宿屋
「場所だけ教えてくれれば十分だったのだが」
「どうせ警邏に出る時間でしたのでお気になさらず」
保安官事務所を出たダミアンはリズベットの勝手な案内で、南区の路地に面する三階建ての宿屋を訪れていた。一連の事件を受け、夕暮れ時前にも関わらず路地にほとんど人気が感じられない。一時的に晴れていた霧が再び町を覆い始め、薄気味悪さに拍車をかけている。
「ゲオルグさん、宿泊のお客様を連れてきましたよ」
「おやおや、リズベットさん」
宿屋に入ると、ゲオルグと呼ばれた宿屋の主人が朗らかな笑みで二人を迎えた。
髪は赤毛で、掘りの深い端正な顔立ちをしている。年の頃は三十代前半といったところか。背丈こそが平均的だが体格はがっちりしている。
「保安官事務所のお客様ですか?」
「そんなところです。それでは私はこのまま警邏に向かいますので、後はよろしくお願いします」
「いつもお疲れ様です」
気心知れた様子でゲオルグは笑顔でリズベットを送り出した。
主に外部からやって来た人間が利用する宿屋という性質上、治安維持を担う保安官事務所とは親密な関係にあるのだろう。しかし、流れ者が廃墟に居ついている現状では、宿屋の情報網は以前ほど機能はしていない。
「お名前の記帳をお願いいたします。お連れ様があればその方の分も――おっと、申し訳ありません」
うっかり頁を送り忘れたのか、差し出された頁はすでに記帳でいっぱいだった。ダミアンは自分で頁を送り、空の一行目に自分の名前を記帳した。
「何拍ご利用の予定ですか?」
「とりあえず二泊。状況によっては滞在期間が延びるかもしれない」
「分かりました。それでは前払いで二泊分のご利用料金を頂戴いたします。滞在期間を延長なされる場合は、その都度料金をお支払い頂くという形で」
「承知した」
支払いのために硬貨が入った布袋を取り出し、ダミアンは手短に宿泊の手続きを済ませた。
「お部屋までご案内いたします」
ゲオルグに案内され、ダミアンは三階奥の客室へと通された。宿内は閑散としておりほとんどが空室だ。利用されている部屋からは時々、情事と思しき艶めかしい声が聞こえてくる。純粋な宿泊者ではなく、訳ありな男女が逢引の場として利用しているのだろう。
町の現状を考えれば外部からやって来る宿泊客など微々たるもの。客を選り好みしている余裕はないということなのかもしれない。良くも悪くも環境に影響されないのがダミアンの特技の一つ。例え就寝時間に隣室から喘ぎ声が聞こえてきたとしても、ダミアンはしっかりと自分のペースで睡眠をとることが出来る。
「こちらがお客様のお部屋となります。何か御用等ありましたらお気軽にお申し付けください」
「早速で申し訳ないが、一つ話を聞かせて頂きたい」
「お話し、ですか?」
想定していたのは掃除や食事の世話だけだ。思わぬ申し出にゲオルグは小首を傾げる。
「以前にそこの路地裏で発生した事件について聞きたい。あなたは逃走する犯人の姿を目撃しているのだろう?」
「保安官事務所のお客様とは聞いていましたが、なるほどあの事件についてですか。しかし、私は目撃した全ての情報を証言しています。今更新しい情報などありませんよ」
「念のためだ」
重要な証言を保安官が聞き漏らしたとも思えないし、ダミアンとて捜査記録を疑ってはいない。ただ資料上の文面と、感情の乗った当事者の生の声とでは受ける印象がまた変わって来る。そこに事件解決の思わぬ糸口が見つかるかもしれない。
「あなたは当日、何階から目撃を?」
ダミアンは窓を開け、逃走する不審人物が目撃された路地裏を見下ろした。
「一階からです。受付の奥が私の住居となっておりまして、そこの窓から覗き込んだ形です」
「路地裏に街灯の類は?」
「ありませんよ。都市部ならともかく、地方の路地裏にまではなかなかね」
「それもそうか」
外の確認を済ませてダミアンが頭を室内に引っ込めると、宿内に呼び鈴らしき音が鳴り響いた。
「すみません、他のお客様がお呼びのようです」
「呼び止めてすまなかったな」
本来の業務を邪魔してしまっては申し訳ない。まだ幾つか聞いてみたいことはあったが、それ以上引き留めはしなかった。
「お酒ですね。直ぐにご用意いたします――」
呼びつけられた客室は同じ階だったようだ。酒を注文する客とゲオルグとのやり取りがダミアンの部屋まで聞こえてきた。
「霧の町の殺人鬼か」
ベッドに腰を下ろしたダミアンはそんな通り名を口にした。
誰が最初にそう呼んだか定かではないが、件の連続殺人犯について、捜査資料にはそのような通称で記載されていた。




