狂気覚醒
「ああああああ――」
ローズの絶叫が響き渡る。彼女が男と対峙してからすでに五分以上が経過しているが、彼女は死という終着を迎えることも出来ず、絶えず悲鳴を上げ続けている。嗜虐趣味な剣士が死なない程度に攻撃を加減し、少しずつ全身を切り刻み、ローズがどこまで持ち堪えることが出来るのかを楽しんでいるのだ。ローズは激痛に悲鳴を上げても決して許しを乞うたり、運命を呪う言葉を吐きはしない。あるいはそんな思考もままならない程に、激痛に全てを支配されているのかもしれない。
――止めてくれ。もう止めてくれ!
荷馬車の積荷に逃げ込んでいたダミアンは、初恋の人の悲痛な叫びを聞き続けることしか出来なかった。父と母はあまりにも儚く、断末魔の悲鳴さえもなく死んだ。それ故に死の実感が湧いてはこなかった。だがローズは違う。幼い頃から聞き慣れた彼女は、喉が潰れそうな程の絶叫を上げ、痛みで意識を失いかけると、さらなる激痛を与えられて意識を覚醒させられる。それが繰り返されていた。最大限の恐怖と痛みを与え続けられたローズの絶叫は、もはや獣のそれに近い。絶えずをそれを聞き続けたダミアンの精神も限界に近付いている。
「げあっ――」
――ローズ?
血の塊を吐き出すよう恐ろしいえづきを最後に、ローズの悲鳴がピタリとやんだ。その沈黙はある意味で悲鳴よりも恐ろしかった。今まさに命の灯が消えたのだと、積荷の暗闇の中でダミアンに絶望が襲い掛かる。
――どうしてこんなことに……。僕たちは何もしてない。何もしていないじゃないか!
それまで恐怖に支配されていた幼き器に、鋭利でどす黒い感情が湧き上がって来た。人を人とも思わぬあまりにも残虐な行為。最大限の痛みと恐怖を持ってあの男はローズを殺した。存在は殺人鬼などという枠には収まらない。あれは狂気の塊、人間の形をした災厄そのものなのだ。
許せない。許せるわけがない。あんな奴を許しておけない。
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
殺さなければあれは死を撒き散らし続ける。
「あいつを殺さないと」
布が被せられ暗闇に包まれている荷馬車の中で、ダミアンは手探りで凶器になりそうなものを探す。その右手が一振りの刀の鞘へと触れる。
「お前で最後だ。小僧」
ローズを殺した剣士が、ダミアンの隠れていた荷馬車の布を引き剥がした。次の瞬間。
「死ねえ!」
布の死角に隠れていたダミアンが和装の男へと飛びかかり、手にしていた刀を小柄な体躯で精一杯振り下ろした。
「見事な一撃だ」
完全に意表を突かれたが、男は冷静に一歩身を引いて刀の軌道から外れた。ダミアンの振り下ろした刀身は虚空を切る。
「そうかそうか。お前がそうだったのか!」
男はこの日一番の歓喜の声を上げた。自分の見立ては間違っていなかった。やはり乱時雨はすでに使い手を見出していたからこそ、大人しく商人の荷馬車に揺られていたのだ。
身の丈に合わず、小柄なダミアンは妖刀乱時雨の刀身を引き摺っているが、その眼に宿る狂気は紛れもなく魔剣士のそれだ。元々魔剣士としての資質を持っていた幼き器が、愛する人々の残酷な死に遭遇し精神が限界を迎えたことで、狂気が覚醒したのだ。ふらりと立ち寄ったこの地で、乱時雨と遭遇し、自分が使い手の覚醒のきっかけを作ったという事実に、男は運命めいたものを感じずにはいられなかった。
「殺してやる!」
ダミアンは不格好に乱時雨を振り上げて、男へと斬りかかる。子供の筋力で打刀をそうそう振り上げられるものではない。乱時雨が肉体に作用し、すでに筋力の限界を超えた活動を可能としているのだろう。しかし、あくまでそれは、これまでまともに剣も振るったことのない子供の動き。乱時雨自体も特殊な攻撃方法を持つ類の魔剣ではない。勝負になるはずもなかった。
「その痛みは勉強量だ。どうせ治るから安心しろ」
「えっ? う……あああああああ――」
刹那、それまで正面にいたはずの男の姿が消え背後から声がした。そのままダミアンはバランスを崩して転倒し、激痛に絶叫する。両足が膝下の位置で完全に切断されていた。これではもう動くことは出来ない。
「いいねその目。歴戦の魔剣士にも負けない良い狂気を宿している」
しゃがみ込んだ男がダミアンの頭髪を掴んで上半身を反らせ、顔を付き合わせた。ダミアンの瞳からは幼さが消え、一睨みで相手を切り殺せそうなほどに鋭利な殺意を宿している。
「絶対に殺してやる……」
「そうだな。妖刀乱時雨を手にしたお前なら、いつか俺を殺せるかもしれない」
怒りと激痛に顔を歪めるダミアンとは対照的に、男は満面に喜悦の色を浮かべている。妖刀に選ばれた少年との出会いには運命を感じずにはいられない。ダミアンこそが、数百年待ち望んでいた好敵手足り得る存在なのだ。
「何をする!」
「よく見てろ」
男が切断したダミアンの左足を拾い、切断面の膝下に当てた。すると見る見るうちに骨や筋肉繊維が繋がっていき、傷跡一つ残さず元通りになった。
「足が……」
「これがお前の手にした、妖刀乱時雨の力だ。乱時雨は所有者のあらゆる肉体的損傷を修復し、その力は肉体を時の軛からさえも解放する。修復については今見せた通りだ。時の軛については実感は湧かないだろうが、後十数年も経てばお前も実感するさ。肉体が全盛期から一切衰えないことをな!」
「ああああああああ――」
余計な抵抗を避けるために、男は繋がった直後のダミアンの足を再び切断し、切り離した足を切り刻んだ。繋ぐのではなく、無から肉体を再生するまでには相応の時間を必要とする。これでダミアンはもう、立ち去ろうとする男の背中を追いかけることは出来ない。
「よく聞け小僧。お前は妖刀乱時雨を手にした。俺を滅ぼす好敵手として、運命がお前を選んだということだ。乱時雨の能力を得たお前は、あらゆる苛烈な修行に耐え、文字通り無限に成長を続けるだろう。何年、何十年、かかってもいい。力をつけて、いつか俺を殺しにこい!」
「上等だ! 僕は強くなる。強くなっていつかお前を殺す。僕がお前を狩る日を、首を洗って待っていろ魔剣士!」
「その意気や良し。ならば、俺が振るうこの刀の銘をよく覚えておけ」
男は乱時雨の所有者との本気の殺し合いを望んでいたが、所有者はあまりにも未熟な少年であった。だが、未熟故にこの先どこまでも強くなれる可能性を秘めている。最強の魔剣士にだってなれる逸材かもしれない。目先の剣豪と相対するよりも、未来の刺客との因縁を作る方がよっぽど心躍るというものだ。直接対決とはならなかったが、男にとって今回の襲撃は実りあるものだった。
「妖刀『篠突雨刻』が、いつでもお前との殺し合いを待っているぞ」
両足を失ったダミアンをその場に捨て置くと、男は高笑いを上げて踵を返した。
狂気と殺意という名の種は巻いた。数十年、あるいは数百年たった暁に、実った果実がどれほどおどろおどろしい色をしているか、今から楽しみで仕方がない。絶え間なく降り注ぐ雨の中に、幽鬼のような背中は消えていった。大量の斬殺死体と、一人の幼い魔剣士をその場に残して。
※※※
「痛い! 痛い! 痛いいいいい――」
男が立ち去った後、傷の切断面の激しい激痛とそれに起因した発熱がダミアンを襲った。乱時雨の作用により、一思いに気絶したり、死ぬことも許されない。肉体の損傷が完全に再生するまで、地獄の苦しみは続いた。魔剣士となった直後故に、修復できるとはいえ、痛みそのものへの耐性は常人なみであった。精神が完全に肉体の痛みを超越出来るようになったのは、もっと先の話だ。
「……父さん、母さん、ローズ。助けられなくてごめんなさい」
痛みを耐え切り、足が元通りとなったダミアンは覚束ない足取りで、両親とローズの遺体へと近づいた。両親は首や胴体を切断された惨たらしい姿で亡くなっていたが、生前の面影を残していた分、まだマシに思えてしまった。より惨かったのはローズの亡骸で、全身の至るところが切り刻まれて、面影を何一つ残していない。耳や眼球も、生前に執拗に切りつけられていた。
「ごめんよローズ。弱い僕には何も出来なかった。君に守られてばかりで、僕は僕は……」
ダミアンはローズを亡骸を抱き起し、額と額とを重ねた。ローズは最後の瞬間まで自分を守ってくれた。最後まであの狂気の魔剣士に立ち向かい続けた。自分に力が無かったことを、ダミアンは悔やみ続けた。
初恋の人はもうこの世にはいない。愛する両親も、平穏な日常も、人間らしい人生も、ダミアンを取り巻くあらゆる状況が、たった数十分間の襲撃で激変してしまった。残されたものは、惨状を招いた魔剣士に対する殺意と狂気だけだ。
「……僕は強くなる。何年、何十年かかっても、あの魔剣士を殺してみせるから」
ローズや両親の遺体と対面しても、涙一つ流れはしない。ダミアンが引き返すことの出来ない狂気の道へと足を踏み入れた瞬間だ。
心は痛んだが、子供一人では犠牲者たちをまともに弔ってやることは出来ず、近くの町に匿名で通報するのが精いっぱいだった。
こうして後に後世に伝わっているのが、死者三十九名、行方不明者一名を出したラルム丘陵での隊商襲撃事件である。行方不明扱いとなっている当時十歳の少年が、後の魔剣士狩りと呼ばれる剣士と同一人物であることを知る者は誰もいない。




