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魔剣士狩り  作者: 湖城マコト
暴食の章
152/166

愛しい息子

「その包丁で、何を?」

「包丁! ふざけないで、息子のダンテだと言っているでしょう!」

「きゃああああああああ」


 声を荒げたアンナリーザが巨大な包丁を振り下ろす。恐怖を感じたソニアは咄嗟に椅子から転げ落ちるように回避した。巨大な包丁は食堂のテーブルを直撃、その衝撃で木製のテーブルは中心でへし折れてしまった。


「……私に、いったい何を」

「あなたも私の意見に賛同してくれたでしょう。子供がお腹いっぱい食べられることは、何にも勝る幸福だって」


 言い終えると、巨大な包丁に無数に存在する口が一斉に開閉を繰り返し、金属音と咀嚼音が混ざったような、気味の悪い音を鳴らし始めた。


「あらあら可愛い坊や。今日はまた随分と食欲旺盛なのね。だけどごめんなさい。この人は大事なお客様だから、事情ぐらいは説明してあげないと。これで少し我慢してて」

「ひっ……」


 アンナリーザがポケットから取り出した物体を見て、ソニアが短い悲鳴を上げる。アンナリーザが取り出したのは、真新しい人間の片耳だった。それを包丁の口に一つ差し出すと、すり鉢状の歯が高速回転、耳をすり潰し、一気に飲み込んでしまった。その光景はまさに食事。本来は調理器具であるはずの包丁が、人間の耳を喰らっている。


「この子は人間のお肉が大好きで、本当に美味しそうに食べてくれるわ。母親として、この子にはお腹いっぱい食べてほしいじゃない」

「……まさか、私を食べさせるつもりですか?」


 あまりにも現実離れした状況だが、人間の耳を喰らう異形の包丁を目の当たりにした以上、最悪の想像しか働かなかった。


「同じ母親として、私の意見に賛同してくれたあなたなら、もちろん受け入れてくれるわよね」

「そ、そんなつもりでは言っていません! 誰が進んで包丁に食べられようなんて」


 根本的に話が噛み合っていない。ソニアはあくまでも平和的な理想を述べたに過ぎない。しかし、狂気に支配されたアンナリーザに正論なんて届かない。


「あなた、あんなにも真っ直ぐな目で私に嘘をついたというの? 何と恐ろしい人なんでしょう!」

「痛い……止め」


 血走った目で激昂したアンナリーザがソニアの髪を掴み上げ、そのまま床へと強く押し倒した。


「それとあなた、二回も私の可愛いダンテを包丁と呼んだわね? 何度言ったら分かるのかしら。この子は私の息子のダンテ。こんなにも愛おしい天使のような子を包丁呼ばわりなんて。嘘つきなだけあってあなたは心まで汚れているのね。それとも単純に目が悪いのかしら?」


 狂気的な笑みを浮かべたアンナリーザが、すり鉢状の歯を覗かせる包丁の刃を、少しずつソニアの顔へと近づけていく。


「天使と包丁の見分けもつかない腐った目玉なんて不要でしょう。先ずはその目から頂くわ。この子が食べにくいから、なるべく暴れないで頂戴ね」

「嫌、止めて……私には娘がいるの。私の帰りを待っているのよ」

「我が子を愛する気持ち。よく分かるわ。だからこそあなたにも分かるでしょう。他人の子供より、自分の子供が何よりも大切だって」


 母親としての良心に訴えかけても、アンナリーザにはまるで届かなかった。今のアンナリーザは、息子と呼ぶ異形の包丁の食欲を満たすことだけに執着した狂人だ。


 凶悪な歯列と激痛がソニアに襲い掛かろうとしたその時。


「うおおおおおおお!」

「あぐあっ――」


 アンナリーザの背後から、ジョナタが無我夢中に木製の椅子を振るった。背後への警戒を怠っていたアンナリーザは側頭部に直撃。巨大な包丁を握ったまま、アンナリーザの体が真横に倒れて行った。間一髪のところでソニアは生きたまま目玉を食われることを免れた。


「ソニア、無事か!」

「あ、あなた。良かった」


 窮地を救ってくれた夫の行動に、ソニアは安堵の涙を浮かべていた。

 対するジョナタは状況に理解が追いつかず、妻を救うためとはいえ、咄嗟にアンナリーザを椅子で殴りつけてしまったという事実に驚き、我に返って椅子をその場に落とした。考えるよりも先に体が勝手に動いていた。


「悲鳴と物音で目が覚めて、慌てて二階から駈け下りてきたらこの状況だ。いったい何があったんだ?」

「分からない。突然アンナリーザが包丁で襲いかか――あなた、危ない!」

「うわっ!」


 息を吹き返したアンナリーザが、無言でジョナタ目掛けて巨大な包丁を振り下ろす。ソニアの咄嗟の呼び掛けに体が反応したおかげで、ギリギリのところで回避に成功した。そのまま肩を抱くようにして、ジョナタはソニアを立ち上がらせた。


「妻が妻なら夫も夫ね。嘘つきな妻の伴侶は暴力夫ときた。なんて酷い夫婦なんでしょう」


 椅子の一撃で側頭部から流血しているが、アンナリーザの意識はしっかりとしており足取りも問題ない。衝撃でカチューシャが外れたことで前髪が降り、隙間から覗く双眸はこれまで以上に狂気の色を孕んでいる。アンナリーザの感情に共鳴するかのように、巨大な包丁の無数の口が歯を鳴らし、耳障りな音を立てる。


 今だに状況を把握出来ておらず、アンナリーザが手にする凶器にまで意識が向いていなかったジョナタは、初めてその異様な凶器を目の当たりにした。


「何だ、あの気味の悪い巨大な包丁は」

「私が聞きたいぐらい。あの包丁、誰のか知らないけど人間の耳を食べてた。アンナリーザはあの包丁に私達を食わせるつもりよ」

「おいおい、昔話に出てくる旅人を喰らう怪物か何かかよ」


 冗談でも言わないとやっていられない。夢ならとんだ悪夢だが、生憎と妻の悲鳴で飛び起きた目と頭は完全に醒めている。異常な現実を受け止めざるをえない。


「ソニア。下がっているんだ」


 ソニアに距離を取らせると、ジョナタは護身用に、近くに立てかけてあった長いブラシを手に取った。異様な武器を手にしているが相手は女性一人だ。何とか無力化して屋敷を脱出しようとジョナタは考えた。包丁も長剣なみのリーチを持っているが、重量故にアンナリーザの腕力で扱いきれておらず、攻撃のモーションが大きくなりがちだ。付け入る隙はある。


「お望みとあればあなたから食らってあげましょう。うちの子は噛み応えのある男性のお肉が大好きなのよ」


 アンナリーザが巨大な包丁で刺突を構えた。重量のある刀身を水平に保つのがやっとの様子で、刺突にそこまでの速度と威力が出るとは思えない。冷静に回避すれば問題はないと、ジョナタはしっかりとアンナリーザの動きを注視した。しかし、常識外の凶器が放つ攻撃は、やはり常識の枠に収まらないものであった。


「そ、そんなのありかよ」


 アンナリーザ自身が刺突で突っ込んでくるかと思いきや、アンナリーザはその場を動かず、代わりに包丁の刀身そのものが伸びてジョナタに襲い掛かって来た。無数の口も相まって、まるで生物が捕食のために首を伸ばしているかのようである。伸びて来た包丁を回避しながら、咄嗟にブラシで払い除けようとしたが、ブラシは刀身に生えた口に飲まれ、すり鉢状の歯で一瞬で木っ端微塵になってしまった。それでも、伸びた刀身はギリギリだが回避できた。はずだった。


「があっ! 痛ってええええ」


 回避と同時にジョナタの左腕に激痛が走った。刀身が突き刺さることは免れたが、側面についていた口が、すれ違いざまにジョナタの上腕を掠めたのである。すり鉢状の歯に削られ、腕の肉が僅かに抉れてしまった。ジョナタの肉を飲み込みながら巨大な包丁は伸縮、再びアンナリーザの手元へと戻っていった。


「まあまあ、こんなに美味しそうにして」


 包丁の口のついていない部分を、アンナリーザは満面の笑みで愛でた。


「あなた!」


 慌ててジョナタの元へ駆け寄ったソニアが、ハンカチをジョナタの腕に当てた。幸い、噛み傷は骨までは達していないようだが、かなりの激痛に違いない。


「ソニア。俺が何とか時間を稼ぐから、お前は馬で逃げろ」

「いやよ。あなたを置いてはいけない」

「このままじゃ二人とも殺されてしまう。そうなれば僕達の帰りを待っているリンダはどうなる? せめて君だけでも生き延びてくれ」

「そんなのってないわ。リンダが大きくなったら親子三人で行商の旅をする夢はどうするのよ」


 絶望的な状況なのは分かっているが、だからといって愛する夫の命を犠牲にする選択などソニアには出来なかった。二人で娘の元へ帰るんだ。そうでなければ、きっと一生心の底から笑うことなんて出来ない。夫を、娘の父親を犠牲にしたという事実に、この先きっと耐えられない。


「一人は逃げ切れる前提で話しているようだけど、私がそれを許すと思っているのかしら?」


 夫婦のやり取りに容赦なく割り込んで来たアンナリーザが包丁を伸ばしたのはソニアに向けてだった。それに気づいたジョナタが咄嗟にソニアを守るように抱きしめたが、直ぐにそれは失策だと悟った。あんなに巨大な包丁が生き物のように襲ってくるのだ。成人男性一人の肉体など易々と貫通してしまうに違いない。そうなれば、ソニア共々串刺しにされてしまう。しかし、今からでは回避は間に合わない。夫婦の絶望感に反応したかのように、雷鳴が周囲に轟いた。


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