住人か?」
「近くのセルバ村で暮らしている、カリーナと申します。旅人さんのお名前は?」
カリーナが朗らかに笑うと、被ったスカーフから覗く三つ編みが揺れた。表情豊かで愛嬌のある女性だ。年の頃は二十歳前後といったところだろうか。収穫帰りなのか、腕の籠には大量の木の実が入っている。
「旅の剣士、ダミアンだ」
「ダミアンさんですね。差し支えなければこのまま村までご案内します。道に迷った方を放ってはおけませんから」
「心遣いに感謝する」
「困った時はお互い様です。それにしてもダミアンさんは本当に運が良い。セルバ村まではここから歩いて数分です。この川も日常的に利用している漁場ですから」
霧がかかっていて分かりにくいが、川からセルバ村までは、住民によって切り開かれた道が存在している。迷って命を落とす旅人も多い中、セルバ村の直ぐ近くで発見されることはかなりの幸運といえる。
「私の後についてきてください。これからさらに霧の深い時間になりますから、見失わないでくださいね」
※※※
セルバ村はニエブラの森の中で、特定の条件が重なり霧がかかりにくなった場所を開拓し生まれた、人口四十名程度の小さな村だ。清らかな水源と豊富な漁場、農作業に適した土壌にも恵まれている。
住民の人柄も温厚で、ニエブラの森で迷った旅人を見つければ、快く村に招き入れてくれる。毎年多くの遭難者を出すニエブラの森だが、セルバ村のおかげで旅人が事なきを得た例も多い。
「とんだ災難でしたな。これからの時間はますます霧も濃くなるし、今日はこの村でゆっくり休んでいってください。明日には、安全に森を抜けられるように案内人もつけましょう」
口ひげが特徴的なセルバ村のエルネスト村長は、カリーナから紹介された旅人のダミアンを快く受け入れた。村の中央広場に集った住民達にも異論はなく、温かい笑顔と拍手でダミアンを受け入れている。
「恩に着る。宿代と案内料はしっかり払わせてもらうよ」
「お代など気になさらずに。困ったときはお互い様ですから」
「重ねて礼を言う。せめて滞在中、男手が必要なことがあれば手伝わせてくれ。力と体力には自信がある」
ダミアンは受けた恩はしっかりと返す主義だ。そういうことならと、エルネスト村長も今度は素直に頷いた。
「カリーナ。お客人を宿泊所まで案内してあげなさい」
「かしこまりました。ダミアン様、こちらです」
ダミアンは村の奥にある、来客用の宿泊所へと通された。道中、ダミアンの姿を見かけた村の住人は皆、爽やかな笑顔を浮かべて旅人の来訪を歓迎していた。
「宿泊所はこちらになります。滞在中はどうぞご自由にお使いください」
通された宿泊所は部屋を仕切る壁がなく、広い一室にベッドが六つ備え付けらていた。寝所としてのみ利用されており、壁際に備え付けられた机以外には家具の類は置かれていない。天井も高く、全体的にとても開けた空間だ。
「こんな広くて立派な建物を私一人で使って本当にいいのか?」
「お客様の寝所として使用している場所ですので遠慮なくお使いください。お食事に関しては、夜に村の広場で歓迎の宴を開きますので、楽しみにしていてくださいね」
「流石にそこまでしてもらうのは申し訳ない。私は客人ではなく、ただの迷い人だ」
「理由はなんであれ、村を訪れた方々は誰もが大切なお客様。それを盛大に持て成すのが、我らセルバ村の流儀です。本音を言えば、霧深い森の中に佇むという立場上、我らは人恋しいのです。だからこそ外との交流を大切にする。ダミアン様は旅人とのことですから、どうか遊歴のお話しでも皆に聞かせてあげてください。きっと喜びますから」
「郷に入っては郷に従えか。そういうことならば話の題目でもまとめておくことにする」
「ありがとうございます。宴の準備が整いましたらお呼びしますので、それまではこちらで旅の疲れを癒してください」
そう言って、カリーナは旅人用の宿泊所を後にしていった。
「本当に親切な村だな」
一人になったダミアンは旅行鞄をベッドの側に置き、自身は机の椅子へと腰を下ろした。
改めて宿泊所内を見渡すと、壁がなく、面積に対してベッド数も少ないのでかなりの解放感がある。しかし、同時に妙な閉塞感も存在していた。
「窓のせいか」
宿泊所の壁には窓がなく、代わりに天窓から光を取り込んでいた。寝所として利用するだけの場所なので、無駄に窓を作らなかったのかもしれない。




